巻二百五 列伝第一百三十

唐書巻二百五

列伝第一百三十

列女


李徳武妻裴淑英 楊慶妻王 房玄齢妻盧 独孤師仁姆王蘭英 楊三安妻李 樊会仁母敬 衛孝女無忌 鄭義宗妻盧 劉寂妻夏侯碎金 于敏直妻張 楚王霊龜妃上官 楊紹宗妻王 賈孝女 李氏妻王阿足 樊彦琛妻魏 李畬母 汴女李 崔繪妻盧 堅貞節婦李 符鳳妻玉英 高叡妻秦 王琳妻韋 盧惟清妻徐 饒娥 竇伯女仲女 盧甫妻李 鄒待徴妻薄 金節婦 高愍女 楊烈婦 賈直言妻董 李孝女妙法 李湍妻 董昌齢母楊 王孝女和子 段居貞妻謝 楊含妻蕭 韋雍妻蕭 衡方厚妻程 鄭孝女 李廷節妻崔 殷保晦妻封絢 竇烈婦 李拯妻盧 山陽女趙 周迪妻 朱延壽妻王


  女性の道とは、親に対して孝行であること、妻にとって節を守ること、母にとって義(ただ)しく慈しみ深いこと、これらに尽きる。中古以前は、書に后妃や夫人の記録が載っていて、天下の女性は教化されていた。のちに女性の史官職が廃止されて、婦人の教えや、乳母のきまりは家庭に及ばず、そのため賢女として記されるべき者も千年の間に数が少なくなって、あい望まれるようになっていた。唐が興って、教化が行われて数百年、名誉ある家の立派な姓を持つしとやかな淑女たちは、大きな困難にのぞんでも、礼節を守り、あたかも抜き身の刃を移すことができないように、しぜんと哲人烈士たちと不朽の名を争って、まるで寒中の霜雪のようであった。また貴ぶべきではないか。今もっとも著名なものを取りあげて、もって父、子、夫、妻たちの賞讃すべきところを尋ねただすものである。


  李徳武の妻の裴氏は、字を淑英といい、安邑公の裴矩のむすめであって、孝行であることで、村里に聞こえていた。夫の徳武は隋にあって、事件に連座して嶺南に左遷された。ときに嫁いでちょうど一年を越えていなかったので、父の裴矩はむすめを離婚させた。
  徳武が裴氏に述べていうことには、
「わたしはちょうどおとしめられ、本道に帰れない。君はぜひほかの者とつれあいとなって、長い道をまっとうなさい」
  裴氏が答えていうことには、
「それは天命ということでしょう。めぐりあわせにそむくことができましょうか?願わくはほかのところへ行くことなく死にたいものです」
 彼女は耳を割いて誓おうとしたが、守役の女性がまもって許さなかった。既婚の女性のように、歳月を重ねても裴氏はただただ礼節を守ってつつしんだ。家にいて香りつやを用いようとはしなかった。『列女伝』を読み、再婚せず節を全うした伝記が述べられているのを見て、人にいうことには、
「ふたつの庭を踏まないのは、婦人の常の道です。何がこの書物に載っていることと異なりましょう?」
  のち十年たっても、徳武はまだ帰ることができず、裴矩はむすめを別に嫁がせることに決めた。裴氏は髪を切って食事を絶ったので、裴矩はむすめの志を奪うことができないことを知って、これを聞きいれた。李徳武はさらに爾朱氏をめとっていたが、大赦にあって帰るとき、中途で裴氏が節義を全うしていることを聞き、そこで後妻を遣わして彼女を迎え、もとのように夫婦となった。


  楊慶の妻の王氏は、鄭主の王世充の兄のむすめにあたる。楊慶は唐の河間王李孝恭の子を郇王として擁し、滎陽を守っていたが、王世充に陥されて鄭に降伏した。そのため世充は王氏を楊慶にめあわせて、管州刺史として用いたのだった。太宗(李世民)が洛陽を攻めると、楊慶は王氏とともに唐に帰順しようとはかった。王氏が夫に謝っていうことには、
「鄭はわたしを妻とし、あなたの心をつなぎとめ、恩義にそむかせています。もとより謀りごとをなす身の私は、どうすべきでしょうか?長安にいたったなら、わたしはあなたの家の婢(はしため)となるのみです。そうなる前に願わくは私を東都(洛陽)に送りかえしてください」
  楊慶は聞き入れなかった。王氏が左右に言うことには、
「唐が勝つことはすなわち鄭が滅ぶこと、鄭が安んじることはすなわちわが夫が死ぬこと、こういうことなら生きていて何の益があるだろうか?」
  こうして彼女は毒を飲んで死んだ。楊慶は唐に入朝して、官は宜州刺史となった。


  房玄齢の妻の盧氏は、その出身経歴が伝わらない。
  玄齢の身分が低かったころ、病にかかって瀕死の状態になったことがあった。玄齢はこれにかこつけて言った。
「わたしの病気がいよいよとなったら、君はまだ年も若いことだし、ひとり住まいをさせるわけにいかない。よい人をみつけて再婚しなさい」
  盧氏は泣いてとばりの中に入り、片目をえぐって玄齢に示し、よそに嫁ぐ道のないことを明らかにした。たまたま玄齢の病は快方に向かったので、夫婦の道は終身のものとなった。


  王蘭英は、独孤師仁の乳母である。独孤師仁の父の武都が唐に帰順しようとはかったため、王世充は武都を殺した。
  師仁はこのとき三歳で、死を免じられて禁錮とされた。蘭英はかれを養うために髪を剃り首枷をはめて仕えることを願い出て、許された。ときに隋末唐初の争乱にあって、餓死者が多々散らばっているような食糧事情の悪いなかであったが、師仁には優先的に食べさせて道路に遊ばせ、彼女自身は土を食らい水を飲んで耐えた。
  のちに薪を取りにいくといつわって王世充のもとから脱出し、ひそかに師仁を京師(長安、つまり唐)に帰順させた。高祖(李淵)は彼女の義をたたえて、詔により蘭英を永寿郷君に封じた。


  楊三安の妻の李氏は、京兆高陵の人である。
  舅と姑が亡くなり、三安もまた死に、子は幼く、ひとり貧苦し、昼は田畑に出て、夜は機を紡いだ。およそ三年で、舅姑および夫と兄弟ことごとく七回の葬喪をおこない、遠きも近きも同情の涙を流した。
  太宗(李世民)は、この話を聞いて普通でないと思い、帛三百段を賜い、州県に安否を問わせ、その夫役を免じた。


  樊会仁の母の敬氏は、蒲州河東の人であり、字を象子という。成人して会仁を生んだ。夫が死んで、舅や姑につかえて忌みあけにしたがった。
  家は彼女がまだ若く、再婚させたかったので、ひそかに里の人に対して結婚の約束を結んだ。時が来ると母が病気であるといつわって、敬氏を実家に看病に帰させた。
  敬氏はやってきて、あざむかれていたことを知ったが、外づらでは知らないふりをして、こっそりと会仁に告げて言うことには、
「わたしはやもめだが、母が老いていて子であるおまえも幼いものだから、まだ死ぬわけにいかない。ところが舅がいま私の志を奪おうとしている。おまえはどうしようか?」
  会仁は泣きだしたが、敬氏は言うことには、
「我が子よ、泣いてはいけない!」
  敬氏は隙を見て再嫁先から逃げ去った。家は彼女を追及したが、中途で断念した。というのも、彼女が死をもって自分の志を守ったからである。
  ときに会仁はまだ成人しないうちに亡くなり、ときに敬氏の母もまた亡くなって葬られたので、彼女が身内に告げて言うことには、
「母が死んで子も亡くなって、何の生き甲斐があるだろうか!」
  絶食して数日して死に、聞いた者はこれをあわれんだという。


  衛孝女は、絳州夏の人で、字を無忌という。彼女の父は郷里の衛長則という人に殺されたが、無忌はやっと六歳になったばかりで、頼りになる兄弟もおらず、母もやむなく再婚してしまった。無忌は成長するにおよんで、父の仇に報ずることを志とした。
  あるとき、たまたまおじに引き合わされた客のなかに仇の長則がいたので、無忌は瓦をうちつけてこれを殺した。父のうらみに報じたと称して役人のもとに出頭し、刑罰を受けられるように頼んだ。
  巡察使の褚遂良が奏聞したので、太宗(李世民)はその罪を免じ、彼女に宿場を給して雍州に移し、田宅を賜った。州県は彼女に敬意をはらって嫁ぎ先を世話した。


  鄭義宗の妻の盧氏は、范陽の士族である。五経や史書を広く読み、舅や姑につかえてうやうやしくしたがっていた。
  ある夜、盗賊が武装して彼女の家を襲ったことがあった。家人はみな逃げ隠れたのに、姑だけが逃げ遅れてしまった。盧氏は姑のそばに立って刃に立ち向かい、賊にむち打たれてあやうく死ぬところであった。
  賊が去ったので、ある人がなぜ恐れなかったのかと彼女に尋ねると、答えていうことには、
「人が鳥や獣と異なっているのは、仁義の心をもっているからです。今もし隣の村で急な難事が起こったら、お互い助けに行こうとするでしょう。それが姑のことであるならなおさら捨てておくことなどできましょうか?もし万が一にも姑の身になにかあったら、わたしひとり生きているなんてことはできません」
  姑が言うには、
「季節が寒くなってから松や柏がしおれているのを知ると言いますが、私はいまごろになって貴女の心意気というものに気づきましたよ」


  劉寂の妻の夏侯氏は、滑州胙城の人で、字を碎金といった。父の夏侯長雲は塩城の丞となったが、失明してしまった。ときに劉家ではすでにふたりの娘が生まれていたが、彼女は劉家と絶縁を求めて、実家に帰って父を看病した。また継母につかえて孝行と称された。五年して父が亡くなると、悲しみのため衰弱し、服喪に耐えないほどであったが、ざんばら髪に裸足で歩き、みずから土を背負って墓塚を作り、その左に庵を結んで、寒くても綿を着ず、一日一食を三年つづけた。
  詔により二十段の織物と粟十石を賜り、彼女の行為を村里の門に掲示して表彰させた。
  のちにその娘も、母の喪にあってまた母の行いのとおりであったので、官はまた粟帛を賜り、門に掲示して表彰した。


  于敏直の妻の張氏は、皖城公の張倹のむすめである。生まれ三歳にして、父母が病になるたびに、昼夜かいがいしく世話を焼き、その容貌はあたかも成人のようであった。成長すると、ますます父母にうやうやしく従い、優しく孝行であった。張倹の病が重くなり、これを聞くと、号泣して幾度も絶叫した。張倹が死ぬと、ひどく嘆き悲しんでついに亡くなった。高宗はその行いをたたえて、百段の織物を賜り、なりゆきを史官に文章につづらせた。


  楚王李霊亀の妃の上官氏は、下邽の士族である。霊亀が哀王(高祖李淵の子の李智雲)のあとを継いだ後、舅や姑がいたので、妃は朝から夕までそばに仕えて、たいへん慎み深かった。およそ珍美な食べ物があると、先に毒味をせずに献じるということがなかった。
  霊亀が亡くなったので、葬られることとなったが、霊亀の亡くなった前の妃に近しい一族がおらず後ろ盾がなかったので、葬儀の段取りを議論する者たちは(今の妃の上官氏に遠慮して)取りあげようとしなかった。しかし妃が言うことには、
「亡くなった人を知る人がいるのに、魂を託さないことができましょうか?」
  そこで礼を備えたかたちで霊亀と前の妃が合葬された。聞いた者は賛嘆を禁じえなかった。服喪の期間が終わったので、兄弟たちがともに妃をさとして言うには、
「妃は年若く、また子もいない。再婚する準備をしないことがあろうか」
  彼女は泣いて言うことには、
「りっぱな男性は義をもって、りっぱな女性は節をもって殉ずると言われています。私はいまだに困難な境遇に殉ずることができないのに、なお化粧やつやを利用して、他の男性に祭肉をささげなければならないのですか?」
  自ら鼻削ぎ耳を落とそうとしたので、人々はついにあえて強いようとしなかった。


  楊紹宗の妻の王氏は、華州華陰の人である。赤ん坊のころに母が亡くなったので、継母がたいせつに彼女を養育した。父は高句麗遠征で亡くなって(遺体がもどらず)、継母もまた亡くなった。
  王氏は年が十五だったが、ふたりの母の棺を出し、父をかたどった人形を立てて、死者の魂を呼び返してとむらい葬った。彼女は草廬を墓のそばに建てて喪に服した。
  高宗の永徽年間(650-655)に詔が出されて、
「楊氏の夫人が隋にあったとき、その父が遼西で戦没したが、夫人はうまく招魂してとむらいかつ葬った。祖父母の墓の隧道にいたっては、みずからその板築仕事をおこなったので、哀情が道を動かしたのである」
  このため織物と粟を賜り、彼女の行為を宮殿の門に掲示して表彰させた。


  賈孝女は、濮州鄄城の人である。年が十五のとき、父が族人の玄基に殺されてしまった。孝女の弟の彊仁はまだ幼かったので、孝女はよそに嫁ぐことを承知せず、みずから弟を育てた。彊仁が自立できるようになると、玄基をねらって殺させ、仇を討ったことを父の墓に告げた。彊仁は県の役所に出頭して仇討ちのありさまを自白したので、役人は死刑の判決を下した。孝女は宮殿に出頭して弟の代わりに死罪を受けられるよう請願した。
  高宗は彼女らをあわれんで、詔によりふたりともに罪を免じて、ひそかに洛陽に移させた。


  李氏の妻の王阿足は、深州鹿城の人である。早くから孤児となり、兄弟もいなかった。
  李氏にとついで数年で、夫が死んで子もなかったが、やもめの姉が高年で養うものもなかったので、放ったまま再婚するのも気がとがめて耐えられなかった。昼は耕し夜は機織りをして、よくつとめて仕えること二十年あまり。姉はかくして亡くなり、葬送は儀礼にしたがっておこなった。
  村人はその節義に感服し、あらそって妻女を遣わして、その精神に学ばせようとした。彼女は家において長寿をまっとうした。


  樊彦琛の妻の魏氏は、揚州の人である。彦琛が病になったので、魏氏が言うことには、
「あなたは病がいよいよ重くなってしまいましたが、あなたをひとり死なせることはできません」
  彦琛が言うことには、
「人の死ぬ生きるは、世の常のことだ。さいわいなことに養っていた多くの孤児たちを一人前にさせることができたし、夫婦があい従って死ぬなどというのは、わたしの取るところではないよ」
  彦琛は亡くなったが、ちょうど徐敬業の乱にあって、魏氏は兵乱の中におちいってしまった。彼女が音楽に通じていることが徐敬業らの耳に入り、琴や太鼓を演奏させようとした。魏氏が言うには、
「夫が亡くなったのにわたしは死なずにいる。音楽を演奏するようにわたしにせまられるというのは、禍がわたしの不義により発しているからだろう」
  その指を刀で引いて斬り落とした。徐敬業の軍隊の者たちは彼女を無理強いしてめとりたいと思ったが、彼女は固く拒んで従わなかった。そこで刃を彼女の頸に当てて言うには、
「おれに従えば死なずにすむだろう」
  魏氏が激昂して言うには、
「狗盜めが、おまえがひとを辱めたいというなら、いますぐに死ぬことがわたしの願いだ!」
  かくして害され、聞いた者は彼女を悼んだ.


  李畬の母は、その姓氏が伝わらない。彼女は深い見識をもっていた。李畬が監察御史となると、扶持米を得て、量ると三斛にあまったので、記録官に問いただしたところ、官はいった。
「御史の扶持米を量るのに、ますをならしていません」
  また李畬が車引きの雇い人が何人いるのかたずねたところ、官はいった。
「御史は賃金を支払っていません」
  母はそれを聞いて怒って、余りの米を返却させ、雇い人にも賃金を払うよういましめ、李畬を厳しく叱った。李畬はそこで倉官を弾劾し、自らそのありさまを言上すると、御史たちはこれを聞き、恥じ入るようすをみせた。


  汴州の女性の李氏は、年が八歳のときに父を亡くし、御堂に遺体を安置して十年、朝に夕に棺にとりすがって泣いた。成人の年を迎えて、李氏の母は彼女をよそに嫁がせようとした。彼女は髪を切って、終身まで供養しつづけることを婉曲に示した。
  母の喪中にあっても、泣き叫ぶありさまは尋常ではなかった。自ら葬具をととのえ、州里の人千人あまりが墓地まで送って埋葬した。墓地に庵をむすび、髪は乱れ放題にし、はだしで足を汚して、墓苑を完成させるため、数百本の松を植えかえた。
  武后のとき、按察使の薛季昶がこのことを上表したので、詔して村里の門に台を建てて掲示し表彰させた。


  崔絵の妻の盧氏は、鸞台侍郎の盧献のむすめである。盧献は美名があって世に知られていた。崔絵が亡くなると、盧氏はまだ年少であったので、家は彼女を再婚させようとした。しかし盧氏は病と称して許さなかった。
  盧氏の姉が、工部侍郎の李思沖にとついでいたが、早くに亡くなっていた。思沖はちょうど貴い身分であったので、上表して盧氏を後妻に求めたところ、詔により許された。家の内外はみな、結婚するものだと思っていた。思沖は、ぬさ三百と輿を贈ったが、盧氏は拒絶していった。
「わたしがどうして再び二夫に辱められましょうか?むしろ死ぬまで端女(はしため)となったほうがよい」
  この夕方、実家を出た。糞や汚血で顔面を汚し、崔家に帰って、断髪して自らに誓った。思沖がこのことを奏聞したところ、武后も彼女の志を奪うことはできないだろうと、尼僧となって生涯を全うするよう詔した。


  堅貞節婦の李氏は、年が十七のときに、嫁いで鄭廉の妻となった。
  その年を越えないうちに鄭廉が亡くなったので、いつも粗末な服をきて質素な食事をして身を慎んでいた。夜うつろな夢のなかに男子があらわれて妻にしたいと求められた。初めはそれほどでもなかったが、後にはしばしばこれを夢みた。
  李氏は容貌がまだ衰え醜くなっていないので召されるのだと自ら思案し、ただちに髪を切り、麻の着物に着替え、香も焚きしめず、垢まみれの顔に塵まみれの肌にすると、これによって再び夢みることはなくなった。
  刺史の白大威は、彼女が心がけをつつしんでいるので、堅貞節婦と号させ、上表して宮中の門に掲示して顕彰し、住所を名づけて節婦里と言わせた。


  符鳳の妻の某氏は、字を玉英といい、とりわけあでやかで美しかった。符鳳は、罪によって儋州に移され、南海にいたった。符鳳は獠の賊に殺され、賊は玉英を私しようと脅したので、彼女は答えていった。
「ひとりの婦人は多くの男子につかえることはできません。年長の人に譲られるようお願いします」
  賊はこれを了承した。そこで着替えさせてくれるよう願い出て、わずかの間に、晴れ着で舟の上に立ち、ののしっていった。
「賊に辱めを受けたら、死ぬしかないのよ!」
  彼女は自ら海に身を沈めた。


  高叡の妻の秦氏。高叡は趙州刺史となったが、黙啜の軍に攻撃された。趙州が陥落したので、高叡は毒薬をあおったが死ななかった。黙啜のところに連行され、宝飾の帯と異俗の上着を示していった。
「おれに降伏しろ。おまえに官を賜おう。降伏しなければ、死ぬだけだ」
  高叡は秦氏を見つめたので、秦氏は言った。
「あなたは天子の恩を受けました。死をもって報いるべきで、賊の一品官がどうしてその栄誉に足りましょうか?」
  ここからふたりは目をつむって語らなかった。黙啜は屈服させることができないと知ったので、高叡を殺した。


  王琳の妻の韋氏は、士族の出身である。
  王琳が眉州司功参軍となり、世の風俗が身にすぎてぜいたくに装飾が盛んになるなかで、韋氏はかんざしや耳飾りがあるのも知らなかった。二子の堅と冰におきてがあるのを説いて、後にふたりは名声をえた。
  王琳が亡くなったとき、韋氏は年が二十五だったので、家は彼女を再婚させようとしたが、韋氏は固く拒んだ。音楽を聴かず、一室にとじこもり、終日食べないこともあった。
  享年は七十五で、生前に『女訓』を著して世に行われた。


  盧惟清の妻の徐氏は、淄州の人であったが、代々陳留に住んでいた。盧惟清は役人となって校書郎となった。
  徐氏の姉の夫の李宜得が罪をえて官をしりぞけられたので、盧惟清は身内の役人として連座して、播川の尉に左遷された。徐氏は郷里に帰って、玄米を食べ、化粧をやめ、派手で高級な布を使わなかった。おりしも大赦があって、徐氏は惟清を迎えようとけわしい道をたどった。荊州にいたったところ、惟清が死んだのを聞いた。
  ふたりのひげ男が徐氏をさらって下江に連れ帰ろうとした。徐氏はこれを知り、その罪を数えたので、男たちはあえて迫ることをせず、彼女の財貨だけを奪って去った。徐氏は道を急いで播川にいたったので、足にできたまめから血が流れていた。惟清の死体を引き取ると、喪を守って帰途につき、歳月をかけて洛陽にいたった。葬ったのち、子どもがなかったので、服喪を終えると陳留の実家に帰った。汴州刺史の斉澣は、彼女の節義が高いのをたたえて、詩に詠んだ。


  饒娥は字を瓊真といい、饒州楽平の人である。ちっぽけな家に生まれて、機織りして働くうちに、人格態度がけっこうおのずと形よく整っていた。
  あるとき父の饒勣が、江へ漁にでて、嵐にあって舟が転覆したため、死体があがらなかった。そのとき饒娥は年が十四で、水上で慟哭し、三日間絶食して死んだ。突然の雷が大いに震わし、水の生き物たちが多く死に、父の死体が浮かび出た。
  郷里の人々はこれを奇妙に思って、死者への贈り物をささげ、礼儀にのっとって、父と饒娥とを鄱水の南の地に葬った。県令の魏仲光がその墓に石碑を建てた。
  建中年間(780-783)初頭に、黜陟使の鄭淑則が村里の門に掲示して表彰し、河東の柳宗元がここに彼女の石碑を建てて顕彰した。


  竇伯女と竇仲女は、京兆奉天の人である。
  永泰年間(765-766)中に、賊に遭遇して道をおびやかしたので、二女は自ら山谷に隠れた。賊が彼女らを得ようと後をたどり、私しようと迫ってきた。
  行く手に大きな谷をのぞんで、伯女は言った。
「わたしがどうして賊の汚れを受けたりいたしましょうか!」
  みずから下に身を投げたので、賊はおおいに驚いた。にわかに仲女も身を躍らせて墜死した。
  京兆尹の第五琦が彼女らの烈行を上表したので、詔して村里の門に掲示して表彰し、その家の夫役を免じ、官葬がおこなわれた。


  盧甫の妻の李氏は、秦州成紀の人である。父の李瀾は、永泰年間(755-756)初年に蘄県の令となった。
  梁、宋の地に兵乱が起こると、李瀾は勢いさかんな賊数千人に降伏するようをさとした。刺史の曹昇が賊を襲い、賊を破った。賊は李瀾が自分たちをだましたのではないかと疑い、李瀾とその弟の李渤を捕らえたところ、兄弟はおたがいに身代わりに死ぬことを争った。
  李氏は父が捕らえられたのを見て、これまた父の身代わりになることを頼んで、ついにみな害にあってしまった。
  また王泛の妻に裴氏という人がいて、また賊中に捕らえられて、けがさそうになった。ののしって言うことには、
「私は貴人の子だ。どうして命を惜しんでけがれを受けることがあろうか!」
  賊は武器をもって脅したが、裴氏がののしることをやめなかったので、そこで両手両足を切りはなして殺した。
  宣慰使の李季卿がそのなりゆきを奏聞したので、詔によって李氏に孝昌県君の位が、裴氏に河東県君の位が贈られ、李瀾、李渤もともに官位を贈られた。


  鄒待徴の妻の薄氏は、夫の待徴の赴任に従って江陰にいた。袁晁の乱のとき、薄氏は賊軍に拉致され、いまにも身が汚されそうになったのを拒んだ。家の召使いの老婆に託して待徴に報告させたことには、
「私の節義ははずかしめられなかった」
  すなわち水に身を投げて死んだのである。賊が去ると、彼女の屍が上がった。彼女の節義の評判は江南じゅうにとどろいた。
  この話を聞いた李華は、「節婦を哀しむ賦」を作ってささげた。


  金節婦は、安南の賊の将軍の陶斉亮の母である。
  いつも斉亮に忠義をさとし教えていたが、斉亮はかたくなに受けつけなかったので、ついにこれと絶縁した。自ら田を耕して食し、糸を紡いで衣としていたので、州里の人々は彼女を模範として法をうやまった。
  大暦年間(766-779)初年に、帝が詔してふたりの壮丁を賜って彼女のそばに仕えて養わせ、本道の使が彼女の終身の間たびたび安否を問わせた。


  高愍女は名を妹妹といい、父の高彦昭李正己に仕えていた。李正己の子の李納は命令を拒まないよう、彦昭の妻子を人質として、濮陽を守らせていた。建中二年(781)、高彦昭は城をひっさげて河南都統の劉玄佐に帰順したので、李納はその家族を処刑した。ときに愍女は七歳だったので、母の李氏は彼女が幼いのを憐れみ、死を免じて端女(はしため)とするよう願い出て、これを許された。愍女は納得せずいった。
「母と兄がみな死を免れないのに、どうして人に頼って生きられましょう?」
  母と兄がいまにも処刑されようというとき、四方すべてを拝んだ。愍女が理由を尋ねたので、答えていった。
「神は祈るべきものなのです」
  愍女はいった。
「我が家は忠義のために殺されようとしています。神がまたどうして拝んでいることを知るものでしょうか!」
  父のいる場所を尋ねると、西にむかって声を上げて泣き、重ねて拝礼して死についた。徳宗は驚き感心して、太常に詔して謚を愍といった。諸儒は争って彼女のために生前の徳行をたたえた。
  高彦昭は劉玄佐に従って寧陵を救い、汴州を恢復し、功績をかさねて潁州刺史を授かった。朝廷はその忠義ぶりを品定めして、州に居させること二十年も移さず、亡くなると陝州都督を贈った。


  楊烈婦は、李侃の妻である。建中年間(780-783)の末年、李希烈が汴州を陥れ、謀って陳州を襲った。李侃はこのとき項城の県令であった。李希烈は兵数千を分かって諸県を攻略平定しようとした。李侃の籠もる城は小さく、賊の軍が精強であるので、逃げ去ろうとしていた。そこで烈婦は言った。
「敵がいたって守るにあたり、力が不足していて、県城は死に瀕しています。あなたが逃げたりすれば、誰が守るのでしょう?」
  李侃は言った。
「兵が少なく財が乏しいのに、どうしろというのだ?」
  烈婦は言った。
「県を守らなければ、この地は賊の土地となります。倉廩と府庫はみな賊のものとなり、百姓もみな賊の戦士となります。そうなれば国家に何が残るでしょうか?賞与を重ねて決死の武士を募ってくだされば、救うこともできましょう」
  李侃は官民を召し出し、県の役所に入って言った。
辺令誠のような者が県令であったなら、任期が過ぎれば去ってしまうのだが、それは吏民のようにこの土地で生まれ育って先祖の墳墓があるからではないからである。ともに死守しなければならない。身を失うのと惜しんで賊に北面して臣と称することができようか」
  人々は泣いて、承知した。そこで布告していった。
「瓦や石をもって賊を撃つ者は、賞として千銭を取らせる。刀や矢をもって賊を殺す者には、万銭を取らせる」
  こうして数百人の義兵を得ることができた。李侃はかれらを率いて城に乗り込んだ。烈婦は自ら炊飯して人々に供した。報を知って賊は言った。
「項城の父老は賊の下風に立たないのを義とするのだという。やつらはわが城を得るのに威とするに足りないし、とっとと追い出してしまおう。いたずらに利を失って、無益なことだ」
  賊は大いに笑った。李侃は流れ矢に当たって、家に帰ってきた。烈婦は夫を責めて言った。
「あなたがいなければ、誰が城を固めたりいたしましょうか?外において死ぬのも、床の上で傷を治すのも同じことです」
  李侃は急いで登城した。ちょうど賊将が矢に当たって死んだので、ついに賊軍は引き揚げていったので、県城を守りぬくことができた。詔により李侃は太平の県令に遷された。
  これに先だって万歳通天の初年(696)、契丹が平州に進攻した。鄒保英が刺史となり、城が落とされそうになったが、妻の奚氏が家僮女丁を率いて城に乗り込み、賊に下らなかったので、詔により誠節夫人に封ぜられた。黙啜が飛狐を攻めたとき、県令の古玄応の妻の高氏がよく堅守し、胡人が引き揚げて去ると、詔により徇忠県君に封ぜられた。史思明の叛乱が起こると、衛州の女子侯氏、滑州の女子唐氏、青州の女子王氏は、互いに血をすすって誓い、軍営に赴いて賊を討伐したから、滑濮節度使の許叔冀が彼女たちの忠義を上表して、みなの勇気と決断力にむくいた。


  賈直言の妻の董氏。賈直言は事件に連座して、嶺南に左遷された。妻が幼かったので、別れようといった。
「生還は期しがたい。私がいなくってしばらくしたら他に嫁して、待ってはならない」
  董氏は答えず、縄を引いて髪を束ね、帛で封をして、直言に次のように書かせた。
「あなたの手でなければ解きません」
  賈直言は左遷されてから二十年して返り咲いたので、書かせた帛はそのままであった。湯沐みしたが、髪を下ろそうとしても固まって下りてこなかった。


  李孝女は、名を妙法といい、瀛州博野の人である。安禄山の乱のとき、拉致されて他の州の移された。父が亡くなったのを聞いて、間道から喪にかけつけようとしたが、一人っ子は母がいなくなるのが我慢できなかったから、片方の乳を切り裂いて留めてから行った。到着すると、父はすでに葬られており、泣いて父の墓を開けて見せるよう願ったが、宗族は許さなかった。また刀を持って心をさしたから、そのため開けられた。棺をみると、舌から塵を取り除いて、髪を調えて拭いた。墓の左に庵を結び、手ずから松や柏を植えると、珍しい鳥がやってきた。後に母が病となると、飲食せず、李孝女は終日匙や箸をとらなかった。母が亡くなると、刺して母の肘に血書して葬り、墓に庵をたてて終身つかえた。


  李湍の妻の某氏。李湍は呉元済の軍に籍を置いていた。元和年間(806-820)中に、自ら抜け出して烏重胤に帰順した。妻は賊に縛られてずたずたにされて、今にも死のうというとき、なおもあえぎながら叫んでいった。
「烏僕射によく仕えてください!」
  見る者は感嘆して泣いた。烏重胤はそのことを史官につづらせるよう願い出て、詔により許可された。


  董昌齢の母の楊氏は、代々蔡に住んでいる家柄の出身だった。董昌齢は呉少陽に仕えて、呉元済の代にいたった時、呉房の県令となった。母の楊氏はいつもひそかに戒めていっていた。
「逆に順がっていいのか悪いのか、お前はこれを考えなければなりません」
  董昌齢がいまだに決することができないうちに、郾城にうつったので、楊氏はまたいった。
「逆賊が天を欺くのは、神の祝福しないところです。逆賊は降伏するべきですが、わたしに累は及びません。子どもが忠臣となるなら、わたしは死んでもいといません」
  おりしも王師が郾城に迫ったので、昌齢はそこで降伏した。憲宗は喜び、すぐさま郾城令に任じて、監察御史を兼ねさせた。昌齢が拝謝していうには、
「母の教えに従っただけです。臣ごときに何ができましょうか!」
  帝は嗟嘆した。呉元済が楊氏を捕らえ、殺そうとしたことはしばしばあった。蔡が平定されると母が健在であり、陳許節度使の李遜がこのことを上表したので、彼女は北平郡太君に封ぜられた。


  王孝女は、徐州の人で、字を和子といった。元和年間(806-820)に、父兄はみな涇州に駐屯して夷狄を防いでいたが、吐蕃が辺境に侵攻したので、そろって戦死してしまった。和子はこのとき年が十七で、単身で髪をふりみだし、徒歩素足に喪服ともすその姿で、涇州の駐屯地にいたった。日々ほどこしを請うて、ふたりの喪をまもって帰還し、郷里において葬儀をおこない、松や柏を植え、髮を切ってすがたを変え、墓所にいおりを建てて住んだ。節度使の王智興がそのことを帝に申し上げたので、詔してその善行を掲示して表彰させた。


  段居貞の妻の謝氏は、字を小娥といい、洪州豫章の人である。段居貞はもとは歴陽のやくざな少年で、気骨を重んじた。謝氏を娶って一年あまりが経ち、謝氏の父とともに川と湖の上で商売していたとき、そろって盗賊のために殺されてしまった。小娥は川におもむいて流され、頭を傷つけ足を折ったが、人に救われて命が助かった。しばらくして乞食をしながら上元に到着すると、父と夫を殺したものの名を夢に見たが、その文をバラバラにして十二言をつくり、内外の縁戚に尋ねたが、わかる者はいなかった。隴西の李公佐がひそかにその意味するところを占っていった。
「おまえの父を殺した者は必ず申蘭であり、おまえの夫を殺したのは必ず申春である。ためしに探してみるとよい。」
  小娥は泣いて礼を言った。ふたりの申氏は、名だたる盗賊で亡命者だった。小娥は服をいつわって男子のふりをし、雇われ人として雑用した。物色すること一年余り、申蘭を江州で、申春を独樹浦でみつけた。申蘭と申春は、従兄弟であった。小娥は申蘭の家に雇われ、毎日謹んで誠をつくしたから、申蘭は側で眠るようになり、賄賂があっても委ねないものはなかった。小娥は段居貞・謝氏の持ち物を盗んでいたところを見ていたから、ますます夢で知ったことを疑わなかった。二年ほどすして、隙を伺っていた。ある日、申蘭がことごとく群盗を集めて酒を分配し、申蘭と申春は酔い、家で寝ていた。小娥は戸を閉めて、佩刀を抜いて申蘭の首を斬り、大声で「賊を捕らえた」と叫ぶと、村人はかけつけ、申春を捕らえ、盗んだ品物千万とその仲間数十人を得た。小娥がすべてをその人の上官に申し上げると、全員が死罪にあたり、そこで始めて自ら言状した。
  刺史の張錫嘉は彼女の烈行をよみして、観察使に申し上げたが、命乞いをしなかった。豫章に帰ると、人は争って彼女をめとろうとしたが、彼女は許さなかった。髪を短く切って仏の道につかえ、垢で汚れた衣に玄米を食して一生を終えた。


  楊含の妻の蕭氏。父の蕭歴は撫州長史となったが、在職中に没し、母もまた亡くなった。蕭氏は年が十六で、妹がいて二人とも美しかったが、美顔を傷つけ、二人を載せて郷里に帰ろうとしたが、貧しいため舟を雇うことができなかったから、宣州に行くと鳥山で戦闘があったから、舟子は柩を置いて去った。蕭氏は家を水辺につくり、婢(はしため)とともに穴を掘って納棺して墳墓をつくり、松柏を種まき、朝夕に詣で、カラスやシマウサギやきのこが慣れ親しんだ瑞兆があった。長老たちは蕭氏のために家をつくってやり、毎年粟やかとりを進上した。喪が明けるころになっても喪服を脱がず、人々はその行いを貴いものとした。ある人が結婚を願い出たが、彼女はいった。
「私は弱く北に還ることができません。あなたが本当に私のために二人の柩を故郷に葬ってくれるのでしたら、あなたにお仕えしたいと思います」
  ここに楊含は高安県の尉となって帰ることになったので、結婚を申し出たが、また今まで通りに願った。蕭氏は親がまだ葬られていないから、一緒に載せることになり、その村を去った。葬られると、そこで喪服を脱いで楊含と結婚したのだという。


  韋雍の妻の蕭氏。張弘靖が幽州に鎮していたので、韋雍はその幕府にいた。
  朱克融が乱を起こすと、韋雍は身柄を拉致された。蕭氏は難を聞いて、韋雍とともに皆出てきて、左右がこれを止めたが、退かなかった。韋雍が斬られるのに臨んで、蕭氏は呼んでいった。
「わたしはもはや生きていても無益です。願わくは今日あなたの前で死にましょう」
  刑はかれの臂を断ち、そして韋雍を殺した。蕭氏の心かたちは静かに落ちついたようすで、見たものは悲しみ嘆いた。彼女はこの夕方に死んだ。
  大和年間(827-835)に、楊志誠が彼女を烈婦として上表したので、詔によって彼女に蘭陵県君の位を追贈された。
  韋雍は字を和叔といい、進士に及第しえらばれていた。


  衡方厚の妻の程氏。大和年間(827-835)に、衡方厚は邕州録事参軍となった。招討使の董昌齢は統治がでたらめであったので、衡方厚はしばしばいさめて争った。董昌齢は怒って、かれを捕らえて裁判に付そうとした。病を理由に辞職したが、許されないので、死んだと告げて、棺の中で寝転がっていた。董昌齢はこれを知って、棺にふたをして頑丈に閉じこめさせた。衡方厚は閉じこめられること長く、爪で棺を引っかいたので、爪はすべてなくなって絶命してしまった。程氏はともに死ぬことを恐れて、あえて声を上げて泣くことをしなかった。董昌齢は静かなのを疑わず、厚くその喪をとむらわせた。程氏は徒歩で宮城までいたり、右銀台の門を叩いて、自ら耳を切って夫の冤罪を述べた。御史に下して事実を取り調べさせると、董昌齢はそこで罪をえた。文宗は詔して程氏を武昌県君に封じ、一子に九品正員官を賜った。


  鄭孝女は、兗州瑕丘の人である。父の神佐は、官軍の兵となり、慶州で戦死した。ときに母はすでに亡く、また兄弟もなく、孝女はこのとき年が二十四であったが、すぐに髪を切って服をぼろぼろにし、父の遺体を守って郷里に連れ帰り、母とともに合葬した。墓のそばに庵を建てて、手ずから松や柏の木を植えて林を作った。かつて、牙兵の李玄慶を許嫁としていたが、このときになって、謝絶して嫁がなかった。大中年間に、兗州節度使の蕭俶が朝廷に報告したので、詔が下って村里の門に掲示して表彰された。


  李廷節の妻の崔氏。
  乾符年間(874-879)中に、廷節は郟城の尉となった。
  王仙芝が汝州を攻めたとき、廷節は捕らえられた。賊は崔氏がみめよく美しいのを見て、いまにも彼女をめとろうとした。彼女がののしって言うことには、
「私は士人の妻です。どうして命を惜しんで賊のけがれを受けたりしましょうか?」
  賊は怒って、彼女の心臓をえぐって食べた。


  殷保晦の妻の封氏は、封敖の孫であり、名を絢、字を景文といった。文章や草書・隸書をよくした。保晦は校書郎などを歴任していた。黄巣が長安に入ると、夫婦はともに蘭陵里に隠れた。次の日、保晦は逃げ、封氏は賊の手に落ちた。
  賊は封氏の容色をよろこんで、彼女を欲しがったが、封氏は固く拒んだ。賊は言葉をつくして説いて誘ったが、答えなかった。
  賊は怒って、顔色を変えて言うことには、
「従えば生かしておいてやるが、そうでなければ、まさに我が剣のサビにしてくれよう!」
  封氏はののしって言うことには、
「私は公卿の子です。正道を守って死ぬことはあっても、生きるために逆賊の手に辱められることは絶対にありません!」
  このためついに害せられてしまった。保晦が帰ってくると、左右のものが言うことには、
「夫人は死んでしまいました!」
  保晦は号泣した。


  竇烈婦は、河南の人であり、朝邑令の畢某の妻である。かつて、同州の軍が乱を起こして、節度使の李瑭を追って河中に敗走させ、望仙里に匿わせたが、匿われた家が仇敵の家であることを知らず、夜半に盗賊が侵入し、令の首を引っ張り、これを殺そうとしたので、竇氏は泣いて身で蔽って守り、無理やり賊の袂を掴んだが、刀にあたってもふり解かなかったから、脱走することができて死なず、賊はまた去っていった。京兆ではこれを聞いて、酒帛・医薬を与え、ほとんど死ぬところであったが治癒した。


  李拯の妻の盧氏は、美形で、文章をつくるのがうまかった。李拯は字を昌時といい、咸通年間(860-874)末年に進士にえらばれ、累進して考功郎中に上った。黄巣の乱が起こると、乱を避けて平陽にうつったが、僖宗に召されて翰林学士となった。帝が宝鶏に出ると、嗣襄王李熅に落とされた。熅が敗れると、李拯は死に、盧氏は屍体の上に伏して声を上げて泣いた。王行瑜の兵が彼女に迫ったが、従わなかった。刃で脅しつけたところ、片ひじを断って死んだ。


  山陽のむすめの趙氏は、父が塩を盗み、死刑に相当すると論告されたので、むすめは官を訪れて訴えていった。
「飢えに迫られて盗みをし、死を救っただけです。情状は酌量されるべきで、許すことはできませんか?できないならともに死ねるようお願いします」
  役人はこれを義とし、父の死を許して減刑した。むすめはいった。
「身はいま官の賜ったところとなりましたが、願わくは服を粗末なものに変え、仏法に従ってご恩に報いようと思います」
  そこで耳を切って自ら言ったとおりにし、父の病床にはべって、嫁がないまま亡くなった。


  周迪の妻の某氏。周迪は商売をよくし、広陵地方を往来した。あるとき畢師鐸の乱に遭遇して、人々が食物を掠奪していった。このため周迪は飢えて今にも息絶えんばかりであった。そこで妻は言った。
「いま帰ろうとしても、ふたりともに無事ではおれません。あなたには親があり、二人ともに死ぬわけにはいきません。私を売ってあなたが行くのを助けとしてください」
  周迪は承服できなかったが、妻が頑なに一緒に市に行って、自分自身を売って数千銭を得て夫に与えた。周迪が城門に行くと、門番が怪しんで尋問し、欺いているのだと疑ったから、周迪とともに市に行って真相を問い詰めてみると、妻の首はすでにまな板の上にあるのを発見した。周迪は残りの体を包んで帰って葬った。


  朱延寿の妻の王氏。楊行密が勢力を持っていたころ、朱延寿は楊行密に仕えて寿州刺史となった。かれは楊行密が唐朝の臣としての道を尽くさないのをにくみ、寧国節度使の田頵とともに謀って楊行密との関係を絶って唐に帰順しようとした。事は楊行密の側に洩れていて、楊行密は一計を案じて朱延寿を召しだし、揚州をあずけたいと伝えた。延寿はこれを信じた。今にも行こうとしたので、王氏は言った。
「いまもし揚州を得て宿志がなったとしても、この興衰は時勢にあるのであって、家につながるわけではありません。ですが願わくば一日待って試してください」
  それが聴されたが、楊行密に殺された時、一日もたっておらず、王氏は言った。
「事敗れたり」
  そこで部下や家僕に兵器を授けた。扉を閉ざしたが捕騎がやって来ると、遂に私財をなげうって民に施し、あちこちに火を放って牙軍の家を焼き払い、天の名を呼んで言った。
「わたしは仇の辱めを受けないことを誓う!」
  彼女は火の中に飛び込んで死んだ。

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最終更新:2024年03月07日 16:33
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