2話――不沈のモリー・ブラウン
モリー・ブラウン……数百年は昔となる人物の名前だ。
特段何かしらの偉業を成し遂げた人間ではないが、ただ『不沈』という渾名を持っている事自体が有名となった理由なのかもしれない。
そんな人物が冠された船が、今私が乗りこんでいる船の名前だ。
「だいぶ……楽になったかな」
港を出て一日ほどは船酔いでまともに動けやしなかった。波とエンジンの揺れ……これほどまでに地面の上を恋しいと思ったことはない。
もう船の上の暮らしを一週間は続けている。他に乗っている人たちとまともに挨拶はしなかったが、それでも食事中の些細な会話ぐらいはできるようになった。いや、できるぐらいには元気になった、が正しいか。
同乗しているのはE&Hでも選りすぐりの学者たちらしい。少なからず名簿を見る限りでは30名。農業、林業、建設、地盤、放射能……それこそ環境開発システムに携わる各部署から折々集められている。
加えて似た境遇ばかりらしい。言わば比較的若手でありながら、サブマネージャークラスの役職を持っている人間。言わば将来有望な人材……と言えば聞こえは良いが、それならば重役も連れ立てば良い機会になっただろう。
だがそれはない。
当然だ。今回は一回目。行った先で何があるかわからない以上、何もないという可能性だってゼロではない。重役たちが出張するだけの価値があることすらわからないから、自分たちに見つけさせようということだろう。
名刺の交換すらまともに行っていない。名簿に乗っている上で、私はかなり浮いた存在だ。
兵科……軍事関係の役どころに勤めている研究者は私しかいないのだ。
地理や環境関係からすれば白い目で見られるのも当然だろう。だからこそちゃんと会話らしい会話をした覚えがない。
唯一できたとすれば……。
『シミオン 今日は 動けるのか』
こいつだ。
今まで船に乗る機会などそうそうなかった。だから初めてだろう大航海で、船酔いのことをすっかり忘れてしまっていた。
「大丈夫だ。君こそ迷惑をかけた。だけどまた甲板にでも上がろうかな」
『ルートは 必要か?』
「いや、もう一週間も経つんだ。覚えている」
ドミネーションの力は万能の検索能力でもあるのだろうか。船内図をまともに把握できていなかった私を外まで誘導してくれたのも彼だ。
……いや、彼と表現して良いのかわからない。
『我々にとって シミオン 貴方は 必要な 存在だ』
こいつの一人称は未だに『我々』だ。さらにはまだ一単語ずつ誰かの言葉を区切って繋ぎ合わせた声。
「それは何のする上でだ? 君ほどの知性があるなら、むしろ私なんか不要ではないか?」
『……』
フリーズしたように、携帯端末が沈黙する。
不都合なことでもあるのか、あるいは認識してくれていないのか。
ともかくこいつは時折、質問に答えてくれない。
「まあ、答えたくないのなら良い。その、たくさんいそうな声も君自身のものなのか?」
『違う。ドミネーションを 用いて 世界中の ネットより 言語データを 参照している』
「なるほど。つまり君自身には、声も姿も名前もない。レメゲトンは自ら作れるのだろう? 作ろうとは思わないのか?」
『……』
また沈黙だ。
何を考えているのか……アメリカへ向かわせようとしているぐらいしかない。
別にそれで腹を立てるわけじゃない。
元々こいつは、社からすればアメリカ開拓という広大な計画の、おまけにしか過ぎないのだろう。
その同伴者として来ている私は腰巾着とでも言うべきだろうか。おまけのおまけだ。
向こうで具体的に何をすればいいのか皆目検討がつかない。だからむしろ不安などないから休暇でももらったも同然だが、体調不良に苛まれ続ける旅行というのはそれこそ気分が悪い。
おまけに周囲からは白い眼で見られる。軍務に就いている自覚はないのだが軍事関係者。あまり他人と話すのは得意ではないが、それでも寂しいことには寂しい。
……いや、この船で軍事関係者が私しかいないのは、そもそも調査に必要ないということと、もう一つある。
甲板に出て、灰色と鈍色の中間色のような船を見つける。
軍艦……それもE&Hのものではない。
コラ・ヴォイエンニー・アルセナル。E&Hと同じくクリストファー・ダイナミクスグループに所属する大企業だ。
残念ながらE&Hよりもグループ内での発言力は高く、今回のアメリカ調査に護衛艦を寄越してきた。
……確かに、グループの中でE&Hだけが莫大な利益をひねり出すと、グループ内でのパワーバランスは傾くだろう。
当然E&Hより上の立場からすれば脅威だ。ちょうどアルセナル社のような、基幹と位置づけされるなら尚更。
私が見ている前方の一隻と、後方にいるもう一隻。
この二隻を護衛として参加して、利潤の何割かを分け合う仕組みで、談合と抑止力が成立する。
そして不毛の土地として知られているアメリカに行くなど、他の企業はそもそも発想すらしないだろう。
だから護衛なんて建前でしかないだろう。
二隻とも、調査船モリー・ブラウンより小さい。
……政治の話なんて興味はない。上層部がどう思っていようと、この航路において味方は味方だ。
それも、いくらでも大きな軍艦を持っていそうな企業が、わざわざ小さい軍艦を寄越してきたということが、この旅路が安全であることを保証してくれている。
むしろ大きな船が来てしまうことの方が、物騒ごとに巻き込まれそうな不安を抱えてしまうだろう。
見渡す限り、水平線が弧を描いている。青々とした空。暖かくも心地良い風。なんとも爽やかだ。
最初こそ不快さを紛らわすためでしかなかったが、今となってはそれを充分に味わえるぐらいの余裕を持てるようになっている。
だが揺れない陸地が恋しいのは確かだ。
「さて、到着の予定はどれぐらいだったかな?」
『およそ 10時間後と 予定されている』
「君のドミネーションとやらなら、その予定通りに進んでいるかどうかわかるんじゃないのか?」
『計算では 予定から 1時間早い 位置だ』
「ならば良かった。早いに越したことはない」
このレメゲトンと会話した所感などをまとめて、後々の研究に役立てようかと考えを巡らせる。
手近なベンチを探したところで、珍しく、彼から声をかけてきた。
『レーダーに 反応あり』
「何か、見つけたのか?」
『同伴船へ ドミネーションを敢行した。
南東に 巨大物体を 発見。直径 20メートル マイナス40度』
思わず、表情を歪めてしまった。
こいつが、いつか私の携帯にそうしたように、アルセナルの軍艦にまで同じことをしていることについてではない。
巨大物体。つまりきっと、アルセナルの艦隊が見つけているのだろうそれについてだ。
あまりにも大きな……氷、だろうか? それにしてもマイナス40度など、ただの氷とはとても思えない。
「流氷? なら気にする必要なんて……」
言ったすぐ直後に、間違っているのだとわかる。
ブリテン島に流氷などない。ましてや大西洋を南下して気温が高くなっているこの航路で、さらに南方に流氷が残っているなどありえない。
『目標物は こちらへ 接近中。およそ 50ノット 以上』
ノットという単語が聞きなれず、思わず聞き返してしまう。
「待て。1ノットは時速何キロだ?」
『時速1.852キロ』
……単純計算なら得意だと思った直後に、思わず目を見開いた。
背中が凍えていくのを感じる。嫌な予感が背骨を鷲掴みにしてくる。
時速にして100キロ近くで海を渡る氷など、この世に存在するものではない。
「何かの間違いじゃないのか?」
『ドミネーションを敢行。
……確認 53ノット。5分後に 衝突する。
同伴船 目標物を 敵性勢力と 判断した。識別名 ヴォジャノーイ』
次の瞬間だった。
けたたましいサイレンがそこら中に鳴り響いた。
モリー・ブラウンから避難のアナウンスが流れる。
アルセナルの軍艦が進路を変えて、モリー・ブラウンの真正面から、横へと離れていく。
震えだした足をなんとか持ち上げるように、船内へ走る。
「何だ? それは何なんだ!? 敵なのか? そんな氷の塊が!?」
思わず携帯へ叫びかけながら、額に浮かぶ冷や汗を拭おうとした。
安全だと保証されているはずの航路だったはず。
だがこいつはあくまで冷淡に、いつもと変わらない継ぎ接ぎの声でそれを告げる。
『ドミネーションを敢行。
……確認 あれは テウルギアだ』
最終更新:2018年02月23日 21:44