1話――悪戯好きの右腕
軽快な音を立ててボードに突き刺さるダーツ……ど真ん中。
沸き立つ歓声。
揚揚とダーツを回収して、甘いマスクから笑顔と手の平を振りまく男=サヴィーノ・サンツィオ。
一見して他の若者たちと遜色のない外見年齢/その実一回りは重ねられた実年齢。
サヴィーノは今、何度目かの名を馳せるチャンスを前にしている。
カウント・アップ=3投×8ターンで如何にスコアを上げるかだけの最も単純なゲーム。01や陣取り合戦と違い競技性はなくとも、個人的なプレイングに最も適したゲーム。
6ターン目を終えた現在のスコアは800オーバー――ゲーム終了段階の平均的な500を優に超える華麗なゲーム運び。
『こんなことしてさ、何が良いの?』
歓声のどこからでもなく、サヴィーノへ冷ややかに嘯く悪魔。
『さあ、な? 向こうが勝手にやっているだけさ』
『ならいちいち応える必要もないでしょ。さっさとスコア高めて、ほら』
『言われなくとも』
悪魔の囁きを軽くいなして、フォームを構築。
ダーツをするには不必要なほどに鍛え上げられた胸板/ぴっちりと筋肉に貼りつく左腕の半袖/手首まで伸ばされた紺色のインナーが照明を照らす。
指先へ神経を研ぎ澄ませるダーツプレーヤーならば本来つけるはずのない手袋。
ボードとの距離を確かめる前に、こちらへ投げキッスをしてくる女性にウィンクを飛ばした。
『今夜はあの子だ』
『あっそ』
甘く緩められた目尻が、ターゲットへの照準を定める猛禽の眼光へ変わる――数瞬の早業。
いくつかの予備動作。その間にイメージされるダーツの軌跡。
再びダブルブルへ突き刺さることで起きる歓声までイメージできた頃には、矢は放物線を描いていた。
軽快な音を立てて、しかし刺さった場所はほぼ真上――1~20まであるスコア中、最低の1。それもW=最も外側へ。
Ah...と歓声=もったいない。よくあることだ。ミス。次は当たる――各々折々の気持ちが込められた全く同じ声。
肩をすくめて、少し悲しげに作った笑顔を見せる。
『ヴィットーリア! やってくれたな!』
『アンタが女の胸に浮かれて鈍ったんじゃないの?』
からからと笑う悪魔=ヴィットーリアの嘲り。
問われたサヴィーノ――ほぼ無意識に先程の女性へ視線を向ける。
立てられた親指=たったそれだけで溢れてくる不屈の元気。
『ほら、また浮かれてる。あんた本当にハイスコア狙ってんの?』
『俺は現実主義さ。T20で取り返す。そして1000オーバーでゲームセット。ホテルで俺の休暇は終わりだ。邪魔するなよ?』
『ま、そんなつもりもないからね』
『だといいが……なっ』
再投――狭く平たいT20が待ち構える、上半分ちょうど真ん中……しかしダーツが突き立たれたのはその右隣。
奇しくも同じくTの、1。
6ターンそれぞれでロウ・トンを記録していたサヴィーノのスコアに、平坦極まりない7ターン目の55が加算。
程良く酔いが回っている観衆――その歓声がハイ・トンを望むものに切り替わる――サヴィーノだけでなく、ここにいる全員が1000オーバーのスコアを望んでいる証左。
メラメラ燃える野心。
右腕に宿る悪魔との戦いに打ち勝って、今夜限りのヒロインと共にホテルを予約するところまでイメージはついている。
狙うべきはど真ん中×3投による計150点――闘牛の眼。
まさしく標的を前にした闘牛に等しく血走るサヴィーノの瞳。
冷淡な悪魔の視線を感じながらの、寸分違わぬ繊細/鮮彩な投擲。
……しかしサヴィーノの1000オーバーは虚しく、儚く、泡沫と消えた。
「いやあ情けない。緊張に負けたよ」
『なんでお前は余計なことばかり!』
鷹揚な笑顔で語りかける裏で激しい罵倒を並べるサヴィーノ。
甘さと豪胆さが同居する笑顔で女性を見つめながら、訪れるウェイターに闊達と注文。
「ディサリータ」=アマレット/ライム/テキーラ――濃厚な甘味/戯けない酸味/強烈な刺激。
「そう? 結構集中しているように見えたけど?」
『そう? どうせこうなるならいいんじゃない?』
サヴィーノへ返答する二つの女性の声。
眼前でグラスを弄ぶ女性は悪戯げに微笑む。
脳内で揚々と語りかける悪魔がほくそ笑む。
「取り繕うのは得意なんだ」
『余計な手間を作らせるな』
肩をすくめる/手を開く=まいったの意思表示。
挙動の最中――細めた瞼の隙間から、隣に座る女性の肢体をボディチェック=BWH異常なし/遊びに来たのだろう軽装=身軽極まりない服装――ひょいと持ち上げれば勢い余って投げてしまいそうなほど。
再度目を覗きこむ――サヴィーノへ歩み寄るバイタリティ溢れた好奇心煌めき/決して他意が介在しない前のめりな姿勢/同じく見つめ返せるだけの度胸と度量=全て問題なし。
胸の高さに設えられた小さな丸テーブルを挟む二人――計測しきる前に接触事故を起こしそうな勢い。
しかし挟み入るウェイター――素早く軽やかで柔らかい洗練された動き。
「お待たせしました。ディサリータ。
そしてサービスのスプモーニ」
ウェイターの手がグラスを滑らかに押す=お互いの距離感をわざと開くように――まるで緩衝材。
グラスに合わせて二人の距離が開く。
グラスを掴もうと伸ばした左手/しかし意に反し、ひょいと手にしたのは右手。
心臓が汗をかく/甘く作った表情が歪む/サヴィーノの直感が告げる=嫌な予感しかしない。
『おい!』
『別にいいじゃん私がやっても』
すでにグラスを掴んだ女がこちらへ差し出している――好意的印象を抱いている示唆。
サヴィーノがやるべきは応えること。右手からグラスを取り上げるとヴィットーリアが何をしでかすかわからない。
再び糖度の高いマスクを貼りつける/内心びっしょりの冷や汗を隠す。
「乾杯」「乾杯」『はいカンパーイ』
サヴィーノにだけ聞き取れる第三者=ヴィットーリアの声。
グラスが接触する音は、聞こえなかった。
代わりに、サヴィーノの右手は大きく前へ突き出されている。
女性の胸から下へ、ディサリータがびしゃびしゃに散らばる。
嫌な予感が最悪の結実へ――途方もない高所から突き落とされるような悪寒。
……傍目からすれば明確すぎる悪意――釈明の時間的余剰なし/懺悔の感情的余地なし/逃走の矜持的余裕なし。
今更左手で右腕を掴んだところで何かができるはずもない。
女性のシャツから浮き上がる下着。
『ほーらナイスショットー』
乾いたヴィットーリアの声。
次の瞬間に猛スピードで飛来する平手打ちを、サヴィーノはこれでもかとばかりに左の頬で受け止める。
スパーン!=もはやダーツのダブルブルよりも軽快/爽快に響く。
そのまま目を合わせることもなく立ち去る女性――打ち飛ばされたままの位置に硬直するサヴィーノの首。
『……お前なぁ!』
『慰めたげようか? 右手と一人遊びでもしてなよ』
自分がしでかした悪行を意に介さない、悪辣極まりない笑声で語る悪魔。
……すでに店中の注目の的。サヴィーノのメンタルど真ん中を貫いてくる視線の数々。
止まない嘆息。いつも通りといえばいつも通り――だが最悪な日常。
しかし嘆いている暇がサヴィーノへ与えられることはない。
――途端に鳴り響くPDAの着信音/まるでサイレン/サヴィーノを哀れんで視線を外していた者たちまで一斉にギョッとして振り向く。
その瞬間、弾けるようにテーブルから駆け出すサヴィーノ。
人混みの間を突っ切る筋骨隆々の肉体――さながらアメフトのクォーターバック。通り過ぎた後で驚かれるほどの俊敏さ=単純に鍛えただけではない実戦用の肉体である証左。
しかし出口直前で、不意に立ち止まってしまう。
誰もいない出口――ドアの横に佇む、銅製の精巧な置物。
サンタの帽子を被せられた、皮肉なほど凛々しい顔つきでサヴィーノを見上げるドーベルマン。
思わず右手を口元に充てるサヴィーノ=先程までの瞬発力を発揮した動きも鬼気迫る表情も掻き消え、肌が病人じみた蒼白さを露出させる。
『アンタさぁ、オブジェにビビるって情けないと思わないの?』
「……ああ。俺もそう思うよ」
バカにするのを通り越して呆れ返るヴィットーリア。
首を振って過去のフラッシュバックから現実に戻ってくるサヴィーノ――自らの頬を叩いて鼓舞/叱咤=再び表情を引き締める。
……遅れて駆け寄り、サヴィーノの前に立ちはだかる華奢なシルエット=ウェイター。
「代金を――」
「ああわかってる! 必ず戻って、必ず払うさ」
たった一言と共に、ウェイターの体を軽々と持ち上げて、銅製のドーベルマンの隣に並べる。
「野暮用ができちまったんだ。ツケといてくれ!」
あまりにも軽々と持ち上げられてそのまま投げられるのではという悪寒からウェイターが帰ってきたときには、すでにサヴィーノは町へ消えていた。
最終更新:2018年02月11日 22:11