小説 > 在田 > 右腕と双眼 > 03

3話――運命、あるいは宿命の時


 森を包む霧雨が枝葉に集まり、不可思議なリズムの雨となって落ちてくる。
 先ほどまで曇天に暗かった空が、日差しの明るさを取り戻している。

 巨大な人型兵器:テウルギア。
 その二機が、向き合うように沈黙している。

 片方――〈グリエルモ・テル〉は既に原型を留めていない。
 穴とひびだらけの全身。泥にまみれた装甲を水滴が伝う。両脚と左腕がどこかへ喪失。代わりに千切れた人工筋肉と冷却液を撒き散らしていた。
 辛うじて、木々へ寄りかかることで巨大な体躯を起こしている。

 片方――〈ヴァナルガンド〉は大半に稼働できる余地を残しながらも膝を立てて、力なく項垂れている。
 損傷はただ一箇所のみ。胸部に空いた巨大な穴と、滅茶苦茶に轢き潰されたコクピット。
 その胸部に突き立てられた肘から先だけの左腕部から、細いケーブルが〈グリエルモ・テル〉との間に伸びている。

 対し、唯一残された右腕部に握り潰された、開閉ハッチを兼ねた装甲板からもまた、ケーブルが〈ヴァナルガンド〉へ垂れている。
 ――細い二本のケーブルが、さながら木々を渡る蔦のように、二機のテウルギアを繋ぎ止めている。

 表面に纏わりついた水滴が、枝葉の隙間から射す幾条もの陽光に煌めく。

 つい数分前にはなかった、今しがた作り上げられたはずの光景。
 だが何も知らない者がこれを目の当たりにすれば、ずっと昔からこの景色があったのだろうと思わされるだろう。

 最新技術を駆使した機械の塊が、遥か以前より続く森と同化する。
 不可思議だからこそ、聖画じみた静謐な神秘性を纏う姿は見る者を圧倒させるだけの力を伴っていた。


 だがそのど真ん中にいながら、サヴィーノはそんな光景など眼中になく、ただ歩を進める。

『ちょっと待ちなって……! また弾が飛んできたらどうすんのよ!?』

 いつもなら小気味よく返事するだろうヴィットーリアの声が、しかし今のサヴィーノへ届くことはない。

『行っちゃダメ! そんな奴に構ってる暇ないでしょ!?』

 積もった落ち葉の下、柔らかく醸造された腐葉土が、一歩ごとに深く沈む。

『戻ってきて! グリエルモに……私のところに……ねぇ』

 頭から垂れ流された血を拭いもせず、力を抜くことすら忘れた両の拳は俄然固く握り締められる。
 森を突き進む顔から、普段の甘さは微塵も感じられない。激憤に染まる巌のようですらある。

『行かないで……サヴィーノぉっ……!』

 すぐにでも駆け出しかねない危なげさを滲ませて、しかしサヴィーノはあるところで立ち止まる。
 ――地面へ転がる人影……今はまだ名も知らない、老人の元へ。


 近づいてくる足音がある。
 ゆっくりと、しかし滾る力を理性が制御しきれないままに踏み抜く、猛々しい足音。

 大柄な男の形をした……死をもたらす悪魔がやってくる。
 コクピットから飛び降りたせいで悲痛を訴える全身に鞭打ち、フォルクハルトは顔を上げる。

 いつものサングラスはなく、普段隠していた眼窩が表れる。
 光を宿さない形だけの眼球。微動だにしない義眼。
 その目元を横切るような、大きく切り裂かれた痕が痛々しい。

 フォルクハルトの耳へ、聞き慣れた相棒が危機を訴えているのを感じながら……。
 しかし動かない。動くのをやめて、その時を待った。

「爺さん、目、見えないんだな」

「そうさな。昔の話よ」

「覚えてるさ」

 感情の籠らない、情報伝達以外に何も感じさせない言葉の往復。
 だがサヴィーノが右手のグローブを脱いで、見えるわけでもないのにそれを晒す。

 その手は銀色に染まっている。鈍い光沢を放ち、いくつもの細かい部品が複雑に噛み合わさり、右手というシルエットを形作る。
 義腕……手だけではない。肩から先、右腕全部が、そうなっていた。

 老人の背後で〈ヴァナルガンド〉が、頭部を僅かに動かす。
 カメラアイが見た景色を、ようやくフォルクハルトが認識する。
 目の前に立つ男の風貌と、その右腕を。

「おお……」

 感嘆が、フォルクハルトの口から溢れた。
 涙腺が残っていれば涙を流しただろう。手に銃があれば引き金を引いただろう。

「お前……あの時の……あの時の……っ」

 声が震える。枯れていた喉から、久しくなかった大きな笑声が出かけて、しかし嗄れて割れた声になってしまう。
 もう二度とないと思っていた再会に、フォルクハルトは滂沱する。

「そうか……私も老いたと思っていたが……まだしぶとく生きていたか」

「おかげさんでな。とっくに墓の中だと思っていたさ――」


「――俺だって!」

 声色が急変する――それまで必死に覆い被せていた平静の箍が爆ぜて、憤怒と憎悪が全身に迸る。

 サヴィーノは巡る――。
 かつて、自分の家族を奪った男がいた。
 幼い身にはわかりえぬ戦争だった。男は犬を連れて、機械的に家族を殺していった。
 せめて家にあった包丁で男の両目を奪うことだけが、その時にできたわずかばかりの復讐だった。
 だがその直後。彼が連れていた犬たちに、包丁を握った右腕を食い千切られた。

 憎むべき戦争の世界に、自ら飛びこんだ。その世界に生きていた男に繋がる手がかりが必ずあると信じて、いくつもの死線を潜り抜けてきた。
 ずっと、ずっとこの瞬間が来るのを、復讐を果たせる時を待ち続けていた。

 あまりにも待ちすぎて、勝手に死んだと思っていた。諦めてすらいた。
 だが眼前にそいつがいる。目前に二度とない好機がある。

「そうか……そうか……!」

 フォルクハルトは悟る――。
 かつて、自分の目を奪った少年がいた。
 戦禍の最中だ。その少年がどうなったかなど、知るすべもなかった。
 以前は恨みもした。自分に不自由な生活を強いらせた少年を、今度こそ縊り殺してやると。

 だが、老いと共に消え失せた。
 少年がどう思っているのかなど、気にも留めていなかった。
 所詮フォルクハルトにとって、目が見えなくなることなどその程度のことだったのだ。

 ――今、少年が、あの時の自分と近しい年齢になり……そして、最期を告げる悪魔となって現れたのだと。
 死に時を失ったまま戦場にすがり続け、災禍を垂れ流すことしかできない老いぼれに、ようやく懺悔と贖罪の時をもたらす時が来たのだと。
 長らく告げることができなかった別れを、ようやく示すことがきでると。

 だが、耳元で唸りをあげる今の相棒はそう思っていないようだ。

「……………………――――――――!!」

 咆哮が、轟く。
 コクピットを破壊され、テウルゴスを失った機械の巨人が、動き始める。
 ――主へ迫る脅威を薙ぎ払わんと、その腕部が、鋼鉄の軋みと共に掲げられる。

 レメゲトン:フローズヴィトニルは、主を愛している。
 既に人工知能として長い時を過ごし、その時間の数だけ、命が失われる瞬間を見てきた。
 始めての理解者として……始めて、相棒として寄り添ってくれる人間として。

 失うわけにはいかない。
 そのためなら手段を選ばない。

 〈ヴァナルガンド〉の腕を、男へ振り落とす――。

「こん……っのぉぉぉぉおおおおおお!!」

 絶叫が、響いた。
 脚も腕も失い、泥を被っていた兵器の双眸が、光を取り戻す。
 ――愛する人を守るべく、残された右腕で木々を跳ねて躍り出る。

 レメゲトン:ヴィットーリアは、相棒を愛している。
 まだ人工知能としては目覚めたばかりの自分を受け入れてくれる大きな器を。
 自分と永劫繋がったままを拒むこともできない呪われた右腕に対して悪態一つつかない、頑強な精神を。

 共にこれからを過ごしたい。
 そのためなら動きを迷わない。

 〈グリエルモ・テル〉の腕を、前へ突き出す――。


 双方の動きに生じた烈風が、地面の落ち葉と水滴を巻き上げる。
 重厚を超えて鈍重な構造物が生み出す衝激が、大気を揺さぶる。
 人間を潰せるほどに巨大な鋼鉄の塊が、頭上で激突する。
 振り落とされた腕部と、その軌道に刺しこんだ別の腕部。
 重く、鈍く、甲高い、金属同士の衝突。
 いくつもの火花を散らし明滅する視界。


 ……再び二体の巨人が沈黙するまで、そう時間はかからなかった。
 地面へ伏せて、今度こそ静止する。

 巨大人型兵器:テウルギア。
 搭乗した機体を操縦する人間:テウルゴス。
 機体の制動を御する人工知能:レメゲトン。

 この三つの要素が揃って初めて、機械人形は兵器としてのポテンシャルを宿す。
 故に今――それぞれのテウルゴスがいない状態で、二体がまともに動けるはずなどない。

『やってやったよ。サヴィーノ……』

 だが双方のレメゲトンはそれを可能にした。
 人工知能がその学習精度を高めただけで済む事柄ではない。
 何か――それまでのレメゲトンになかった何かを得ていた。

 だが、沈黙した二体のテウルギアのことなど、二人のテウルゴスの視界に入ってなどいない。

 ようやく、サヴィーノがフォルクハルトの前に立つ。見下ろす。
 未だ倒れたままのフォルクハルトは、ただ見上げるのみ。

「儂を殺すか。少年よ」

「そのために生きてきたんだ」

 銃もなければ、ナイフもない。
 だがサヴィーノには持ち前の肉体がある。機械の尋常ならざる力を発揮できる腕がある。

 それだけで充分だった。
 機械の腕を振り上げ、拳を握る。
 狙うべきは頭蓋。それを打ち砕いて、サヴィーノの生きてきた理由が終わる。これまで積み上げてきた時間と相思が果たされる。
 ずっと待ち焦がれてきた瞬間を目前にして、辞める理由などありはしない。
 渾身の一撃。全身の筋肉が力に漲り、機械の右腕で動力が迸り、駆け巡る血流さえも滾っている。
 戦車の装甲ですら凹ませることができただろう鉄拳。

「ああ。ようやく、終わるのか」

「………………――――――!!」

 サヴィーノの耳へ飛びこんできた、二つの声。

 一つはフォルクハルトの言葉。
 サヴィーノより圧倒的な長い時間により老成された言葉。
 とても満足そうに、幸福そうに、ゆったりと吐き出された声。

 一つはフローズヴィトニルの遠吠え。
 何も果たせない自分への無力感と、それでも諦めきれずサヴィーノへ向けられた怒り。
 目を見開いたサヴィーノの全身が強張る。
 そして拳は、本来の狙いから大きくずれて、地面へめりこんだ。


 刹那、サヴィーノに見えていたのは眼前の怨敵ではなかった。
 遠い記憶――包丁を奮った直後に、自分の右腕を食い千切った犬。
 犬である以上、その表情など読み取れるはずもない。

 だがサヴィーノが最も恐れていたのは、右腕がなくなった痛みではない。
 その犬が発していた、何者をも恐れない圧倒的な闘志、あるいは剣幕。
 サヴィーノはまた窮した。遠い記憶に怯えて、サヴィーノは仇敵を討ち損ねた。

 地面にめりこんだ右腕が、拳を放つ膂力に耐えきれずに人工筋肉のほとんどが破断する。関節部の部品が粉々に砕けて、ひしゃげて、潰れる。
 ……もう、右腕は動かない。


 最も驚いていたのは、サヴィーノではなくフォルクハルトだ。
 今までの人生を、フォルクハルトは生き延びてきたのではない。死に損なってきたのだ。
 それを終わらせてくれる存在がいたことに、フォルクハルトは欣喜雀躍さえしていた。

 だが果たされないまま、終わった。

 自分の頭の真横で、細かな機械がバラバラと部品をこぼしていく音を聞く。
 確かに眼前にいただろう、あの時の少年は復讐を果たすべき行動をした。
 だが失敗した。失敗するはずのない失敗を、そいつはやってのけた。

 その理由をフォルクハルトは知るはずもない。
 耳にインカムを差していても……目を失って聴力がどこまでも研ぎ澄まされていても……。
 フローズヴィトニルの咆哮など、フォルクハルトには聞こえていなかったのだから。


 サヴィーノは立ち上がり、口を開いたまま静止するフォルクハルトをじっと睨む。
 右腕が潰れても、左腕がある。何度も殴り続ければ命を奪うことぐらいできるだろう。

 ……自分が殺すことを望んでいたように、フォルクハルトもまた、殺されることを望んでいたことがわかった。
 復讐は、殺すことで、未来を奪うことで果たされると思っていた。
 だが殺されることを望んでいる男を殺して、奪えるものがどこにあるのか?
 短い懊悩の末に、サヴィーノは踵を返す。

「ま、待て! 待ってくれ!」

 老人が嗄れた声をあげる。
 ……そうまでして、老人は殺されることを望んでいたのかとさえ、思ってしまう。
 怨むべき敵の望みを叶えてやるほど、サヴィーノは情に溢れてなどいない。

「死にたいなら、勝手に死ね」


 振り向くことすらしない。
 歩を進めて、忌まわしい記憶から遠ざかる。

 殺しきれなかった後悔を、果たすことなく終わった今までの積み重ねを、蟠る気持ちを押し退けて、サヴィーノは機体の横に立つ。
 〈グリエルモ・テル〉――ボロボロになった愛機にして、相棒がいる唯一の居場所。
 その奥で眠っているだろう相棒へ、語りかける。

「帰ろう。一緒に……ツケを返さなきゃな」
最終更新:2018年02月11日 22:24