悪の軍団 ◆j893VYBPfU


僕は姉さんをベッドに寝かせ、静かに部屋を出る。
長い回廊を歩き、やがて中庭に出た。



さあ、敵を狩らなくては。
もっと、愉しまなくては。


残りたったの、三十八人なんだから。



窓から外を眺める。嫌に五感が冴え渡る。
――深呼吸。夜の冷えた空気を、全身に取り入れる。
身体は羽のように軽く、常に活力に満ち溢れている。、
そして気分は、皓々と夜空を照らす満月よりも冴え渡る。
これは高揚感ではない。
むしろ清涼感や、爽快感といったものに近い。

いや、冴え渡るのは五感だけではない。
この地に漂う数多の精霊達の気配さえ、身近に感じ取れる。

目を瞑ろうとも。
耳を塞ごうとも。
鼻を摘もうとも。
口を閉じようとも。
肌を覆おうとも。

その存在を、心身の全てで。
魂同士が繋がったかのように。
地水火風の喜びが、憤りが、哀しみが、楽しみが。
僕には正確に掌握出来る。
これなら、たとえ魔道書が手元になくとも
ある程度の魔法は容易く行使できるだろう。

何故なら、僕は正しくそれらを理解しているのだから。
理解が進めば、それ以上の事が出来るのかもしれない。
僕の頭蓋に、貴重な知識が刻み込まれていくのだから。



――世界は、一変した。
僕の中なる、そして僕を取り巻く世界さえもが変じた。



素晴らしい。
素晴らしい気分だ。



…理由は分からない。



ただ、僕がより高次の存在へと生まれ変わった。
それだけは、確かなのだ。










――あの時から。










――あの時とは?










“いや、それは如何でもいい事だ”










僕は、考え直す。それは意味のない事だ。
既に終わってしまった過去事なのだ。ならば、意味はない。

五感が嫌に鋭敏になったせいだろうか?
遠くにあるはずの人間の気配が、手に取るように感じ取れる。
窓からの風がもたらす、その芳しき若い雌の匂いが鼻を擽る。
城への侵入者の足音が、呼吸が、耳朶を打つ。
目を合わせる距離に近づけば、鼓動さえ聞けるかもしれない。

それは汗と潮、そして砂の匂いを纏わりつけて。
足音は不規則で、その息遣いも随分と荒い。
疲労困憊といった有様である。
先程の轟音の主は、状況から察するにおそらく彼女なのだろう。

それで、ひっそりとこちらに侵入したつもりか?


…笑わせてくれるッ!


女、お前は狩られるのだ。
女、お前は嬲られるのだ。


何故だって?
当然の報いだ。お前はヴァレリアの未来を担う、
ベルサリア・オヴェリス女王陛下の生命を…。
いや、違う。そうじゃない。そうじゃないんだ…。
そんな他人行儀な理由だけでは決して無い…。


 た  血   りが   も、
 僕  って  愛 姉さ   ら。




――――――――誰だ?




それは、誰だ?
それは、何だ?




頭が不意に漂白されたような感覚。
おかしい。頭はこれ以上なく冴え渡っているはずなのに。
掛け替えのない大事な記憶を、僕は忘れかかっている。
決して失ってはならないモノを、僕は失いかけている。

頭がおかしくなってしまったのか?
いや、そんなはずはない。


当たり前の事から、記憶を整理し直す。


 僕はデニム・モウン。
 そして、今出た部屋に寝かせた女は、ベルサリア・オヴェリス女王陛下。
 ――どこか、おかしくはないのか?僕は彼女をそんな他人行儀には……。
 いや、それは間違いではない。それは厳然たる事実だッ。

 血の繋がりがないとはいえ、義弟のこの僕に欲情の念すら抱く愚かな女である。
 全く、身分の貴賎を問わず、人間という生き物は全てが喜劇の存在でしか無い。
 何かに縋らなければ精神を安定させる事すら出来ない、本当に脆弱な存在だ。

 あの女は手っ取り早く始末してもよかったが、他ならぬ僕が懇願しているのだ。
 まあ無碍にはできないさ。それに、殺すだけならいつだって出来る。
 しばらくは、あの女の心身を弄んで楽しんでやってもいい…。




――いや、それは違うッ!
――いや、違わないさッ。




 僕の、僕達のしている事。いや、していた事はそうなのだから。
 ――違わないのかい?デニム・モウン。
 相手の想いに結論を出さず、拒否もしなければ肯定もしない。
 ただ徒に時を過ごす。それを弄んでいるとは言わないのかい?
 まあ、どちらにせよ同じことだ。




――……………。
――まあ、そう深刻に考えるな。気楽に行こう。




 あの女にはずっと昔から、散々迷惑と面倒をかけさせてくれたのだ。
 その位の見返りを頂いても、全く問題はない。
 僕がヴァレリアで挙げた功績を考えれば、謙虚に過ぎる位だ。
 第一、それが彼女の望みでもあるのだろう?
 ならばデニム・モウン。その期待に答えてやれ。
 それが“僕達”の責務でもあるんだッ。

『愛する者に奪われたい。汚されたい。犯されたい。』

 彼女が望むもの、その全てをただ与えてやれば良い。
 何一つ、問題はない。口を噤めば誰にもわからだろう。
 この久しぶりの現界、愉しみの一つでもなければ面白くもない。




――何一つ間違えてはない、のか?
――何一つ問題はない。己の内なる声に従え。それが答えだッ。




 僕はこの上なく、己が何者であるかを正しく認識している。
 記憶にもなんら齟齬も欠落もない。体調も万全以上である。
 むしろ、自分でも怖くなる位に五感も冴え渡っている。
 気力もこの上なく充実している。


 やはり、気のせいだ。
 気のせいなのだろう。




“僕達”の目的は、“血塗られた聖天使”をこの地に降臨させる事。
“それ以外の事は如何でもいい事だ”




――――――――さて、狩りに向かうか。




“僕達”が迷いを振り払っていた所、



『――初めまして、皆様方。
 私は悪鬼使いキュラーと申す者。以後、お見知り置きを。』



同胞ハシュマリムを差し置いた、不遜なる余所者からの放送とやらがあった。



          ◇          ◇          ◇



「もう、ヘトヘトですよー。」


ただでさえ身体に密着した扇情的な制服を、
全身から滴る汗でさらに張り付かせた茶髪の女性は、
誰に聞かれるでもなく、この上なく大きな溜息を一つ付いた。
その姿は砂埃にも塗れ、見るからに不快そうである。


「はぁー、お風呂にでも入りたいですねぇー。」


この殺し合いの場で呑気も極まりない事を口にしているが、
女の惨状を見れば、誰もその意見に反論は述べないだろう。
その発言が完全な空元気であり、見るからに憔悴しきっている事は
誰の目にも明らかであるから。


『自分の肉体』という最大の武器を、常に万全かそれに近い形で
運営維持を図るのは、元暗殺者として当然の心得である。
体調がまっとうでなければ、本来出来るはずの仕事さえもしくじってしまう。
休憩によるロスタイムと、強行軍を続ける場合の効率低下を天秤にかけた結果、
体調回復を何より優先せざるを得なかっただけの話しである。

疾走中に聞いたキュラーによる臨時放送といい、
考えるべき問題、やるべき事は山ほどあるのだ。
そして、皆に伝えるべき事も。
それも、迅速に。
奴らの次に打つ手よりも速く。
今、ここで疲労で倒れるわけにはいかないのだ。

本当は、ここまで呑気な事は言っていられない。
さっきからの独り言も、湧き上がる焦燥を噛み殺す為に、
あえて自分に言い聞かせていたものであった。
焦りは過ちを産み、
疲労は誤りを生む。
何一、良いことはないのだ。


城門を駆け抜け、適当な一室を探す。
先客がいる可能性もある以上、あまり長居をする事は出来ない。
それが、イスラの言う“襲撃者達”や、
先程考えた“第三者”の可能性もある。
決して、油断だけは出来ないだろう。

だが、逆にこの城にネスティが避難している可能性もある。
あるいはマグナや先生、またはその仲間がいた場合は、
思わぬ助力にもなるかもしれない。…可能性は薄いだろうが。

休憩後も、しばらくはこの城の捜索を行う必要性があるだろう。
それが敵なら、遠くから顔を覚えるだけでも後々優位となれる。
無論、こちらから先の捕捉と用心を常に心がけねばならぬのだが。


それに、先程の臨時放送の内容確認も行っておきたい。
うまくやれば、抜け穴を見つけて武器庫の武器のみを
調達する事も可能かもしれない。
ベルフラウの首輪は、ここではまだ使いたくはない。
あれは、脱出の為にだけに使われるべきものだから。


――――まあ、何はともあれまずは着替と休息ですね。


手近な使用人の一室を見つけ、
内部を確認すると室内に侵入。
鍵も鏡も付いていなかったが、この際は仕方がない。
より良い部屋を探し回るゆとりはないし、
そもそも長居をするつもりもない。

そこで、着替えがある事を確認すると、
着た服を手早く脱ぎ始める。

この制服は、もう捨ててしまっても良いだろう。
汗と潮の臭いと砂埃を強く残したものなど、
持っているだけで周囲に存在を誇示するようなものだ。

お気に入りではあるのだが…。
元の世界に帰れば、いつでも買い直せるのだ。
元の世界に帰れれば、ではあるのだが。


制服に続き肌着を外し、髪を解き。
パッフェルは一糸纏わぬ姿となる。
ぺットボトルを二本ほど空け、頭からその水を全身に浴びせる。
こびり付いた汗と潮の臭い、そして爆発時に浴びた砂埃を、
水と共にまとめて洗い落とす。

流石に風呂まで沸かして入るつもりなどない。
単に臭いを消すだけなら、これで充分だろう。

濡れた身体は、近くにあるシーツで適当に拭く。
床が水で滴ってはいるが、この際は気にすまい。

最後に、部屋で見つけたサイズの一番近い服を目の前に置く。
何故か、アズリアの名の刺繍が入った軍服一式を見つけた。
着替か何かだろうか?他にもビジュやアズリアの副官(名前は失念した)の軍服もある。
アズリアのものは少し丈が小さく、特に胸が窮屈そうだが、この際贅沢は言えない。
男のものでは流石に大きすぎるし、特に腰周りが緩すぎて軽快に動けない。
アズリアには悪いが、あとで別のものを探す必要があるだろう。


――だが、それをに袖を通す前に。
二・三、大きく延びをしながら、自分の身体をつぶさに観察する。


――筋肉が付いている。それも、かなり。
二の腕を曲げると、見事な力こぶが出来る。うん、逞しい。
前かがみの姿勢を取ると、突き出た肩も随分と凄い事になる。
脂肪でない分マシだが、お世辞にも女性らしいとは言い難い。

身体の質感は、女性にしてはやや固い。
手は長年の登攀術や刃物の訓練やらでタコができ、
あちこちがゴツゴツになってしまっている。
爪も何度か割れたせいか、所々歪なままだ。

目を凝らして見てみれば、所々に細かい傷痕がある。
白くすべすべした珠の肌とは、お世辞にも言い難い。
身体だけは若いからこそまだ持っている、といった風情である。

アメルやミニスのような、男性の保護欲を掻き立てるような代物ではない。
空を舞う蝶を思わせる儚く華奢な身体でも、
新雪のように無垢な、白く柔らかい肌でもない。
男性がその身体を埋め、預けたくなるものではあまりないだろう。
自分よりも逞しい女性に、身体を預けたい男性なんているものか。

アメルらの身体は、家族に大事に育て上げられたからこそ出来上がった、
白磁器のような、人形のような。
女性らしさの極地であるが故に。
例えるなら深窓の令嬢が持ち得るような、気品ある美しさ。
アメルの方は村育ちだが、彼女ならドレスを着せても充分似合うだろう。
…私とは、違って。

そう。私の身体は。色々ととても大きく、逞し過ぎる。
嫌になるくらいに。


「はぁ。私って、やっぱり女性としての魅力ないのでしょうかね…。」


独り言を漏らす。溜息が一つ、溢れる。


「マグナさん、誘っても全然手を出してくれませんからねー。」


そう独り言を呟き、自らの乳房を指の腹でなぞり、その先端を軽く指で弾く。
その感覚を、自身の手で確かめるように。


――――やっぱり、アメルさんのようなタイプが良かったのでしょうかね…。


私に近寄ってくるのは、オルドレイクみたいな色魔か物好き位、か…。
そう思い悩むと先程よりさらに深く重い溜息が、もう一つ溢れた。

ただし、それはパッフェル自身から見ての事。
その同性すら羨む見事なまでの胸の双丘は、豊満さと美しさをも兼ね備え。
それでいて、何の支えもなしに一切垂れ下がる事もなく、上を向いている。
それだけではない。長くしなやかに伸びた無駄のない手足も、引き締まった臀部も。
実の所、その美しさは長年に渡り鍛え上げた全身の筋肉が支えているからでもあり。

その野生の躍動美と女性の豊満さを兼ね備えた見事な体型は、
一言で例えるなら、“美獣”。
未成熟な女性からすれば、パッフェルの肢体は
もはや憧憬と羨望の象徴ですらあった。

だが、本人にそこまでの自覚はなく。
彼女の溜息も、結局はないものねだりにも等しかった。



――――でもまあ。そういう初心な所が、彼の良いところなんですけどね。



――――「茨の君」だなんて呼ばれてた時代が、少々懐かしいですよー。



戦場には全く似つかわしく無い事を懸想していたせいか。
幾分か、重い気分もほぐれては来た。
気分転換には丁度良かったのだろう。
あと少し休めば、本調子とまではいなくとも、
行動には支障もなくなる。



――――だが。



――――ちょぉっと見通し、甘かったようですねー。



――――パッフェルさんともあろう者が、ここに来て痛恨のミスですよー。



パッフェルは、溜息をさらに一つ吐く。
今度は己の不手際に。致命的な失態に。
自嘲と後悔の。

それはいかなる者の手によるものか?
それはいつの間に行われたのだろうか?

何よりも警戒深い、潜入を得意中の得意とする元暗殺者が。
意味のない夢想に耽り、油断し切っていたとはいえ。
身体の酷使で、心身共に消耗しきっていたとはいえ。
その悪意に手足が生えたがごとき存在の接近を
一切感知する事が出来ず。


『動くなッ、女…。まずは両手を頭の後ろに組むんだッ。』


パッフェルはその何者かに無防備な背への接近を赦し、
その首筋に、月光より蒼白く光る刃を突き付けられていた。


106 想いこらえて(後編) 投下順 107 選ばれし者達
105 Insincerity 時系列順 107 選ばれし者達
101 Legion デニム 107 選ばれし者達
097 そして輝きは続く パッフェル 107 Espionage
最終更新:2011年01月28日 15:02