それがうたかたの夢であることはわかっていた。見えていてもやわらかくぼやけて、だからこそどんな望みでも叶い、そのくせ確かなものに思える。
そこでは風が吹き、こずえが鳴り、木漏れ日が揺れる。寝そべる草の感触もある。
隣にはナナリィがいる。車いすを降りて、横座りになって、そのまなこは閉じられたままだ。夢の中でもナナリィはか弱くたおやかだ。たつこともできず、見ることもままならぬナナリィを一人にしておくことはできない。なのにナナリィは笑みを見せる。それが夢であることはわかっていた。手を伸ばしても届かない。だからこそ、その甘さは何よりもいとしい。
なのに呼び声がある。ルルスを呼んでいる。
わかっているナナリィ、わたしはここにいる。いつでもここにいる。そんなに強く呼ばずとも・・・・・・
「兄様!」
はっとして目を覚ました。ここがその場ではないことを、目覚めた刹那に思い知っていた。身を起こした。いつの間にか掛けられていた袖無しの外套が、胸元から落ちる。ロロがかけたのだろう。だがそれもいらだたしかった。
「兄様!機装甲です!」
「聞こえている!
苛立ちをそのまま言葉に吐き出す。ロロの声がたまらなくうっとおしい。髪をかきなで、ルルスは立ち上がった。ロロの掛けた袖無しの外套は、そのまま捨て置いて。ロロは両手で遠眼鏡を握りしめ、立ち尽くしていた。
「どこだロロ」
ロロはそっと彼方を指差す。アティラン庄へと続く森道だ。差し出す遠眼鏡を受け取るまでもなかった。森道を示すこずえの狭間を押し割るようにして、鉄の兵の頭と肩が見え隠れしている。
今は四つあるように見える。それは王国のものとは違う機装甲だった。また王国西方諸侯の作る機とも違っている。奴らは王国の何者かの手勢ではない。形から詳しい由来を見取れぬように変えてあるのもわかっていた。そもそもそのような手間をかけるということ自体、王国の外から持ち込まれた機であることをしめしている。だが大まかにはわかる。「帝國」のものとは違っていた。「帝國」正規軍とも、「帝國」
西方辺境製の機とも違っている。ならば西方諸国のどこかの機体だ。
森の中がざわめく。人の声だ。ルルスは振り返った。喊声ではない。だが言い争いににた騒ぎだ。わかっていた。ケニッツと奴の騒ぎに不安になったものらだ。おそらく敵の機装甲を見たからだろう。
苛立ち、ルルスはロロを見た。
「ロロ、静かにさせるよう、ルフターに言うんだ。ここで騒ぎ、敵に気取られては意味が無い」
「はい、兄様」
ロロは駆けだしてゆく。ルフター私塾のものらは、ルフターには従うが、ルルスには従わない。ルルスは新参の小僧にすぎない。ルルスの言い分をルフターが認めるから、ケニッツらルフター私塾のものはルフターを通じてルルスの言い分にしたがってみせているだけだ。
このざわめきを、気取られたら、ここに陣取る意味が無い。少ない手勢だが、ここに潜むから意味がある。
敵の軽機装甲らは、森の道を押しぬけて、アシュッツブルグの盆地へと踏み出していった。森から抜ければその姿はよりはっきりとわかる。アシュッツブルグ勢の機装甲とは違って、細身で甲も短く小さい。盾は持たず、代わりに投槍を幾本も携えていた。
軽機装甲だ。もちろんそれもわかっていた。賊軍の持つ機装甲は、ことごとく軽機装甲であった。甲を薄くし、あるいは切り詰めて、足は速く、また手入れの所要を小さくしたものだ。賊軍が使うにはふさわしいものであるし、そうするしかないはずでもあった。機装甲勢を本気で使うつもりなら、つまるところ「帝國」の如くあらゆることものを追い送りつづけるしかない。賊軍にそんな後ろ盾は無いはずだ。
「!」
それは遠く、かすれてはいたけれど、確かにいくさに上げる気勢だ。盆地の側のアシュッツブルグ勢だ。
上手くやってくれとルルスは思った。寄せ集めで水増しした軍勢は、敵の姿を見て少なからず揺らいだのだろう。揺らいだ兵を引き締め、気合を入れさせるためにはああやって気勢を上げさせることがいい。
一方の賊軍は、気勢ごときで揺らぐこともなく、森の出口に陣立てをはじめている。賊軍は妙に手慣れている。すでにアシュッツブルグの盆地に駆け込ながら、村々から退けられた騎馬勢がある。四機の軽機装甲はその後ろ盾となるように横にならぶ。それは早手のためだとすぐにわかる。
危うい、とルルスは思っていた。アシュッツブルグ勢が押しかけても、足の速い賊軍前衛を捕らえ、倒せはしないのだ。また敵は、いま姿を見せているだけの数ではない。だがあせらなければ勝ち目はある。賊軍が攻め懸けても、アシュッツブルグ勢は倒せない。だが賊軍にはアシュッツブルグの都城も落とせない。けれど奴らが居座る限り、アシュッツブルグは負けたも同じだ。奴らがいるかぎり、アシュッツブルグの田園も耕せぬ。それはただの荒地と変わりない。
いかにかして、賊軍の戦力をそぎ落とし、アシュッツブルグ勢の前から自ら逃れるようにしなければならない。
「駄目だケニッツ!」
「だがせんせい!目の前に敵がいるんだぜ!」
騒ぎにルルスは振り返る。やはりケニッツだ。掴みかからんまでの彼を、ルフターが押しとどめている。騒ぎ立てるケニッツの言い分は、だいたい聞こえていた。賊軍勢は今は少ない。今こそ押しかけて、後ろからかかれば勝てる、と。
何を甘いことを、とルルスは思う。ルフター勢はこの丘に四機の機卒を隠してある。だが機卒は機卒だ。たとえ甲を弱めた軽機装甲相手にも、勝てるなどとは言えない。しかも賊軍はそれだけではない。いま見えているのは、賊軍の中でも先ぶれ陣にすぎぬのだ。
ケニッツとルフターに向けて、踏み出しかけて、ルルスはとどまった。
今、ケニッツの前に立ったとしても、何の益もない。むしろ奴の雑言にルルスが貶められるだけだろう。それはまずい。ルフター勢には役に立ってもらわねばならない。
ルルスは落ちたままの袖無し外套を拾い、肩に掛ける。それから隠しに手をやった。そこには、シャルルから渡されたままの額飾りが入っている。灰色の魔女の額飾りといわれる、魔法の品だ。かつてそれをつけたものは灰色の魔女のくぐつとなったという。灰色の魔女が滅びてのちも、額飾りはある力をとどめていた。その力が成すこともルルスは見ていた。魔法とはこの世の、見た眼のままでは無い法を操るすべだ。知らぬものがそれを使うのは危うい。
だが、使うしかない。ルルスはその額飾りを抜き出し、額につけた。