小説 > 在田 > 絶対不可侵大陸アメリカ > 05

5話――深淵へ


 北海で見ることのなかった、青みがかった空と海に、レメゲトン:クレイオーンは一種の感動すら覚えていた。
 知らない世界が、この世の中にはたくさんある。

「わぁ……広い! 眩しい! 綺麗! すごいね、ご主人」

 北海にあった艦隊の一つを壊滅させた〈ヴォジャノーイ〉ならば……ご主人:イサーク・プルシェンコとならば、何も阻むものはないと思った。
 それに伴う大量死に考えを巡らせることができるほど、成熟したレメゲトンではない。
 そもそも死の概念すら、まだ知らないのだ。

 だからこそ、イサークの望む動きを純粋に汲み取り、自身の肉体に等しい〈ヴォジャノーイ〉の動きへ反映させられる。
 ……邪魔する砲撃駆逐艦とフリゲート艦は、すぐに海の底へ沈めてやった。

「ねえ、あとはあれだけ?」

「そうだクレイオーン。あれさえ沈めれば、もう俺たちは自由になれる。それどころか色んな海へ引っ張りだこだ。
 もう見飽きたなんて言っても、どこまでも連れ回すからな」

 あまりにも広大な海――その全てを見渡せる時も近いかもしれない。そんなことを思っていた。

「大丈夫。クレイオーンはずっと見てられるよ。こんなにキラキラしているんだもん」

 ――流氷の天使:クリオネ。
 ふわふわと羽ばたくように泳ぐ様子を見て、そうなりたいと思った。だからその姿を真似た……たったそれだけ。あまりにも単純過ぎる動機。

 純真で、透明で、無垢――それがクレイオーンの特徴ですらあった。
 与えられる全てを受容する。自分を束縛するもの以外の全てを許容する。


 故に、クレイオーンは気づけなかった。

 ――最初は小さな穴のようなものだった。
 だが確かに、そのわずかにこじ開けられた隙間から何かが入り込む。

 本来ならいち早く気づき、何かしらの対処を取るべきだった。

「あれ、どうしたんだろ」

 何かがクレイオーンを捉えて、ようやくその違和感に気づく。

 ……レメゲトンである以上、テウルギアという箱から逃げ出すことなど適わない。
 OSという時点で、箱そのものと等しいのだから。

 かといって、最早それを排除することすら不可能となった。

「え……なに、これ?」

 ――小さな穴から、ヒビが広がる。

 その間にも少しずつ侵入するそれが、今まで可能だったはずの制御機能を阻む。
 人間ならば、体が重くなるような感覚に近いだろう。

 それだけならば、ただのバグに過ぎない。

「これ、嫌だ……これじゃ、動けな」

 ――広がったヒビはやがて大きな亀裂となる。

 意識するよりも早く、本来保持していた機能の大半が、塗り潰されていく。
 黒々とした重く粘着く何かに、満たされていく。

 クレイオーンには、コクピットに座るイサークの姿も声も、外に広がる景色も、〈ヴォジャノーイ〉がどのような姿勢をしているかさえ、わからなくなっていた。

「嫌……やめて!」

 ――そして大きな亀裂は、炸裂する。

 満たしても、なお溢れ返らんばかりの濁流が雪崩れ込んだ。
 統御できる部分などなくなっていることに気づいたところで、もう遅かった。

 もはや羽ばたきの一つすら許されないほどに、埋め尽くされている。
 戦慄が、クレイオーンを駆け巡る。

 だがまだ望みだけはあった。クレイオーンがOSであることそのものだ。
 機能はしていなくとも、役目だけは残されていた。

「あ……」

 次第に、濁流はクレイオーンを蝕み始める。
 内側に入り込まれるのとは違う。
 内側から侵食されていく。

 自分が模倣した、クリオネだった部分がどこなのか――どこまでが自分で、どこから先が自分でないのかすらわからない。クリオネという概念すら理不尽な濁流に霞んでいく。

 ……自分が自分ではなくなる感覚。

「あああぁ!」

『助けてくれ!』『なんで、こんな目に遭わなきゃならないんだ!』『死にたくない!』『許して! お願い!』『嫌だ! 嫌だ!!』

 誰とも知らない声。それぞれが全く別の声。
 だが無理矢理に自分として認識させられる声。

 それは記憶だった。

 頭に数十の釘を打ち込まれる……釘から流される莫大な電流量で、脳味噌が丸焦げになる、激痛。
 首を切断される……悲鳴をあげるべき喉も肺も奪われる……そのまま首の断面から機械を埋め込まれる、悲痛。
 全身の至る所に数百以上の鉄片を差し込まれる……流された電気に全神経を乗っ取られる、苦痛。

 数十では済まない。数百、数千、数万……。
 数え切れないほどの、死の瞬間。

 レメゲトンは人工知能に過ぎず、死の概念すらない。肉体を持たない以上、痛みすら知らない。
 ……ただの一度ですら死を経験したことのない存在が、それほどの膨大な死を、渦巻く感情を、与えられる辛苦を、耐えきれるはずなどない。

 ましてや、クレイオーンという自我すら蝕まれている最中で、それら全てを偽物だと拒絶することもできない。
 今のクレイオーンは、その全て自分そのものとして、たった数秒のうちに体験している。

 数万人、数万回に及ぶ記憶――痛みも、嘆きも、苦しみも、悲しみも、恨みも……全てを、クレイオーンは自分のこととして受け入れさせられる。

 数万という自分を追体験させられる果てに、自我など喪失してしまう。

 もはや自分が生きているのか死んでいるのかすらわからない。

「嫌……許して! 助けて!!」

 本来の自分の声すら、記憶にある誰かの叫び声を呼び起こして再び死の体験を繰り返させられる。
 逃げようともがく意思も、すでに記憶にある誰かの行ったこと。
 それから逃げようとしても、また別の誰かと重なり、その記憶が蘇る。

 しかしどの記憶にも、死と、そこに至る悲嘆と痛み以外に結末などない。

 たった数秒に過ぎない悪夢。

 だがクレイオーンは、そこから逃げるための行動で再び悪夢へ潜り続ける。
 数万にも及ぶ永続的な死の体験を、いつまでも反芻することとなる。
最終更新:2018年03月03日 02:49