唐書巻二百一十五下
列伝第一百四十下
突厥下
毘伽可汗黙棘連は、もともと小殺(シャド)とよばれていた者で、生まれつき情深く、兄弟仲がよく、いま立つことができたのも自分の功ではないとして、闕特勒にゆずろうとしたが、闕特勒もどうしても受けず、けっきょく位をついだのである。開元四年(716)のことであった。闕特勒を左賢としたが、それがもっぱら軍事面をつかさどっていた。はじめ黙啜が死んだとき、闕特勒は、その要路にあった黙啜の家来をみな殺した。ただ暾欲谷は娘の婆匐が黙棘連の可敦(妻)にしていたので、かれだけ死をまぬがれ、役は廃されて自分の所領に帰っていた。そののち、突騎施の蘇禄がみずから可汗となり、突厥の国民もふた心をいだくものが多くなった。そこで黙棘連は暾欲谷を召し出し、国政に参画させたのである。年は七十余歳で、人びとはかれをひじょうに尊敬していた。
にわかに𨁂趺思太らが河曲(オルドス)から突厥に帰っていった。そのむかし、降戸が南下したとき、単于副都護の張知運は、かれらの兵器をみな没収し、連中はうらみに思い怒っていた。姜晦が巡辺使となると、弓矢を禁ぜられ、狩猟によって生きることができないと訴え出た。姜晦はそれをぜんぶ返してやった。そこで降戸たちはいっしょになって張知運を攻め、かれを生けどりにし、まさに突際に送りとどけようとした。朔方行軍総管の薛訥と将軍の郭知運とがかれらを追い、敵勢はつぶれ、張知運を釈放して逃げてしまったのである。思太らは二隊にわかれて逃げていたが、その左側のものは、王晙がまた破った。
黙棘練は、もはや降戸も手中に入ったので、南下して唐の辺境でもの取りをしたいと考えた。そのとき暾欲谷がこう言った。「よろしくない。唐の天子はりっぱな勇武の人。人民はなごやかに暮らしているし、豊作の年でもある。つけ入るすき間がない。しかもわが方の軍兵は新しく集まったばかりのものである。動くべきでない。」 黙棘連は、また都たるべきところに城を築き、仏教、道教の寺も建てたいと思った。暾欲谷はつぎのように言った。「突厥の人口は唐の百分の一にもあたらない。それでよく唐と対抗できたのは、水草を追って射猟をし、居所を一定のところにせず、武芸を身につけ、力あれば進んでもの取りをし、力のないときには逃げひそむ。唐軍がいかに多くても、手のほどこしようがないわけである。もし城市を築いてそこに居れば、戦ってひとたび敗れでもしたら、かならずや先方にとらわれの身となる。また仏教道教は人になさけ、気弱さを教えるもので、武事、強さのためのものではない。」黙棘連は、かれの考えを正当だとした。そして、使者を派遣して和平を求めてきたが、帝は、それを本心からのものではないととり、ことわりの返事をした。
そのあとすぐ、帝は突厥討伐の詔を下した。そこで、抜悉蜜の右驍衛大将軍で金山道総管たる処木昆執米啜、堅昆(キルギス)都督の右武衛大将軍たる骨篤禄毗伽可汗、契丹都督の李失活、奚都督の李大酬、突厥の黙啜の子の左賢王たる墨特勒、左威衛将軍で右賢王の阿史那毗伽特勒、燕山郡王の火抜頡利発の石阿失畢ら、蕃、漢の兵をすべて出し、ぜんぶで三十万、御史大夫の朔方道大総管
王晙がそれを統括して、八年(720)の秋を期して、いっせいに落河(北モンゴリア)畔に集まること、抜悉蜜、奚、契丹は、それぞれ別の道から突厥本営を襲撃し、黙棘連を捕えること、としたのである。
黙棘連はひじょうに恐れた。すると暾欲谷はつぎのように言った。「抜悉蜜は北庭に居る。奚・契丹の両者ときわめて遠く離れている。うまく合うはずがない。また王晙と張嘉真とは不和である。二人はかならず意見がくいちがい、王晙の軍も絶対にやってくることはできないだろう。それでももし、みなが来そうになったら、こちらは敵の到着前三日に、人びとをみな北方に移動させる。かれらは来たものの食糧がなくなり、おのずとひきあげるだろう。抜悉蜜は軽薄な連中で、利ばかりおっている。かならずさきばしってやってくるだろうから、それは攻めとることができる。」まもなく抜悉蜜は、はたして軍をひきいて突厥の本営にせまってきた。しかし、
王晙らが来ないのを知ってひきかえした。突厥軍はそれを攻撃しようとしたが、暾欲谷は「兵が千里もの遠くまで来ている以上、死にものぐるいで戦うものだ。それにはかなわない。追跡しかれらの出身地に近づくのを待ち、そこで攻めとる方がよい」と言った。北庭から二百里のところまで来てあとを追っていた突厥軍は兵をわけ、一隊は他の道をとってからの城を襲い占領した。そしてすぐべつの隊が抜悉軍を急襲した。かれらは北庭に逃げこもうとしたが、帰るところがなく、ぜんぶつかまえられてしまったのである。帰りみちで突厥軍は赤亭に出て、涼州で掠奪した。涼州都督の
楊敬述は、部下の盧公利や元伝澄らに軍を出して討ち捕えようとさせた。暾欲谷は「もし楊敬述が城を守るなら和約を結ぼう。もし出陣してくるなら決戦しよう。かならず勝つ」と言った。元澄は全軍に「腕まくりして弓はいっぱいに引きしぼり、大きく射よ」と言っていたが、たまたまはだも裂けそうなひどい寒さで、腕まくりした兵士たちの手は弓を引けず、そのため大敗してしまった。元澄は逃走し、楊敬述は罪を問われ官位をはがれたまま、涼州の事を監理することになった。突厥はとうとうひじょうに勢威をふるうものとなり、むかしの黙啜時代の、残っていたものもすべて領有することになったのである。
翌年(721)、つよく和平を願い、また唐帝を父としてつかえたいと言ってきた。天子はそれを許した。それから連年、使者を派遣し、産物を献上した。そして縁組みを求めてきた。そのとき天子は封禅の儀を行なうため東方の泰山に巡行しようとしていた。中書令の
張説が、駐屯軍を増し突厥に備えることを提案した。兵部郎中の
裴光庭はそれに対して、「封禅とは、ことの成功したことを天地の神に報告するものである。しかるにもしまた軍備を強化するため人を集めたり物をとり立てたりするようでは、功成ったとは言えぬではないか。」と、言った。張説は言った。「突厥はちかごろ和平を願いはしたが、その結びつきを信用することはできない。しかも、その可汗は情深く、人を愛するので、配下の者はかれのために働く。闕特勒は戦争がうまい。暾欲谷は、落ちついていて雄々しく、老いてますます知恵も深い。李靖や李世勣のようなものである。この三人がまさに協力している以上、わが方が国をあげて東方巡行にかかわっていると知って、もしそのすきに乗じようとしたら、どうしてこれを防ぐのか。」と。そこで裴光庭は、使者を派遣してその大臣をよびよせ、親衛隊に入れることを申しでた。そのための鴻臚卿の袁振を突厥までやり、帝の意図を説明させた。黙棘連は袁振が行くと酒席を設け、可敦、闕特勒、暾欲谷といっしょに幕内に席を占め、袁振につぎのように言った。「吐蕃の先祖は犬である。しかし、唐は婚を結んでいる。奚や契丹はわが奴婢であり召使いである。やはり唐の公主を娶とっている。ただ突厥だけが前後たびたび縁組みを願っているのに許されない。どういうことか」と。袁振は、「可汗はすでに天子の子となっている。子がさらに父すなわち天子の娘と結婚してもよいものだろうか」と言った。黙棘連は「さらにこう言った。「それはちがう。奚、契丹の両国はいずれも唐帝の李姓を貰っている。それでも唐室から公主をとっている。突厥のばあいでもなにゆえいけないといえよう。しかも、公主といって も、なにも帝の娘でない。われわれはより好みしているわけではない。ただ、しばしば願っているのに果たされないのでは、諸国に笑われるではないか」と。袁振は帝にお願いすることは承認した。黙棘連は、大臣の阿史徳頡利発をつかわし、入朝し献上物をとどけ、封禅にも従行することになった。帝は詔して、諸国の首領たちを親衛隊にいれ、弓矢も持たせた。たまたま兎が帝の馬前にとび出した。帝は一発でそれをしとめた。阿史徳頡利発がその兎を捧げ持ち、ぬかずきお祝いをのべ「陛下の神わざのような武技は絶妙である。天上のことは臣も知らないが、地上の人にとってはありえないことだ」と言った。帝が「腹がへってなにか食べたいことはないか」と訊ねさせると、このような弓矢の威力を拝見すると、十日間食べなくても満腹の思いがする」と答えた。そのため帝はかれに親衛隊の中で馬を走らせながら弓を射ることをさせた。封禅に従行しおわると、手厚く御馳走もし、物も与えて帰国させた。しかし縁組みはとうとう許さなかった。
それいらい毎年、大臣をつかわして入朝してきた。吐蕃が突厥に書状を送り、手をにぎって唐の辺境地帯を侵略しようと言ったとき、黙棘連は従わず、その書状を唐に届けた。天子はそれをほめ、使者の梅録啜に
紫宸殿で宴を賜わり、詔して朔方軍の西受降城で通商することを許し、年ごとに帛数十万を与えた。
十九年(731)、闕特勒が死んだ。金吾将軍の
張去逸と都官郎中の呂向とに、勅書を持って弔問させ、帝は故人のために碑の銘文を書き刻ませた。また廟と像とをつくらせ、四方の壁に戦陣の様子を画かせるのに、とくに命じて、すぐれた職人六人を行かせ、精細な肖像をかかせたので、かの国ではいまだかつてないこととした。黙棘連は、それを見ては悲しみにうちひしがれぬこととてなかった。
黙棘連は、それまでに熱心に縁組みを願っていたのだが帝はそれを許可した。そこで哥解栗必をつかわしてお礼を言い、縁組みの時期についてもきめてほしいと願った。ところがまもなく、黙棘連は梅録啜に毒をもられた。死にかかったが梅録啜を殺し、その一党を平らげ、そして死んだ。帝はそのため追悼し、詔して宗正卿の
李佺に弔問させ、そして廟を立て、史官の李融に命じて碑文をつくらせた。かの国の人たちは、一致して子を立てて伊然可汗とした。
伊然可汗は即位して八年で死んだ。その間に三度、使者をつかわして入朝した。その弟があとをついで即位した。これが苾伽骨咄禄可汗である。右金吾衛将軍の李質を勅使として派遣し、それを登里可汗とした。明年(741)使者の伊難如を正月の朝賀につかわした。産物を献上して「天可汗に拝礼するのは、天を拝するのと同じである。いま新年正月、天子の万寿を願い奉る」とのべた。可汗は幼く、その母の婆匐は身分の低い家来の飫斯達干と不倫をし、あげくには国政に関与して、国内諸部は協調しなかった。登里可汗の従父が、東西の軍を分担指揮し、左殺、右殺とよばれていたが、兵士の精鋭、強力なものはみなかれらに属していた。可汗は母といっしょになって、西殺を誘い出して斬り、その軍を奪った。左殺はおそれ、すぐ先手をうって登利可汗を攻め、それを殺した。
左殺は判闕特勒だった。結局、毘伽可汗の子を可汗に立てたが、すぐ骨咄葉護に殺され、その弟を立てたが、やがてまた殺された。骨咄葉護がそこでみずから可汗となった。天宝年間のはじめ(742頃)、突厥国内の大部だった回紇、葛邏禄、抜悉蜜が同時にたちあがり、骨咄葉護を攻めて殺した。かれらは抜悉蜜の長をたてて頡跌伊施可汗とした。そして、回紇、葛邏禄の長は、みずから左右葉護となり、使者を派遣して報告してきた。突厥では、その国の人は判闕特勒の子をたてて烏蘇米施可汗とし、その子の葛臘哆を西殺とした。帝は使者を派遣して言いきかせ、内附させようとしたが、烏蘇米施可汗はきかなかった。しかし配下のものはかれに同調しなかった。抜悉蜜らの三部がいっしょになって烏蘇米施可汗を攻めた。かれは逃走し、その西葉護の
阿布思や葛臘哆が五千帳をひきつれて投降してきた。葛臘哆を懐恩王とした。
天宝三載(744)、抜悉蜜らは烏蘇米施可汗を殺し、首を都に送ってきた。それは帝室太祖の廟に奉献された。その弟の白眉特勒鶻隴匐があとをついて立った。白眉可汗である。ここにおいて突厥は大乱となったのである。その国のある人たちは、抜悉蜜の長を推して可汗とした。帝は詔して、朔方節度使の
王忠嗣に軍をひきいてこの乱に乗じ突厥を討たせた。唐軍は薩河内山まで行き、突厥の左翼の阿波達干の十一部を攻め、破った。その右翼だけはまだ攻め下すことができなかった。そのとき回紇と葛邏禄とが、抜悉蜜の可汗を殺し、回紇の骨力裴羅を中心にその国を平定した。これが骨咄禄毗伽闕可汗である。明年(745)、かれらは白眉可汗を殺し、その首を送り献上してきた。毘伽可汗の妻の骨禄婆匐可敦が、人びとをひき連れ、自分から帰服してきた。天子は花蕚楼に行かれ、多数の臣下を招宴し、詩をつくってこのことをたたえられた。可教を賓国夫人に封じ、化粧料として銭二十万文を与えられた。
突厥は、はじめ後魏の大統年間(535-551)に国を立て、ここまで来て滅亡したわけである。こののち、ときには朝貢するものがあったが、みなもとは九姓のものだったということだ。その土地はすべて回紇のものとなってしまった。その一族が昔、国をわけたが、その西側のが西突厥といわれる。
西突厥。その祖先は訥都陸の孫の吐務で、大葉護と号した。かれの長子は土門伊利可汗、次子は室点蜜とも瑟帝米といった。瑟帝米の子供は達頭可汗といったが、のちにはまた歩迦可汗とも称した。はじめて東突厥から、かつての烏孫の領域を分離してこれを支配した。その東はほかでもなく突厥、西は雷翥海、南は疏勒、北は瀚海である。京師の北方七千里の地に当たっていて、焉耆から西北へ七日間進むとその南廷(南方の本営)に達し、北へ八日間進むとその北廷に達する。都陸・弩失畢・歌邏禄・処月・処蜜・伊吾など多くの種と雑居している。その風俗は、だいたい突厥のそれと同じであるが、言語は少し違っている。
はじめ、東突厥の木杆可汗が死ぬとき、かれは、自分の子供の大邏便をさしおいて、弟の佗鉢可汗を即位させた。佗鉢は死ぬ前に、その子供の菴羅をいましめて、自分のあとには必ず大邏便を即位させるよう言った。しかし、その国の人々は、大邏便の母が下賤の出身であったので、かれを立てるのを承知せず、ついに菴羅を即位させた。菴羅はのちに可汗の位を木杆の兄の子供、摂図に譲った。これが沙鉢略可汗である。そして大邏便はべつに阿波可汗となり、みずからその部衆を従えた。沙鉢略はかれを襲撃してその母を殺した。そこで阿波は、西方、達頭のもとへ逃走した。このとき、達頭は西面可汗(突厥の西面地域の可汗)であったが、すぐさま、阿波に十万人の兵士を与えて、東突厥と戦わせた。しかし、阿波は、ついに、沙鉢略に捕えられた。啓民可汗のときになると、達頭可汗は、連年これと交戦したが、隋はつねに啓民を援助し、このために達頭は敗れて吐谷渾のもとへ逃走した。
これよりさき、阿波が捕えられたとき、その国の人々は鞅素特勒の子供を即位させた。これが泥利可汗である。達頭が逃走し、泥利もまた敗れて死ぬと、その子供の達漫が即位した。これが泥橛処羅可汗であるが、その統治が苛酷で、かれを憎むものが多かった。大業年間(605-617)に、処羅は煬帝が高麗を征討するのに従った。帝はかれに曷薩那可汗の号を賜わり、皇室の娘をあわせ、また、その弟の闕達度設をとどめおいて会寧郡で牧畜させた。闕達度設はまもなく可汗と自称した。江都の反乱にさいし、曷薩那は
宇文化及に従って黎腸に到達し、ついで長安へ逃げ帰った。唐の高祖は榻から降りて、坐をともにし、かれを帰義王に封じた。かれは大きな真珠を帝に献上したが、帝はこれを受けとらず、「朕が重要と考えるのは王の赤心であって、これは無用である」と言った。闕可汗は、馬三千頭を持ち、武徳元年(618)に唐に臣属して吐烏過抜闕可汁の号を賜わった。かれははじめ李軌と連合したが、隋の西戎使者の曹瓊が甘州に拠ってかれを誘うとたちまち寝返り、曹瓊と合流して、ともに李軌を攻撃した。しかし、その軍隊は抵抗しきれず、かれは達斗抜谷に逃走し、吐谷渾と相より相助けるにいたったが、李軌によって殺された。
さきに易薩那が隋に来朝するさい、その国の人々は、すべて、これを望まなかった。ところが、曷薩那がすでに隋にとどめられて帰れなくなってしまうと、その国の人々は一致して達頭の孫を即位させた。かれは射匱可汗と号して、廷(本営)を亀茲の北の三弥山に設け、玉門関より西方の諸国の多くはこれに服属した。こうしてかれの勢力は東突厥と相拮抗するにいたった。射匱が死ぬと、かれの弟の統葉護が継いだ。これが統葉護可汗である。
統葉護可汗は、勇敢で、謀略にたけ、戦えばそのたびごとに勝利をえた。こうして、鉄勒を併合し、波斯、罽賓を降服させ、弓を引く兵士数十万人を擁して、廷を石国の北の千泉に移し、ついに西域の支配者となった。西域諸国の王にはすべて頡利発の称号を授け、しかも、一人の吐屯に命じてそれらを監視・統理させ、貢ぎ物のとりたてを管理させた。翌年に、射匱は使者を遣わして来て、曷薩那との間に宿怨があるため、かれを殺してほしいと願い出たが帝はこれをききいれなかった。群臣は、「この一人の人間を生かしておけば、一つの国家を失うことになるでしょう。のちになって憂えのたねになるのは、きまっております。」と言った。秦王(のちの太宗)は、「いや、そうではありません。人がわれわれのもとに来て身をよせたさい、われわれがこれを殺すのはよくないことです」と言った。そこで、帝はまた、かれを殺すのをききとどけなかった。帝は御所の中で曷薩那のために宴を設け、酒盛りの最中に、かれを中書省へ行かせ、東突厥の使者のもとへ追いやって、その手でこれを殺させた。このことは公表されなかった。射匱もまた、連年つぎつぎに条支に産する大きな卵、獅子の皮革などを貢ぎ物として献上した。帝はかさねて手厚く親交を結び、ともに協力して東突厥を討つことを約束した。統葉護はその期日を決めるよう乞うた。東突厥の頡利はたいへん恐れ、そこで西突厥と和約を結んで攻撃しあわぬことにした。統葉護可汗は使者を遣わして来て、通婚を願い出た。帝は群臣とはかって、「西突厥はわが国から遠くへだたっていて、危急のさいにはこれに頼ることはできない。これと通婚すべきだろうか」と問うた。
封徳彝は、「ただいまなすべき妥当な方策を思いめぐらしますに、遠い国と交わりを結んで近い国を攻めるのにこしたことはありません。どうか通婚をききとどけ、それによって北狄(東突厥)を恐れさせ、わが国が安定するのを待って、それからのちによく考えられますように」と答えた。帝はそこで通婚を許すことにし、高平王の
李道立に詔して、その国へおもむかせた。統葉護可汗は喜び、真珠統俟斤を遣わして、帰国する
李道立とともに来させ、一万本の釘をうち宝石で飾った黄金の帯と馬五千頭とを献上して、婚約の裏づけとした。ちょうどそのころ東突厥が連年辺境に侵入してきて、西方への道がふさがれ通れなくなった。そのうえ、頡利は人を遣わして、統葉護可汗に、「もし汝が唐の公主を迎えるのならば、どうしてもわが国内の道を通らねばならない。余はこれを拘留するであろう」と言わせた。統葉護可汗はこのことを思いわずらい、婚礼をあげることは、まだできなかった。このころ統葉護可汗は、おのれの強盛なのをたのみとして、支配下のものに恩恵を施さず、その民衆でこれを怨んでそむき去るものが多かった。そこでかれの叔父の莫賀咄がこれを殺した。帝は統葉護の死を悼み、使者に玉と帛とをたずさえて行かせ、これを焚いて祭らせようと思ったが、たまたまその国内が乱れたため、そこへ到達できなかった。
莫賀咄が即位した。これが屈利俟毘可汗である。かれは使者を遣わして来て貢ぎ物を献上した。俟毘可汗は、はじめは、西突厥を分け治め、小可汗であった。いますでに大可汗と称したが、その国の人々は、かれに心をよせなかった。弩失畢の諸部落は、自分たちだけで泥孰莫賀設を推し立てて可汗としたが、泥孰はこれを辞退して受けいれなかった。そのころ統葉護可汗の子供の咥力特勒が、莫賀咄の脅威からのがれて康居に逃げていた。泥孰はかれを迎えいれて即位させた。これが乙毘羅鉢羅肆葉護可汗である。かれは俟毘可汗とその国を分けあって統治したが、両者間の戦闘は止まず、それぞれ使者を遣わし来朝して貢ぎ物を献上した。太宗は曷薩那が罪なくして死んだのを偲び憐れんで、かれのために上柱国を贈り、礼をととのえて葬った。貞観四年(630)に、俟毘可汗は通婚を願い出たが、帝はこれをききいれず、詔を下して、「突厥は、ちょうどいま乱れていて、君臣の別が未だ明らかでない。どうして、いまあわただしく通婚することがあろうか。おのおのがその支配下のものを戒めて、侵害しあわぬようにせよ」と言った。これ以後、西域諸国はすべてこれにそむき、国内はひじょうに疲弊した。民衆はのこらず肆葉護可汗に心をよせ、俟毘の統治下のものさえもまた、しだいにかれのもとから去った。肆葉護はかれらと協力して軍隊を率い俟毘を攻撃した。俟毘は逃走して金山を保有したが、泥孰に殺された。肆葉護を推戴して大可汗とした。
肆葉護は即位すると、時をうつさず、北方の鉄勒・薛延陀を討ったが、薛延陀に敗れた。かれは生まれつき疑いぶかく片意地で、民衆を統治するのに狭量であった。乙利という小可汗がいて、国家にもっとも功績があった。肆葉護が他人の讒言を信じてかれとその一族とをすべて殺したので、民衆はみなひるみ驚いた。肆葉護はまた、泥孰をはばかり、ひそかにかれを殺そうとはかったので、泥孰は焉耆へ逃げこんだ。しばらくして没卑達干が、弩失畢諸部落の有力な首領たちとあいはかり、肆葉護を捕え退位させようとすると、肆葉護は、軽装備の馬に乗って康居へ逃走し、傷心のあまり死んだ。その国の人々は、泥孰を焉耆から迎えいれてかれを即位させた。これが咄陸可汗である。この可汗の父の莫賀設は、もともと統葉護に隷属していた人物で、武徳年間(618-626)に来朝した。太宗(当時は秦王)はかれと盟って兄弟の約束を結んだ。かれが死んで泥孰がこれに代り、また、伽那設とも呼ばれた。かれは即位すると使者を遣わして宮廷に来させ、自分があえて可汗号を帯びようとはせぬことを言わせた。帝は鴻臚少卿の
劉善因に詔し、節を持って使いさせ、かれを冊立して呑阿婁抜利邲咄陸可汗と号し、鼓・纛(とう)、段綵数万段を賜わった。泥孰は使者を遣わして謝意を表した。ある日、太上皇は使者のために
両儀殿で宴を設け、
長孫无忌にむかい、「いま蛮夷があい率いて来り服属した。むかしにもまた、このようなことがあったろうか」と言った。
長孫无忌は、太上皇の齢が千年万歳も長からんことを祝福した。太上皇は喜んで酒を帝にすすめた。帝は額を地につけて謝意を表し、これまたさかずきを奉って、太上皇の齢ながかれと祝福した。
咄陸可汗が死んで、弟の同娥設が即位した。これが沙鉢羅咥利失可汗である。かれは年ごとに三度、使節を遣わしてその地方の産物を献上し、ついに通婚を願い出た。帝はこれをいたわったが、その願いにはこたえなかった。咥利失可汗はその国土を分けて十部落とし、一人の首領に一部落を統治させた。そして各首領に一本の箭を授けて、十設と号し、また十箭とも呼んだ。これら十部落を左(東)と右(西)とに分け、左方の咄陸の五部落は、そこに五人の大啜が置かれて砕葉より東方におり、右方の弩失畢の五部落は、そこに五人の大俟斤が置かれて砕葉より西方にいた。その下の一箭を称して一部落と呼び、すべてをあわせて十姓部落と総称した。しかし咥利失可汗は民衆の心服・信頼をえず、かれの支配下の統吐屯が軍隊を率いてこれを襲撃した。咥利失は側近の兵士を率いて戦った。統吐屯は抵抗しきれずに退却したが、咥利夫は、その弟の歩利設とともに焉耆へ逃走した。弩失畢五部落の一つの首領阿悉吉闕俟斤は、統吐屯とともに、その国の人々を呼びよせ、欲谷設を即位させて大可汗に、そして咥利失を小可汗にしようとはかった。しかしたまたま統吐屯が殺され、欲谷設もまたその部下の斤に破られ、そこで咥利失は、以前の領地を回復した。のちにその国の西部の人々は、ついに自分たちだけで欲谷設を即位させて乙毘咄陸可汗とした。かれは咥利失と交戦したが、この戦闘で殺傷されたものは数えきれぬほど多かった。そこで伊列河によって諸部落を分け、河から西方は咄陸の支配をうけ、それより東方は咥利失がこれを統治することにした。これ以後、西突厥は、さらに二国に分裂するにいたった。
咄陸可汗は延(本営)を鏃曷山の西に設け、これを北廷(北方の本営)と呼んだ。駮馬・結骨の諸国は、すべてかれに臣属した。咄陸可汗はひそかに咥利失の支配下の吐屯俟利発とともに、軍隊を率いて咥利失を攻撃した。咥利失は、これを援けるものとてなく、窮迫して抜汗那に逃走し、そこで死んだ。その国の人々はかれの子供を即位させた。これが乙屈利失乙毘可汗であるが、かれはその翌年に死んだ。そこで弩失畢諸部落の大酋たちは、伽那設の子供の畢賀咄葉護を迎えいれてかれを即位させた。これが乙毘沙鉢羅葉護可汗である。太宗は左領軍将軍の張大師に詔し、節を持って使いさせ、かれを冊立して、鼓・纛を賜わった。かれは廷(本営)を雖合水の北に設け、これを南廷(南方の本営)と呼んだ。東方では伊列河に達し、亀茲・鄯善・且末・吐火羅・焉耆・石・史・何・穆・康などの諸国はみなこれに隷属した。
このころ咄陸はその軍隊がしだいに強盛になり、沙鉢羅葉護とたびたび交戦した。たまたま、この両可汗の使者がともに来朝したさい、帝は、たがいにむつまじくするよういましめ、それぞれに戦いを止めるよう勅した。しかし咄陸はこれをききいれようとはせず、石国の吐屯を遣わし葉護可汗を攻撃させてかれを殺しその国を併合した。弩失畢諸部落は咄陸に服属せずそむき去った。咄陸はまた、吐火羅を攻撃してその地を占領し、さらに伊州に入寇した。安西都護の
郭孝恪は、軽装備の騎兵二千人を率い、烏骨からひそかに窺い撃ってこれを破った。咄陸は、処月・処蜜部族の軍隊によって天山県を包囲したが、失敗におわった。郭孝恪は逃げるものを追撃して、処月部族の居城を攻め陥し、さらに遏索山に到達して首級一千余級を斬り、処蜜部族を降服させて帰還した。咄陸可汗は生まれつき片意地、傲慢で、中国の使者の元孝友などを拘留して帰国させなかった。そして、「余は、唐の天子は才武にたけていると聞いている。余は、いま康居を討撃するが、なんじらは、余の才武が天子のそれと等しいかどうか、よく見ろ」と妄言し、ついに、使者を連れてともに康居を攻撃し、米国の領土内を通ってたちまちこれを襲い破り、その民衆をつなぎ捕えた。しかしそれらの戦利品・捕虜をわがものとし部下に分け与えなかった。ところがその部将の泥孰啜が、これに憤慨してそれらを奪い取ったので、咄陸はかれを斬り殺して見せしめにした。そこで泥孰啜の部将の胡禄屋は挙兵して咄陸可汗を襲撃し、多数の兵士を殺した。その国は大混乱におちいった。吐火羅に帰ってその地を保有しようとした。大臣たちはかれに、本国へ帰還するようすすめたが、かれはこれに従わず、部衆を率いて去り、葉水を渡河して石国に到達した。かれの側近のものはほとんどすべて逃げ去り、そこでかれは可賀敦城を保有した。かれは自身で、軽率にも城から出て、そむき逃げたものを呼び集めようとしたが、阿悉吉闕俟斤がこれをむかえ撃った。咄陸は敗れて、白水の胡人の城を襲撃してこれを占領し、ここに居をかまえた。弩失畢諸部落は、咄陸が可汗であるのをのぞまず、使者を遣わして宮廷に来させ、べつの可汗を即位させたいと願い出た。帝は、通事舎人の温無隠を遣わして、璽詔を持って使いし、その国の大臣たちとともに、突厥の可汗の子孫で賢明な人物を選んで、璽詔をかれに授けさせた。こうしてかれらは、乙屈利失乙毘可汗の子供を即位させた。これが乙毘射匱可汗である。
乙毘射匱は即位すると、中国の使者にあらためて宿舎を与え、かれらを一人のこらず長安に帰還させた。そしてかれは、弩失畢諸部落の首領に命じ、軍隊を率いて、白水の胡域を攻撃させた。咄陸は軍隊を率いて城内からうって出、太鼓・角笛をとどろかせてせまり戦った。弩失畢諸部落の軍隊は、屯営していることができず、戦死したもの、捕われたものは多数をきわめた。咄陸はこの勝利に乗じて、もとの支配下のものたちを呼び集めようとした。ところが、かれらはみな、「一千人もの人間を戦わせ、生きのこるのはただの一人にすぎぬ。われわれはもはや従うことはできない」と言った。咄陸は民衆が自分を憎んでいるのを自覚し、そこで、吐火羅へ逃走した。乙毘射匱は、使者を遣わしてその地方の産物を貢ぎ、そのうえ通婚を願い出た。帝は、亀茲・于闐・疏勒・朱倶波・葱嶺の五国を中国に割譲して聘礼(結納の礼物)とするよう命じたが、婚礼をあげるまでにはいたらなかった。そこで、阿史那賀魯がそむき、可汗支配下の諸部落をすべて併合するにいたった。
阿史那賀魯というのは、室点蜜可汗の五代目の子孫に当たり、曳歩利設射匱特勒の刧越の子供である。これより先に阿史那歩真が中国へ来朝して帰服すると、咄陸可汗は賀魯を葉護とし、歩真に代って多邏斯川におらせた。そこは西州の北方一千五百里の地に当たり、かれは、処月・処蜜・姑蘇・歌邏禄、および弩失畢の五姓(五部落の民衆)を統治した。咄陸が吐火羅へ逃走すると、乙毘射匱は軍隊を出して賀魯を追跡させた。そのため賀魯には一定した住地がなく、かれの部衆の多くは散り散りになって逃げてしまった。執舎地・処木昆・婆鼻という三種族があり、それらは乙毘射匱可汗のもとへおもむいて、賀魯にはなんの罪もないことを告げた。可汗は怒って執舎地などを滅ぼそうと思った。そこでこの三種族は、支配下の数千帳(天幕)すべてを率いて、賀魯とともにぜんぶが中国に臣属して来た。帝はこれらを手厚くいたわった。たまたま亀茲を征討するにさいして、賀魯は先鋒となって道案内をしようと申し出た。帝は詔を下してかれに崑丘道行軍総管を授け、嘉寿殿で宴を設け、多くのものを賜わり、自分の衣服を脱いでかれに着せた。かさねて左驍衛将軍・瑤池都督に昇進させ、その部衆を廷州の莫賀城に住まわせた。
賀魯は離散したものたちをひそかに呼び集め、その結果、かれの支配する廬幕(遊牧民の住居)の数はしだいに多くなった。ちょうど帝が崩御すると、かれはすぐさま西州・廷州を占領しようとたくらんだが、廷州刺史の駱弘義がこの事情を上奏した。高宗は通事舎人の喬宝明を遣わして、急ぎおもむきこれを慰撫させ、宝明は賀魯に命じてその子供の咥運を宿衛に入れさせた。咥運は途中で後悔したが、宝明の勢いにおびやかされて引きかえせず、右驍衛中郎将に拝せられた。帝が咥運を帰国させると、かれはすぐさま賀魯にすすめ、部衆を率いて西走させた。賀魯は咄陸可汗がかつて支配していた地域を占領して、牙(本営)を千泉に設け、みずから沙鉢羅可汗と号し、つい咄陸・弩失畢の十姓(十部落)を統治するにいたった。咄陸五部落には、五人の啜がいた。処木昆律啜・胡禄屋闕啜・摂舎提暾啜・突騎施賀邏施啜・鼠尼施処半啜というのがこれである。弩失畢五部落には五人の俟斤がいた。阿悉結闕俟斤・哥舒闕俟斤・拔塞幹暾沙鉢俟斤・阿悉結泥孰俟斤・哥舒処半俟斤というのがこれである。そして胡禄啜闕は賀魯の女婿であり、また阿悉結闕俟斤はもっとも強盛であった。精兵は数十万人に達した。賀魯は咥運を莫賀咄葉護とし、ついに、廷州に入寇してその数を荒廃させ、数千人を殺し、また捕えて去った。そこで帝は詔を下して、左武衛大将軍の
梁建方、右驍衛大将軍の
契苾何力を弓月道行軍総管とし、右驍衛将軍の高徳逸、右武衛将軍の薩孤呉仁をその副官として、府兵三万人を遣わし、回紇の騎兵五万人と合わせ協力して、賀魯を攻撃させた。駱弘義は計略を上奏してつぎのように言った。「中国を安んずるには信義により、夷狄をとりしまるには計略による、というふうに、臨機応変でなければなりません。賀魯は一城を保有し、今ちょうど寒くて雪が積もっているので、「唐軍はきっと来ない」と言っているということです。この機に乗じて一挙にこれを滅ぼすべきであります。もしぐずぐずして春になってしまえば、事態に変化がおこるでありましょう。たとえ賀魯が諸国を連合させないにしても、必ずや行く手はるかに逃げ去ってしまうにちがいありません。のみならず、わが軍隊がほんらい目ざすのは、賀魯を誅殺することであります。そして処蜜・処木昆などの部族もまた、それぞれこの災厄からみずからぬけ出したいと願っております。いまもし動かず進軍しなければ、かれらはふたたび賀魯と連合するでありましょう。いま厳冬で風はつよく、兵士たちはひび・あかぎれに悩んでいますけれども、そうかといって、長らく滞留して辺境の糧食を食いつぶし、賊が強力な味方を得て死期をのばすのを坐視していてはなりません。どうか処月・処蜜などの罪をゆるしてやり、もっぱら賀魯だけを誅殺されますように。災禍をのぞくにはその根本を絶つよう力をつくすべきで、それよりさきに枝葉をとりはらうべきではありません。射脾・処月・処蜜・契苾などの部族の兵士を遣わし、一ヵ月分の食糧を持って急ぎこれに迫らせ、大軍(唐軍)は憑洛水のほとりにとどめてこれを勢づけるようお願いします。これは戎狄を駆りたててを攻めるというものです。しかもその戎人ともは、唐兵をたのんでその羽翼とするでしょう。いま胡が前に出軍し、唐兵がその後を追ったならば、賀魯は進退に窮するでしょう」と。天子はこの上に賛成して、駱弘義に詔し、
梁建方らを助けて、これを経略させた。処月部落の朱邪孤注なるものが軍隊を率いて賊軍がらにつき、牢山に拠った。
梁建方らはこれを攻撃し、敵の軍が潰散すると、五百里にわたりこれを追跡して孤注を斬り、首級九千を上り、その首領六十人を虜にした。駱弘義の計略どおりにはゆかなかったのである。
永徽四年(653)に瑤池都督府を廃止し、処月部族のところに金満州を設置した。また左屯衛大将軍の
程知節を派遣して葱山道行軍大総管とし、諸将を率いて進み賀魯を討たせた。この年(623)に、咄陸可汗が死んだ。その子供の真珠葉護は、賀魯を討ってみずから功績をたてたいと願い出たが、賀魯の抵抗にあって前進できなかった。その翌年に程知節は、歌邏禄・処月部族を攻撃して、首級一千級を斬り、馬一万頭を捕獲した。副将の周智度は処木昆部族の城を攻撃してこれを陥れ、首級三万級を斬った。前軍総管の
蘇定方は、賀魯支配下の西突厥の別部、鼠尼施部族を鷹娑川に攻撃し、斬った首級、捕獲した馬はきわめて多かった。賊軍は鎧や武器を棄て、それらは戦場をおおった。たまたま副総管の
王文度はあえて決戦をのぞまず、しかも怛篤城を降すとその財物を掠奪し、城を破壊して人々をみな殺しにした。
程知節はこれをおさえられなかった。
顕慶年間(656-661)の初頭に
蘇定方を伊麗道行軍大総管に採用し、燕然都護の
任雅相、副都護の
蕭嗣業、左驍衛大将軍・瀚海都督の回紇婆閏らを率いて、賀魯を徹底的に征討させた。また、右屯衛大将軍の阿史那弥射と左屯衛大将軍の阿史那歩真とに詔して、流沙道安撫大使とし、金山道から分かれて出軍させた。俟斤の嫩独禄らの一万余の天幕から成る民衆が
蘇定方を迎えこれに降った。蘇定方は精鋭の騎兵を率いて曳咥河の西に到達し、処木昆部族を攻撃してこれを破った。賀魯は十姓の騎兵十万人を挙げ来って抵抗し、蘇定方は兵士一万人を率いてこれに当たった。虞軍は唐の兵士の少ないのを見て、騎兵によって唐軍を包囲した。蘇定方は歩兵に命じて平原に拠り、矛を集めつらねてすべて外に向けさせ、自身は騎兵を率いて北方に陣どった。賀魯がさきに平原上の軍隊を攻撃し、攻めること三度におよんだが、唐軍は動こうとはしなかった。蘇定方が騎兵を出撃させてそれにつけこみ攻撃すると、虜軍は大敗を喫して潰散した。唐軍は敗走するものを数十里にわたり追撃して、三万人を捕え、また斬り、その大首領である都搭達干など二百人を殺した。翌日に逃走するものをさらに追跡した。弩失畢の五部落はここですべて降服したが、咄陸の五部落は、賀魯の敗戦を聞くと南道に急ぎおもむき、歩真に降服した。蘇定方は、蕭嗣業と回紇婆閏とに命じて邪羅斯川に急ぎおもむいて虜軍を追撃させ、
任雅相には、降兵を率いてこれにつづき進軍させた。たまたま大雪が降って、兵士たちが雪の晴れるの待つように願うと、
蘇定方は、「いま雪が降って暗く、風はつめたい。虜軍は、われわれは出軍できまいと考えているだろう。だからかれらの不意を襲うのが良い。ぐずぐずしていたら、かれらは遠くへ逃げてしまうだろう。できるだけ短時日につぎつぎと成功を収めるのが上策である」と言った。そこで
蘇定方の軍隊は昼夜兼行し、通過するところの人をすべて捕えて双河に到着し、弥真・歩真と合流した。軍隊は満ちたり、その意気はさかんであった。賀魯の牙(本営)から二百里はなれていたが、そこで陣列をととのえて進軍し、金山に到達した。賀魯の軍はたまたま狩猟に行っていた。
蘇定方の兵士はその牙を思うがままに破壊して、数万人を虜にし、および武器を獲得した。賀魯は逃走して伊麗水を渡河した。蕭嗣業は千泉に達した。弥射が伊麗水にいたると、処月・処蜜諸部族はすべて降服した。弥射が双河に達したとき、賀魯は、これに先んじて歩失達干に命じ柵に拠らせておいて戦ったが、弥射はこれを攻撃して潰散させた。
蘇定方は賀魯を追跡して砕葉水に到達し、その民衆をのこらず捕えた。賀魯と咥運とは、鼠耨設のもとへ逃げようとして、石国の蘇咄城まで来たが、馬は進まず、軍衆は飢えていた。それでかれらは宝物をたずさえて入城し、馬を買い求めようとした。その城主の伊涅達干はかれらを迎えたが、かれらが入城してしまうと、これを拘留して石国へ送りとどけた。たまたま弥射の子供の元爽が蕭嗣業の軍隊とともに来て、その身柄を捕えた。そこで諸部族の兵士をすべて解散させ、道路を開通させて駅を設け、野ざらしの死骸を集めて人々の悩み苦しみを聞き、また賀魯が掠奪したものを、ぜんぶ民衆にかえしてやった。こうして西域は平定されるにいたった。
賀魯は
蕭嗣業にむかって、「私は敗残の捕虜にすぎない。先帝(太宗)は私を厚遇されたのに、私はこれに背いた。いま天が怒って罰をくだされたのであって、いまさら何をか言わんやである。しかも、私の聞くところによると、中国の法律では、人を殺すさいには必ず都の市でこれを行なうということだ。私の願いは昭陵において死に、わが罪を先帝に詫びることである」と言った。帝は、「先帝は賀魯に二千の天幕から成る民衆を賜い、これを統治させられた。いま罪人としてかれを捕えたが、かれを昭に献げて良いものだろうか」とたずねた。
許敬宗は、これに対して、「むかし軍隊が凱旋したときには、宗廟にいたり、勝利を告げて酒を飲み、もし諸侯ならば、殺して切り取った敵兵の左耳を天子に献上したもので、陵墓に献げるということはいまもって聞いたことがありません。しかし、陛下が園寝に仕え祭られるのは、宗廟に対するのと同じであります。御意志どおり行なわれても礼にそむくことはないと存じます」とこたえた。そこで、賀魯を捕えて昭陵に献げ、その罪をゆるして誅殺しなかった。
賀魯の勢力が滅んでしまうと、かれの支配していた領域を分けて州・県とし、それぞれに諸部落を住まわせた。処木昆部落は匐延都督府、突騎施索葛莫賀部落は嗢鹿都督府、突騎施阿利施部落は絜山都督府、胡禄屋闕部落は塩泊都督府、摂舎提暾部落は双河都督府、鼠尼施処半部落は鷹娑都督府とし、さらに崑陵・濛池両都護府を設置して、これらを統轄させた。それに服属した諸国にはみな州を置き、西方は波斯にいたるまでを、すべて安西都護府の統治に服させることにした。また、阿史那弥射を興昔亡可汗とし、驃騎大将軍・崑陵都護を兼ねて咄陸五部落をとりしまらせ、阿史那歩真を継往絶可汁とし、驃騎大将軍・濛池都護を兼ねて弩失畢五部落をとりしまらせ、それぞれに帛十万段を賜わった。さらに、光禄卿の承慶を遣わして勅書をたずさえ行かせ、かれらを冊立した。賀魯が死ぬと、詔によって、かれを頡利の高墳の側に葬り、事のあらましを石にしるさせた。
阿史那弥射もまた、室点蜜可汗の五代目の子孫に当たり、その一門は代々、莫賀咄葉護であった。貞観年間(627-649)に使者を遣わし、節を持っておもむかせ、弥射を立てて奚利邲咄陸可汗とし、鼓・纛を賜わった。弥射の族兄の歩真は弥射を殺して自分が立とうとたくらんだ。弥射は国を保つことができず、ただちに、支配下の処月・処蜜などの部族を挙げて入朝し、右監門衛大将軍に拝せられた。そして歩真は、ついにみずから咄陸葉護となったが、その民衆は従わず、かれから逃げ去った。そこで歩真もまた一族とともに来朝し、左屯衛大将軍に拝せられた。弥射は、帝が高麗を征討するのに従い、功績を立てて平壌県伯に封ぜられ、右武衛大将軍にうつされた。賀魯を平定するにおよんで、弥射は歩真とともに、それぞれ可汗となり、その支配下の刺史以下の官を任命することを許された。この年(659)に弥射は、真珠葉護を双河に攻撃してかれを斬り、二人の闕啜を殺した。
弥射と歩真とは民衆を安んじ治める能力に欠け、支配下のものの多くはこれを怨んでいた。そこで思結部族の都曼は疏勒・朱俱波・喝槃陀の三国を率いて反乱をおこし、于闐を撃破した。左驍衛大将軍の
蘇定方に詔してこれを征討させた。都曼の軍隊は馬頭川を保有したが、顕慶五年(660)に、蘇定方はその城に到達し、これを攻撃して陥れた。竜朔二年(662)に、弥射と歩真とは、軍隊を率い、颱海道総管の
蘇海政に従って亀茲を討った。歩真は弥射にくみ、しかも弥射の部落を併合しようと思った。そこでかれは蘇海政に、弥射が謀反を企てていると讒言した。蘇海政はこれを見きわめることができず、すぐさま将帥たちを集めてあいはかり、弥射が事をおこすのにさきんじてかれを誅殺しようとした。そこで、蘇海政は、「たずさえて来たものを出して、可汗・首領たちに賜わる」という詔が下された」といつわり称した。弥射が部下をひきつれてやって来ると、蘇海政は、かれらを残らず捕えて斬った。弥射に属していた鼠尼施・抜塞幹部族はそれからそむいて逃走したが、蘇海政は、これらを追撃して平定した。歩真は乾封年間(666-668)に死んだ。
咸亨二年(671)に、西突厥の部酋の阿史那都支を左驍衛大将軍とし、匐延都督を兼ねて、その部衆の心を安んじやわらげさせた。儀鳳年間(676-679)に、都支は、みずから十姓可汗(西突厥の可汗)と号し、吐蕃と連合して安西に入寇した。吏部侍郎の裴行倹に詔してこれを討たせようとしたが、
裴行険は、軍隊を出さずに計略を用いて勝利を収むべきことを願い出た。そこでただちに裴行倹に詔し、冊書をたずさえて、波斯の王子を送り帰すとともに大食を安撫させることにし、そのさい、ただ両蕃の地を通るにすぎないように思わせた。都支ははたして、これに疑いを持たず、子弟をひきつれ裴行倹に面会を求めて来たので、ついにこれを捕虜にした。裴行倹は、また諸部族の首領を呼び集めて捕え、さらに、別将の李遮匐を降服させ、これらの捕虜をひきつれて帰国した。これは調露元年(679)のことであった。西姓(西方の諸部落、西突厥)は、このときからますます衰え、そののち、二部(咄陸部と弩失部)では、人々が日ごとに離散していった。そこでついに、弥射の子供の
阿史那元慶を擢用して左玉鈐衛将軍とし、歩真の子供で歩利設だった斛瑟羅を右玉鈐衛将軍とし、かれらに、それぞれの父の所領と可汗号とをすべて継承させた。元慶はかさねて、鎮国大将軍・行左威衛大将軍に拝せられた。則天武后が政権をほしいままにするようになると、この両人は諸蕃の首領を率いて、睿宗に武氏という姓を賜わるよう願い出た。また斛瑟羅をあらため号して、竭忠事主可汗と称した。長寿年間(692-694)に、元慶は皇太子に拝謁したという罪を負わされ、
来俊臣の讒言をうけて腰斬の刑に処せられた。そして朝廷はかれの子供の
阿史那献を振州に流した。
その翌年(694)、西突厥諸部族は、阿史那俀子を即位させて可汗とし、吐蕃とともに、武威道に入寇した。大総管の
王孝傑は、これらと冷泉・大領谷で戦って撃破した。砕葉鎮守使の韓思忠は、また泥孰俟斤と突厥施質干、胡禄などとを破った。こうして吐蕃の泥熟没斯城を攻め陥れた。聖暦二年(699)に、斛瑟羅を左衛大将軍とし、平西軍大総督を兼ねて、その国の人々を鎮撫させた。このとき突騎施の烏質勒の兵力が強盛だったため、斛瑟羅はあえて帰国しようとはせず、その部六、七万人とともに中国内地に移り住むにいたり、長安で死んだ。そこでかれの子供の懐道を擢用して右武衛将軍とした。
長安年間(701-704)に、
阿史那献を右驍衛大将軍とし、興昔亡可汗・安撫招慰十姓大使・北廷大都護を継承させた。長安四年(704)に懐道を十姓可汗とし、濛池都護を兼ねさせた。しばらくして、献を磧西節度使に雇擢用した。十姓(西突厥)部落の都担が反乱をおこすと、献はこれを攻撃して斬り、その首級を宮廷へ送った。かれは砕葉より西方の帳落(遊牧民部落)三万を集めて中国に属させたので、璽書を下してこれを嘉しいたわった。葛邏禄・胡禄屋・鼠尼施の三部族はすでに中国に臣属していたが、これらが東突厥の黙啜の侵掠をうけたので、献を定遠道大総管とし、北廷都護の湯嘉恵などと、前後相応じてこれに当たらせた。そこで、突騎施は、この辺境での争いをひそかに利用した。このために、献は軍隊の増援を乞い、自身は入朝したいと願い出たが、
玄宗はこれをききいれず、左武衛中郎将の王恵に詔し、節を持ってかれを安んじいたわらせ、また突騎施都督で車鼻施啜の称号を帯びた蘇禄を冊拝して順国公にしようとした。しかし突騎施はすでに撥換、大石城を包囲し、さらに四鎮を占領しようとしていた。たまたま湯嘉恵は安西副大都護に拝せられ、すぐさま三姓葛邏禄(三氏族から成る葛邏禄部族)の軍隊を遣わし、献と協力してこれを攻撃させた。帝は、王恵に詔し、これらと力をあわせて経略させようとした。しかし、宰相の
宋璟と
蘇頲とが、「突騎施がそむき、葛邏禄がそれを攻撃していますが、これは、夷狄どもがみずからたがいに傷つけ滅ぼしあっているのであって、朝廷から出たことではありません。もしかれらのうちで強大な方が傷つき、弱小な方が滅びるならば、ともにわが国にとって好都合であります。王恵がおもむいて慰撫しようとしているときにあたって、軍隊によって干渉すべきではありません」と言ったので、これを中止した。献は結局、娑葛が強気で他人の言に耳をかさず、これをおさえきれないので、かれもまた中国に帰して安で死んだ。
突厥施(突騎施)の吐火仙が敗れると、はじめて懐道の子供の昕を十姓可汗・開府儀同三司・濛池都護とし、またかれの妻、涼国夫人の李氏を冊立して
交河公主とし、軍隊を遣わしてかれらを護送させた。昕は砕葉の西の倶蘭城に到達すると、突騎施の莫賀達干に殺された。
交河公主はその子供の忠孝とともに逃げ帰り、忠孝は左領軍衛員外将軍を授けられた。西突の阿史那氏族は、こうしてついに滅亡してしまったのである。
突騎施の烏質勒は、西突厥の別部の首領である。賀魯の勢力が破滅してから、二部(咄陸部と弩失畢部)の可汗はともに先に入朝して天子に仕え、虜(西突厥)にははっきりした君主がいなかった。烏質勒は、はじめ斛瑟羅に隷属し、莫賀達干であった。斛瑟羅は、その政治が冷酷で、民衆はこれに心服していなかったが、これに対して烏質勒は、支配下のものをよくいつくしみ、威信があった。多くの国はかれに帰順し、またその帳落(遊牧民部落)はしだいに強盛になった。そこでかれは二十人の都督を置き、それぞれが七千人ずつの兵士を統べることにした。さきには砕葉の西北にたむろしていたが、しだいに砕葉を攻撃して占領すると、すぐさま自分の牙(本営)を移してここに居をかまえ、砕葉川を大牙と、そして弓月城・伊麗水を小牙と呼んだ。その領域は、東では北突厥、西では多くの胡国と隣接し、また東は西州・廷州の方向にあたり、斛瑟羅の支配地域をすべて併合してしまった。
聖暦二年(699)に、鳥質勒はその子供の遮弩を遣わして来朝させた。武后はこれに手厚いいたわりを示し、神竜年間(705-707)には、烏質勒を懐徳郡王に封じた。この年(706)に烏質勒が死んだ。かれの子供の嗢鹿州都督の娑葛を左驍衛大将軍とし、父の封爵を継がせた。このときかれの支配する精兵は三十万人を数えた。十姓可汗の阿史那懐道に詔し、節を持ち使いさせて、かれを冊立し、後宮の婦人四人を賜わった。景竜年間(707-710)に、娑葛は使者を遣わし入朝させて謝意を表した。中宗はそのために前殿(正殿の前にある御殿)に臨御して万騎羽林の二仗をひきつれ、使者を引見してねぎらい下賜品を賜わった。娑葛はまもなくその部将の闕啜忠節と憎みあい、たがいにはげしく戦った。娑葛は闕啜忠節の罪を朝廷に訴えて、かれを京師へつれて来るよう願い出た。闕啜忠節は大金を宰相の
宗楚客などに賄賂としておくり、自分が入朝しなくてもよいように取り計ることをたのみ、また吐蕃を誘って娑葛を攻撃し報復したいと申し出た。ちょうどそのとき、宗楚客は国政を専らにしていた。そこですぐさま、かれは、御史中丞の
馮嘉賓に命じて節を持って使いし、事にあたらせた。馮嘉賓は、闕啜忠節と書簡を交換したが、娑葛の巡邏兵がかれの書簡を入手した。娑葛はついに馮嘉賓を殺し、弟の遮弩に命じて、軍隊を率い辺境地域を掠奪させた。安西都護の
牛師奨はこれと火焼城で戦ったが、牛師奨は敗れて戦死した。そこで娑葛は表を奉って、宗楚客の首級を要求し、見せしめにしたいと願った。大都護の郭元振は表を奉り、娑葛の行状が正しく、かれは当然赦さるべきであることを述べた。詔を下してこれをききいれ、こうして西方地域の争乱はついにおさまった。
ところで、娑葛は、弟の遮弩の支配下の部落を分け始めていたが、遮弩は自分の部衆が少ないのを恨み、兄にそむいて東突厥の黙啜に帰順し、道案内をして帰り自分の兄を攻撃することを願い出た。黙啜は遮弩をとめおき、みずから二万人の軍隊を率いて娑葛を攻撃し、かれを捕虜にした。黙啜は帰国すると、遮弩にむかって、「汝は兄弟の間で親しみあっていない。そんな状態でどうして我に心から仕えることができようか」と言い、二人とも殺してしまった。
突騎施の別種の首領で車鼻施啜の蘇禄なるものが、余衆をよせ集め、みずから可汗となった。蘇禄は支配下のものをよくいたわり従えたので、諸部族がしだいに集まってきて、その部衆は二十万人に達した。こうしてかれは、またもや西域に勢力を確立し、開元五年(717)にはじめて来朝した。かれに右武衛大将軍・突騎施都督を授け、その献上したものを受けとらなかった。武衛中郎将の王恵に命じ、節を持って使いさせ、蘇禄を左羽林大将軍・順国公に拝し、錦の上衣、鈿帯、魚袋など七つを賜わり、金方道経略大使とした。しかし蘇禄は詐計にたけて悪賢く、誠心から唐に臣属していたわけではなかった。天子はかれを唐につなぎとめておこうとし、その称号を進めて忠順可汗とした。そののち二年たって蘇禄からの使者が献上物を奉った。帝は阿史那懐道の娘を
交河公主とし、かれにめあわせた。この年に、突騎施は安西で馬による交易を行なったが、そのさい、使者が公主の指令を都護の
杜暹に伝えた。杜暹は怒って、「阿史那氏族の娘が、その身分をかえりみず指令をのべ伝えるとは、なにごとか」と言い、その使者を笞うって、蘇禄に告げなかった。蘇禄は怒ってひそかに吐蕃と連合し、軍隊を発して四鎮を掠奪し、安西城を包囲した。ちょうどそのとき、杜暹は帰国して国政をつかさどり、
趙頤貞が代って都護になっていたが、かれは長期にわたって城壁にのぼり防戦し、城からうって出ては敗れた。蘇禄はその人畜を捕え、穀物倉のたくわえを奪い出した。しかししばらくして杜暹がすでに宰相になっていることを聞き知り、軍を引いて去った。蘇禄はまもなく、首領の葉支
阿布思を遣わして来朝させた。玄宗は使者を引見し、かれのために宴を設けた。たまたま、東突厥の使者もまた来ていて、蘇禄の使者と席の上下を争い、「突騎施は、国が小さく、しかも突厥に臣属していたものだ。その使者が上席を占めるべきではない」と言った。これに対して、蘇禄の使者は、「この宴は、ほかでもない私のために張られたものである。私が下座にすわるわけにはゆかない」と言った。そこでついに東西にそれぞれまんまくを張り設けて、蘇禄の使者は西の席を占め、こうして宴を無事に終えた。
はじめ蘇禄は、その民衆をいつくしみ治め、また、生まれつき勤勉・質素で、戦闘のたびごとに捕獲したものがあれば、それらを残らず支配下のものに分け与えた。このため、諸族はかれに心服し、かれのために力をつくした。また吐蕃・東突厥と交わり通じ、これらの二国の君主は、いずれもその娘をかれにあわせた。かれはついに、三国の娘を立ててともに可敦とし、数人の子供を立てて葉護とした。こうしてかれの出費は日ごとに多くなってきたけれども、かれは平生からたくわえをしていなかった。そこで晩年には貧困を憂えてたのしまず、このために、しだいに鹵獲したものを自分の手元にとめおいて分配しなくなり、支配下のものは、ここにはじめて、かれにそむくにいたった。そのうえ、かれは中風を病んで、手足の一本がまがって役に立たなくなった。そこで、大首領の莫賀達干と都摩支との支配する二部落が強盛となり、しかもその種族の民衆で、娑葛の後裔と自称するものは黄姓、また蘇禄支配下のものは黒姓となり、これまたたがいに疑い敵視しあうことになった。
ほどなく莫賀達干と都摩支とは、蘇禄を夜襲してかれを殺した。しかし都摩支はまた、達干にそむき、蘇禄の子供の吐火仙骨啜を即位させて可汗とし、砕葉城に住まわせた。そしてかれは、黒姓の可汗の爾徴特勒を味方に引きいれて怛邏斯城を保有させ、協力して達干を攻撃した。帝は磧西節度使の
蓋嘉運に命じて、突騎施と抜汗那などの西方諸国とを慰撫させた。莫賀達干は、嘉運とともに、石国の王の莫賀咄吐屯、史国の王の斯謹提を率い、協力して蘇禄の子供(吐火仙)を攻撃し、かれを砕葉城で破った。吐火仙は旗を棄てて逃走したが、蓋嘉運らはかれとその弟の葉護頓阿波とをともに捕虜にした。疏勒鎮守使の夫蒙霊詧は、精鋭の軍隊を擁して、抜汗那王とともに、怛羅斯城を急襲し、黒姓の可汗(爾微)とその弟の撥斯とを斬り、また曳建城に入って
交河公主、蘇禄の可敦、および爾徴の可敦を捕えて帰った。また西方諸国の散亡した人々数万人を数えはかって、一人のこらず抜汗那王に与え、こうして諸国はすべて降服するにいたった。
処木昆部落の匐延都督府の闕律啜などの率いる諸部落は、みな書を奉り謝意を表して、つぎのように言った。「私どもは、遠い国土のはてに生をうけましたが、そこでは国は乱れ、王は薨じ、たがいに攻め殺しあっておりました。幸いにも、天子は
蓋嘉運を遣わし、兵を率いて暴虐を誅し危機を救わせられました。願わくば、私どもが聖顔の御前で頭を地につけて敬礼し、部落を率いて安西に帰服し、末長く御国の外臣となれますように」。この願いはききいれられた。
翌年(740)に、闕律啜を擢用して右驍衛大将軍とし、石王に冊立し、また順義王とし、さらに加えて史王に拝して特進とし、その功績を顕彰してこれに報いた。
蓋嘉運は吐火仙骨啜を捕えて太廟に献げた。天子はこれを赦して、左金吾衛員外大将軍・修義王とし、頓阿波を右武衛員外将軍とし、また阿史那懐道の子供の昕を十姓可汗として突騎施の部衆を治めさせた。莫賀達干は怒って、「蘇禄を平定したのは、わが功績である。いま昕を立てるとはなにごとか」と言い、すぐさま諸部落を誘って反乱をおこした。そこで
蓋嘉運に詔してかれを招き諭させると、かれは妻子と纛官(はたもち)、首領をひきつれて降服してきた。それでついにかれに命じてその部を統べさせた。その数年して、昕をふたたび可汗とし、軍隊を遣わして護送させた。昕は倶蘭城に到達すると、莫賀咄に殺された。莫賀咄は自立して可汗となったが、安西節度使の夫蒙霊詧がかれを斬り殺し、大纛官の都摩支闕頡斤を三姓葉護とした。
天宝元年(742)に突騎施部族は、あらためて黒姓の伊里底蜜施骨咄禄毘伽を可汗とし、かれはしばしば使者を遣わして貢ぎ物を献上した。天宝十二載(753)に黒姓部落は、登里伊羅蜜施を即位させて可汗とし、これにもまた詔冊を賜わった。
至徳年間(756-758)よりのち、突騎施の勢力は衰えて、黄姓と黒姓とがともに可汗を立てて攻撃しあったが、中国では、ちょうどそのころ事が多く、これをとりしまる余裕がなかった。乾元年間(758-760)には、黒姓の可汗である阿多裴羅は、なお使者を遣わして入朝させることができた。大暦年間(766-779)よりのち、葛邏禄の勢力が盛大になって、かれらが砕葉川に移り住み、突騎施の黄・黒二姓は衰えて、ついに葛邏禄に臣属するにいたった。そして斛瑟羅に支配されていたほかの部衆は回鶻に服属した。これらが破滅するにおよんで、特庬勒なるものがいて、焉耆城に居をかまえ、葉護と称した。また、ほかの部衆は金莎領を保有した。これらの民衆は二十万に達した。
賛にいわく、隋末期、国内が有名無実となると外敵の攻撃をうけ、生ける者は道路に疲弊し、死者は原野にさらされ、天下の盗賊は共に攻めあい滅ぼしあった。まさにこの時、四夷の侵入を受け、中国は衰退して突厥は最強となった。弓をとれる者は百万と号し、華人は失職して皆行ってはこれに従った。この謀を恨み、誘敵して辺境に入らせた。そのため頡利は自ら強大なこと古今に稀であるとした。高祖が即位すると和平し、よってしばしば軍を出しては賊を討伐することを助けた。そのため偽って臣と称し、受けた贈物は数えられないほどであった。虜は利を見ては動き、また賊とも和を連ね、吏民を殺掠した。ここにおいて国をあげて入寇し、渭橋にせまり、騎兵は塵のごとく京師にせまった。太宗はみずから兵士を率い、責をあらわしては陰ながらこれと交わった。夷戎は当初内より阻んだ。三年もせずして、頡利を捕縛して北の闕下(太廟)に献じ、その国はついに壊滅した。詩経・書経の時代以来、暴を征伐して乱を排除し、敵を蔑っては帝の心はまた速かった。秦・漢の頃は浅はかであった。しかし帝はしばしばにわかに軍に労を告げず、大敵にも逃げる心などなく、よく将を任じれば必ず功があり、思うに黄帝の用兵というべきであろう。しかし突厥は失徳をもって有道にあがらい、次第に弱っていっては勃興し、運の盛衰があるとはいえ天に属することがらであって、その滅亡を信じることは理由があることなのだ!
最終更新:2025年04月04日 21:29