小説 > 在田 > 右腕と双眼 > 02

2話――悪戯好きの右腕


 この季節は身体にこたえる。そう老人が白く嘆息をついた。

 冷え切った肌がちょっとした動きであかぎれを起こして、やせ細った筋肉がもう動きたくないと痛みで訴える。関節もぎしぎしと使い古された椅子のように軋む。
 指先がかじかむだけで済むならまだマシに思える寒さ。

 ……雪の振る町並みをくぐり抜けて、戸を開く。

「ああ……」

 迎えてきた暖気に全身を包まれて、思わず魂ごと抜けるような吐息が漏れ出た。

 フォルクハルト・ユンガー。部屋の、ただ独りの住人。

 骨董品が被る埃ような雪を肩からはたき落として、ようやく、ゆったりと老人は歩み進める。
 外套とモンティベレー帽を脱いで壁に掛け、寒々しい禿頭を掻いて、蓄えた顎髭を撫でる。

 しかし照明は灯さない。目元を覆い隠すサングラスも外さない。

「ああわかっとる。待っとれ」

 言葉とは裏腹に急ぎ足でもなく、フォルクハルトは壁に触れた手の感触を頼りに、キッチンへたどり着く。
 買い物帰りの紙袋――年齢相応にしわだらけの、フォルクハルトの肌に似たごわごわの紙袋から、また小さな紙袋を取り出す。

 じゃりじゃりと固い小粒が音を立てる。

「……マンデリンだ。今の時勢で、これは奮発ものだぞ」

 真っ暗な部屋をきょろきょろ見渡しながら、誰かへ嬉しそうに語る。

 その笑みを崩さないままに、戸棚から道具一式を取り出した。
 ケトルと、手動の豆挽きと、金属製の抽出器と、サーバー。

 冷蔵庫から出したボトルの水をケトルへ入れて、火にかける。

 その間に豆をすくって、豆挽きに入れる。
 乾いた小粒がからからと音を立てて収まり、フォルクハルトは取っ手を回す。
 こりこりと豆が潰されて、砂のように小さなものとなって底へ溜まっていく。

 砕かれた豆から焙煎の残り香が微かに昇る。その焦げついた匂いを、美味そうに吸いこんで顔をあげた。
 先とは別の溜息が漏れる。

「炭火のイタリアンを頼んだんだ」

 またフォルクハルトは傍へ顔を動かして、笑顔を作る。
 ……部屋の暗闇で何も見えないはずの場所に、何かを見つめている。

 やがて潰されるべき豆がなくなったのを感じて、満足げに豆挽きをとんとんと叩く。
 目で確認するまでもないと言わんばかりに、粉となった豆を抽出器へ開けて、サーバーの口に引っ掛ける。

 キッチンの縁へ寄りかかり、フォルクハルトは真下を見下ろす。

「まあ、お前さんにはわからないんだったな。ヴィトニル」

 サングラスから、彼の耳へ伸びるインカム。

 片方の耳孔を塞ぐ小さな機械から、犬に似た鳴き声が漏れ出た。
 犬の鳴き声が、今度は小さく囁く。

「おお。そろそろ沸くな」

 寄りかかった縁から離れるだけでも一仕事と言わんばかりに立ち上がってケトルへ手を伸ばすフォルクハルト。
 迷いなく取っ手を掴んで、持ち上げる。

「濾過式の難しいところはここだ。どう豆だけに湯を注げるか。そしてその泡を見極められるか。これが味を左右する」

 ヴィトニルと呼ばれた鳴き声を頼りに、細長い曲線を描いて伸びる注ぎ口を近づけ、ゆっくりと垂らす。

 立ち上る湯気。注がれた豆からガスが薄い茶色の泡となって膨れ上がる。

 最初はそれだけで、注ぐのをやめる。
 湯気に乗ってキッチンに充満する豆の匂いをたっぷり味わいながら、ガスが抜けるのを待つ。

「我慢……我慢……狙う時もそうだ。どうしてもぶくぶく考えてしまう心が静かになるまで我慢する。
 獲物を見るのはその後だ。余計な考えは腕も狙いも、そして味も鈍る」

 教鞭を取るように、優しく諭す。
 人の言葉すら話せない生徒に、しかしフォルクハルトは喜々として穏やかに、間断なく語りかける。

 程なくして、また注ぐ。
 今度こそ白い湯気が立ち込める。抽出器からサーバーへ、一条の茶色く香り付いた湯が滴って、溜まっていく。
 だんだんと強くなる、珈琲の香ばしくほろ苦い香り。

 ――目など見えていなくとも、フォルクハルトにはわかる。
 目玉のなくなってしまった眼窩を隠すサングラスをつけているからこそ、その小型カメラを通して、フローズヴィトニルがフォルクハルトの代わりに目となって、視界を吠えて知らせているのだから。

 ……珈琲を淹れるだけでも、しっかり目を使える者でなければ不可能に等しい。
 だからフォルクハルトには、見えるような気がしてしまう。

 自分の側を歩く、大きな狼の姿が。
 鋭く獲物を探す眼光が、興味津々に見上げてくるあどけない表情が。

 ともすれば、彼が……フローズヴィトニルが歩く爪の音すら聞こえる予感すら。
 あるいは、手を伸ばせば刺々しい毛並みの奥に力強く脈打つ鼓動が迎えてくれるとさえ。

 だからこそフォルクハルトは、孤独を感じることはない。

 サーバーからカップへ注ぎ直して、カップを摘まむ。
 そしてやっとの一口をつけようかというところで、喧しく鳴り響く電子音が彼の耳を貫いた。

 ……今日一番の長嘆が、彼の口から漏れ出た。

「仕事か。こんな良い時に」
最終更新:2018年02月11日 22:15