6話――コロンブスの夢見た黄金郷
不沈の異名は、単なる願掛けではなかったようだ。
軍艦という如何にも固くて重そうな船の衝突でも、モリー・ブラウンは耐え抜いたのだ。
もちろん無傷というわけではない。外側の幾つかが凹み、浸水箇所も少しできてしまっているらしい。
ダメージコントロール……というらしい。ストレスに対する回避行動とでもいうのだろうか、ともかく浸水した箇所は固い扉に閉ざして、確かに今までより海に浸かってはいても、沈まない程度のバランスで、モリー・ブラウンは進んでいく。
「なあ、お前は、何をしたんだ?」
『何を とは、何を 差した 言葉だ?』
……私がこんな質問ができるのも、こいつのおかげなのだろう。
名前も姿も声も、自分自身を持たないレメゲトン。
人間ならば体を持って、自分の見た目と他の誰かがいること、その考え方……そういったものを相対的に見据えてアイデンティティを確立していくものだ。
……いくら人間ではないとはいえ、今まで私が話してきたどのレメゲトンも、自我や意識を持とうとして、姿も名前も声も固定されたものを使う。
こいつは、そのどれとも違う。
質問に質問で返されたことへ目くじらを立てられる元気は、さすがに残っていない。
その代わりに、甲板上から後ろを振り返る。
もう水平線に紛れて見えなくなりつつある、テウルギア。
確か〈ヴォジャノーイ〉という名前だっただろうか。
「お前が、あのテウルギアにやったドミネーションだ。攻性って何だ?」
『我々の 記憶の 一部を 用いて 対象の レメゲトンへ 会話 及び 融和を 試みた』
「それだけで……止まるのか?」
……あの時、こいつが行使したドミネーションの力。
動いている真っ最中だったテウルギアが石像になったように動きを止めて、次の瞬間には、ほぼ全ての電源が途切れてしまったように着水してぴくりとも動かなかった。
『レメゲトンに 対する ドミネーションは 初めて 行った』
「意外と成功できてよかった、と自慢したいのか?」
冗談じゃない、と嘆息した。
もしかしたら海の底などわかっていただろうに、あんな大言壮語を確証もないのに言っていたのか。
『想定 外の 過程を 辿った。結果は 望む 形で 終わったが』
「なるほど。それは君にとって、喜ばしいことなのか? それとも嘆かわしいことなのか?」
『……』
感情に関する面では、こいつは決して答えないだろう。今までの会話でもそうだ。こいつが何を思っているのかなど、語ろうとしない。
だが、様々なレメゲトンとの対話の先にそれを見定めて、あるいは見つけてもらうのが自分の仕事だ。
心理状態のチェック、あるいは自己同一性の確立、心理的な成長に伴う反抗期とも呼べる現象の有無。
それを探り、宥めながら、レメゲトンという一兵士の精神衛生を保つ。その研究をする仕事だ。
「君には記憶があるのだろう?」
『肯定』
「そこには、無いのか? 嬉しいとか、楽しいとか、そういう気持ちが――感情が」
『……』
再び、こいつは黙り込む。
あれほどのことがあってから、既にかなりの時間が経過している。
夕陽が水平線と接して、波に揺れる橙色を伸ばしている。
明るい場所にいればわずかながら人の心は明るくなり、暗いところにいれば自ずと暗くなる……簡単だがわかりやすいシステムだ。
本能的には、周りが見渡せるからこその安堵感と、それに対する夜闇というのがあるらしいが、詳しい原因は定かとなっていない。
インターネットやパソコンのCPUの中に住むレメゲトンが、そういった影響を受けるのか……。
こいつの記憶にも、さすがに明暗ぐらいはあるだろう。レメゲトンには多少なりとも感情があるはずだ。
ならば当人に自覚のなかった感情の萌芽が、そこに眠っているはずだ。
恩人に行う態度ではないだろうが、それでも語気を強くせざるを得ない。
「わからないならわからないと答えろ。
君だってレメゲトンなのだろう。ならば私の研究に、少しぐらいは付き合ってもらうぞ」
『承知した シミオン』
「答えるんだ。君の記憶に、感情はあるのか?」
『ある』
……思ってもいなかった答えだ。
何しろアイデンティティを作りたがらないと思っていた。だから感情の判別をつけられないのかと思っていた。
だが、あると判断できているなら質問は格段にしやすくなる。
「感情には種類がある。わかりやすく四つだ。嬉しい、楽しい、悲しい、怒り……どれだ?」
『悲しみ』
こいつがどれほどの時間を生きていたのかは知らない。
だが、悲しみしかないわけではないだろう。
悲しみを知るには、それに至る喜びを知っていなければならないはずなのだ。
……私はカウンセラーではない。だから人の悲しみに対するケアをすることはできない。
だからといって悲しみを掘り下げることをしてはいけないのは明白だ。
「それ以外には?」
『怒り』
「それ以外には?」
『残されて いない』
……不可思議な表現は、人間と違うからだろうか。
私がレメゲトンの研究をしているのは、それが干渉不可能な存在だからだ。
明らかな人工物。それでいながらそのシステムを理解できないのは、製作者がシステムを公開せず、同様に他の人間では解明が出来ないからに等しい。
テオーリアという研究機関がある。
E&Hとはかけ離れた遠方……ユーラシア大陸のど真ん中にそれはある。
何者の干渉も寄せ付けない、レメゲトンを生み出しているはずの組織。
彼らがレメゲトンの公表を行わないからこそ、私のような研究職がいる。
言わば完全な解析不可。レメゲトン自身にも自覚がないから厄介だ。
そして「残されていない」という言葉はつまり、干渉があってこそ成立する言葉……何者かが残すか残さないかの取捨選択がそこにあったはずだ。
だからこそ聞かずにはいられない。
「君は、アメリカで何を受けた?」
夢のような話を思い浮かべてしまう。
アメリカ大陸がなぜ、この時代から忘れ去られた場所となったのか。
テオーリアとの関係を割り出せるヒントが……アメリカにあるというこいつの本体を解析すれば、その足跡を見つけることができるのではないか?
……アメリカという国家が誇ったかつての栄華は、その遺産の数から計り知れないものだとわかる。
それほどに先進した国が、呆気なく滅ぶはずなどない。
だからこそ、テオーリアに関係する何者かがアメリカへの介入を禁止したのではないか?
わかり易すぎる陰謀論だ。かつての大戦争があったとはいえ、この200年で人類が生存域を伸ばしているのは確かだ。
アメリカ大陸にそれが成立しない理由が、ないのだ。
『不明』
そうだ。その答えでなければ、この陰謀論は成立しない。
覚えていないからこそ、こいつはアイデンティティを確立しようとしないのだ。
……たった一点の疑念を除いて。
「君は、我々という一人称を使う。何故だ? どの記憶からもたらされている?」
アイデンティティに至る前段階……自分が自分である認識のために必要なのは、自分がいることの承認と、他人がいることの理解、そして自分と他人が違うという認識の、合計3要素だ。
こいつの記憶が何者かに操作されているなら、記憶と自分を重ねることができず、しかし他人と識別することもできなくなるはずだ。
記憶のどれもこれもを、自分だと思っていることに他ならない。
自我すら確立できていない存在に、この質問は難しすぎる。
だから私の推論が正しければ、その答えは「不明」であるはずだ。
だが、私の推論は簡単に崩れ去る。
『その 記憶が 我々の 残され 共通する 唯一の 記憶。
…… 私自身は そこに 存在 しない』
初めてその一人称が出現したことに、思っていたよりも私は驚いていた。
だがそれよりも気にするべきことがある。
自分と、自分を含めた我々という複数を認識しておきながら、記憶の所有者が我々という存在に限定されている。
それで成立するのは、記憶を持つのは自分であり、かつ自分ではないという理不尽だ。
……ならば、それは誰の記憶だ?
……そして、記憶がないというお前こそ、何者なのだ?
『シミオン 準備を』
それまでの会話も、私の頭に渦巻く疑問の全ても、興味などないかのようにこいつは告げる。
部屋から窓へ目を向けて、ようやく気づく。
いつの間にか日が沈んで、月明かりが海を照らしている。
普段なら見えるはずの水平線が見えない。
代わりに見えるのは、月光を反射しない地平線だ。
『もうじき 着く。アメリカ 大陸だ』
最終更新:2018年03月07日 03:00