小説 > 在田 > 右腕と双眼 > 04

4話――老人と忠犬


 痛む体を引きずるように、老人は住処へたどり着く。

 使い古された肉体が一歩を進めるために悲鳴を上げるのを堪える。それは寒さが関節と筋肉を縮こませるせいか、あるいは先日に繰り広げた戦闘のせいか。

 ……テウルギアという巨大な機械を操縦するのは、戦車のそれとは体に蓄積される衝撃の数も度合いも違う。
 キャタピラによって地面を水平に移動するものではない。巨大な鋼鉄の塊が二足歩行することにより上下は愚か前後左右にも大きく揺さぶられるのだ。

 しかも巨大さ故に安全が担保されるわけではない。敵からすればその巨体故に狙いやすく、同時に被弾しやすい。
 堅牢な装甲はそれだけで生存を許してくれるだろうが、被弾の衝撃を防ぎきれるわけでもない。
 ましてや、それですら完全に命を保障してくれるわけでもない。

 超音速の弾が迫りくる中、被弾に関わらず単機で肉薄してみせただけでなく、コクピットの装甲を引き剥がすなんて荒業をやってのけるテウルギアも世の中にはいるんだと思い知らされたのだ。
 ……寿命を考えなければいけない年齢になって尚、まだ目立った傷を負わなかったのは、そこが深林の、豊かな腐葉土による柔らかい地形だからこそだろう。

「まあ、そう急かすなヴィトニル」

 耳にささやきかけてくる相棒の鳴き声を追いやるように、老人……フォルクハルトは部屋を進む。
 依然暗いままの部屋。極端に少なく、異様に広く間隔をとられた部屋の中。

 買い物袋をテーブルに置いて、手探りで目当てのものを探し出す。
 瓶。見えないはずのラベルを撫で、口のコルクを握った。

「……コルク抜きはどこだったかな」

 また耳元で狼が吠える。優しく諭すように。
 普通の人間なら、意味しているものなど聞き取れないだろう。

 ただ、フォルクハルトにはわかる。具体的な言葉ではなく、声から観念的な何かを読み取っているのだ。

「そうか、置きっぱなしか。ははは」

 軽く笑いながらサングラスを調整する。

 何度か耳を打つフローズヴィトニルの声に従って、フォルクハルトはまた踏み出す。
 握りしめたワインボトルが、踏み出す度に揺れる中身にちゃぷちゃぷと音を立てる。

「グラスはキッチンか?」

 返答。

「割った? そんなはずはない」

 キッチンをうろつき、シンクにボトルを置く。
 膝をさすり、やがて食器棚を開いて、本来グラスが置いてる場所へ手を伸ばす。

 食器のそれぞれも大きく間隔を開けている。家具と同様、どこに何があるかを明確にして覚えやすくするためだ。
 ……だがグラスを握ろうとした手は、しかし何もない空間を握る。

 また鳴き声が諭す。

「おや。この歳になると物覚えが悪くてしょうがない」

 情けなさを隠すように、あどけなく言い訳をしながら頭をかく。

 そして隣にあるはずのコップを手に取った。
 ワイングラスと違い、足のない普通のコップ。手の中で弄びながら形を確認する。

「味気ないが、いいか」

 そしてフローズヴィトニルの鳴き声に従うまま動いて、フォルクハルトはキッチンコンロの隣にあったコルク抜きを手にする。
 手を水平にキッチン側へかざしながら横へずれて、手に当たった感触で置いたままのワインボトルを確認した。

 コルク抜きを刺して、開封する。

「このメルローが空くのはいつになるんだろうな」

 ボトルの首を握って、コップもキッチンに置いたまま手を添える。
 位置を間違えないよう、それぞれの手を重ねるようにゆっくりとワインを注いでいく。

 フローズヴィトニルの一声で、それを止めた。

 ゆっくりというつもりだからこそ、コップのどこまで注がれているのかがわからない。
 何も言わなくても、ヴィトニルが勝手にそれをしてくれる。

 フォルクハルトは感謝を抱かない。
 フローズヴィトニルにも同様に、恩を着せたという自覚すらない。
 互いがそれをすること・されることを当然だとわかっている証左だった。

 ゆったりとテーブルまで近づいて、コップを置いた。
 椅子を手で探して、座る。

「なあ。もう先がなくて、負け戦しかできない老いぼれなぞ見捨てて、別の、勝ち星を見つけられる主人のところへ行ったらどうだ?」

 返答はない。
 だが実体を持って眼前にいたなら、体をすり寄せていただろう。

 何もないとわかっている虚空へ顔を向けて、フォルクハルトは手を翳す。
 フローズヴィトニルは、どこにもいない。

 だが感触があった。
 寒さに凍えた、皺だらけの枯れた手が起こした錯覚か。
 刺々しく並んだ毛と、熱を持った柔らかい皮膚。見た目より以外と溜まった柔らかい脂肪と、その奥で引き締まった筋肉と、奥に少しずつ揺れる脈動。

 フォルクハルトは死に時も死に場所も失った。
 この後の生涯は、これから飲むワインの味ではない。

 飲み干した後いつまでも口腔で主張し続ける葡萄のようなものであり、挽いたばかりのコーヒー豆から滲み出る香ばしさのようなものだ。
 また飲みたいと思い、その味を思い出そうとして、それを心待ちにして……しかし実際にその機会が訪れることのない、無駄極まりない残滓か余韻。

 フローズヴィトニルもそれをわかっているはずだ。
 ……皮肉げに笑いながら、フォルクハルトはようやく、コップを口へ運ぶ。

 満たされたワインが、どんな味なのかを思い描きながら。
最終更新:2018年02月11日 22:27