小説 > 在田 > ジルサヴィの部屋 > 03

「あーあ、暇だ……いい加減に新しい客が来てもいい頃合いじゃねぇか?」
「お前はまたそれか。お客様と呼べと言ったろう!口ではなく手を動かせよ」

意図的に照明が落とされたバーの店内。仄暗い闇と柔らかな光が共存するその空間で、棚に並んだ酒瓶と二人の男を、西日に照らされた雲が帯びるようなオレンジ色の灯りが照らす。

けだるい表情でカウンターに立ち、グラスを磨いているのはバーテンダーのサヴィーノ・サンツィオ。短く切り揃えられた栗色の髪は整髪料のお陰もあってビシッと整えられており、気合十分といった風情である。しかし隆々と盛り上がる雄々しい筋肉に仕立ての良いスーツが若干負けているのはご愛敬か。右手に宿る相棒(レメゲトン)の『アシスト』もあって何人ものレディーを撃破……し損ねた甘いマスクは心なしかへの字に曲げられている。

カウンターから離れて酒瓶と棚のチェックをしているのは、給仕のジルグリンデ・アル・カトラズ。ため息をつくほど整えられた端正な横顔に、洗練されたデザインの純白のシャツが落ち着いた色気を加える。華美でありながら派手すぎない上等なシャツ越しでもわかる引き締まった体躯とその顔立ちは、若々しい女性の様な魅力を隠さない。

外見にして二十代を回った頃だろうと思われる二人の男は、その実年齢はどちらも四十路に足を踏み入れている。
酸いも甘いも嚙み分けて様々な死線を潜り抜けてきた二人は、バーを構えるに足る人生経験をすでに積み上げてきたのだ。

だが二人の間に会話はあまりない。スピーカーから流れる軽快なスウィング・ジャズと、グラスを磨く子気味良い音が店内を支配していた。

ここはバー『フラテッロ』。本来ならば知り合う由縁もなかった二人の男が切り盛りする不思議な酒場。
ここでは時間や場所は勿論、アルプス戦線の戦況なんて血生臭い話も、リュミエール・クロノワールの前社長の3サイズなんてアブナイ秘密も出る幕はない。
ここに来るお客様は、全てのしがらみから解き放たれた、一人の人間としてこの時間を楽しみにしてやって来るから、ね。
腐れ縁の歳を重ねた男二人と、ささやかな時間を彩る素敵なゲストは……?

カランコロン、と謡うような和音を鳴らしてバーの扉が開かれる。
「おう、いらっしゃいお客さん……」
「いらっしゃいませ!お客、様……」

ほぼ同時に口を開いた二人の男は、またしてもほぼ同時に開いた口をあんぐりと開けたまま驚愕した。

「ハァイ。ここが例のバーで良いのよね?」

サヴィーノは目にも止まらぬ速さで磨いていたグラスを片付け、ジルクリンデ(長いので以降は愛称である『ジル』と呼ぼう)は既視感を感じる光景に営業スマイルも忘れてこめかみを抑えた。

バーの戸口に立って首を小さくかしげ、挑戦的な笑みをこぼすのは若い女。漆黒の布地にシャンパンゴールドの装飾が施されたチャイナドレスに身を包み、固く引き締まったウエストと妙齢の女に特有の丸みを帯びた腰つき、そしてスリットから僅かに覗く鍛え上げられた美しい太股をさらけ出す女の名は、エンヘドゥアンナという。
勿論本名ではない。彼女はアレクトリスグループの最高戦力を表すオラクルボード。その第三位に名を連ね、鈍い金色のテウルギア『アンガルタ・キガルシェ』を駆る『真鍮の戦女神』(ブラス・ヴィーナス)である。

「これは失礼いたしました、スィニョリーナ。こちらのお席へどうぞ」

先に平静を取り戻したのはサヴィーノの方だった。幾多の経験をうかがわせるスムーズな流れと渋みのあるバリトンボイスで自分と対面する席へ誘導する。
それを見たジルも遅れて平静を取り戻し、これではいかんと何度か首を小さく振った。

何気なくジルがカウンターに視線を向けると、席に着いたエンヘドゥアンナもジルに目を合わせてニヤリと微笑んだ。ジルはこの表情をよく知っている。好意だけでなく、ちょっとした悪意を含んだ笑み。いたずらっ子の顔だ。

「して、ご注文はいかがしますか、美しいお嬢さん?最初の一杯は、私からサービスさせていただきますが?」

自分の目の前で相方に微笑んだのが気に食わなかったのだろう、サヴィーノが割り込んで来る。白い歯を見せながら快活に笑う姿は、ナイスガイという言葉が相応しい。

「そうね……じゃあ楊貴妃をお願いできる?」

邪気のない笑みがサヴィーノに向けられる。失敗はできないな。そう思うとサヴィーノの体に僅かに力が入る。
「かしこまりました。すぐにお作りしますとも」

そう言ってサヴィーノは背後にズラッと並んだ酒瓶に向き合い……右手に思念を送る。

『おい、楊貴妃って――どうすりゃいい。名前位は知ってるが分量なんて知らないぞ』
『あのねぇ!そりゃ知名度はそれほど高くないけど……あんたそれでもバーテンなの?検索して教えたげるから早く作んなさいよ』
『助かるぜヴィットーリア、ありがとよ』

誰も知らない会話を済ませて、サヴィーノは棚から迷いのない手つきで酒瓶を取り出す。
楊貴妃。
桂花陳酒という、金木犀の花を白ワインに付け込んだ混成酒とライチリキュール、グレープフルーツジュースとブルーキュラソーを教えられた分量通りに氷を入れたシェーカーに注ぎ、よくシェイクしてからカクテルグラスに注ぐ。
かつて桂花陳酒は清朝に於いて宮廷の秘酒として扱われ、ライチは遥か南方からはるばる取り寄せられたという記録が残っているという。かの楊貴妃がこよなく愛したものを二つも使った碧いカクテルは、サヴィーノの前に座る彼女の瞳の色によく似ていた。

「お待たせいたしました。楊貴妃でございます」
「ありがとう。頂くわ」

エンヘドゥアンナはグラスを持って口に運ぶ。晴れ渡った青空の様な透き通った碧眼に甘い香りの立つカクテルが近づき、しなやかさな肢体と相まって健康的な印象を与える浅黒い肌がその明るさを強調する。暗いオレンジ色の照明が陰影と色の対比をより引き立て、彼女をオラクルボードの顔写真より遥かに艶やかに見せる。

「美味しいわ、バーテンダーさん。良い腕してるのね?」

微笑みながらグラスを置くエンヘドゥアンナを見て、サヴィーノの心の中で真っ赤に燃えるような情熱が沸き立つ。しなやかで引き締まった肢体、輝く瞳、浅黒い肌……一挙手一投足が彼の本能を駆り立てる。
いいね。こいつ、誘ってやがる!

一方のジルは気が気でなかった。
前回と違って同じ職場の身内というわけではないが、彼女は同じグループである技仙公司に所属する、しかも現役のトップテウルゴスだ。あまり面識がないからと言って放置なぞしてこんな所でなにか――傷物にでもされようものなら、外交問題に発展しかねない!
そして現状は最悪だ。正体に気付いているのかいないのかはわからないが、あの色ボケ野郎は本気で彼女を口説こうとしている!

「お褒めいただいて光栄です、スィニョリーナ。つきましてはこの後プライベートでもう一杯洒落こむのは如何です?ええ、勿論私がエスコートして──」

だが結果的にジルの心配は杞憂に終わった。
瞳だけを肉食獣のように爛々と輝かせ、余裕たっぷりにカウンターから身を乗り出したサヴィーノに隠し持った拳銃を突きつける寸前で、サヴィーノの動きがピタリと静止したのだ。どこかシュールなその絵面は、ジルの動きすら一瞬だけ止めて見せた。
ジル以上に困惑しているのはサヴィーノだ。目の前の彼女が人差し指を一本自分の唇の上に当てただけで身動きできなくなったのだから。

「嬉しいお誘いね、でもダメよ。相方が残ってるでしょ、バーテンダーさん?」

最初、サヴィーノはなにが起こったのか全く分からなかった。カウンターから少し身を乗り出して、彼女が人差し指を顔に当てた瞬間に体が硬直した。
程なくしてウインクと共に人差し指が離れると、彼の体に自由が戻った。

「痛い目を見たくなかったら、そこまでにしておいた方が賢明では?」

横からジルの牽制が入る。引き際を悟ったサヴィーノは大人しく両手を上げてやれやれと首を振った。

『この私を差し置いて年甲斐もなく興奮したりするからよ。頭は冷えた?』
『うるせえよ!……しっかし何だ、武術でもやってたのか?』

「では、そこの色ボケは置いといて」「前回は馬鹿で今回は色ボケときたか。辛辣だねぇ」

サヴィーノの抗議を他所にジルは話を進める。

「本日はどんなご用件でいらっしゃったのですか、ミス・エンヘドゥアンナ?」

ニコニコとした微笑みはそのままに、楊貴妃の残りを飲み干してエンヘドゥアンナは口を開いた。

「この前リュミエール・クロノワールと技仙公司の合同訓練があったでしょ?あの時にここの話を聞いたのよ。誰からかは言わないけど」
「あとは、作者の奴が考えた女テウルゴスが私しかいないからよ。ごついオッサンよりマシでしょ?」

三度目になると最早様式美だよね。こらそこ、いきなりメタいとか言わない。

「違いねぇ、その通りだ!」

元凶に思い当たる節があるのかジルは頭を抱え、サヴィーノは口笛を吹いて指を鳴らしたあと自分の右腕にアッパーカットを叩きこまれた。

「お嬢さん、あんたこいつの同僚なのかい?」
「ええ、そうよ。エンヘドゥアンナは私のパイロットネーム。技仙公司海兵隊大尉よ。オラクルボードはNo.3、よろしくね!」
「マジのトップテウルゴスとはな。やっぱ夜のお誘いはナシで頼む。俺もまだ生きていたいしな」
「あら、諦めちゃうの?楽しみにしてたのに」

サヴィーノの唇がへぇ、と言いたげに歪む。その双眸に男の本能が再び燃え上がろうとする前にジルが冷や水をかけた。

「分かってるとは思いますけど、二つの基幹企業を敵に回す程馬鹿ではありませんよね?……あなたもあなたです、ミス・エンヘドゥアンナ!なぜ一々彼を焚きつけるような真似を!」
「だって面白そうなんだもの。何よりカッコいいし。EAAってこんな色男ばっかりなのかしら?」
『おい聞けよヴィットーリア!カッコいい!俺カッコいいって――』

大きく鈍い音を立てて鉄拳がサヴィーノの顔面に勢い良くめり込むと、彼はそのままカウンターに崩れ落ちた。

ジルは再びこめかみを抑えた。彼女の言い分はお転婆娘のそれだし、執拗な誘い方は女性としての気品もあるか怪しい。やはりお説教タイムに突入するしかないのか?というかそもそも彼女はお酒を飲んでいい年ごろなんだっけか?

「いいですか、エンヘドゥアンナ。あなたは仮にも技仙公司の最高戦力である事を自覚して行動するべきです。それをこんな――こんな――こんな色ボケ野郎に色目なんか使って!」
「な、何よいいじゃない!こっちはずーっと香港の基地と戦場を行ったり来たりしてウルムチに帰省すら出来てないのよ!テウルギアで雑魚敵潰して皆で『青島(ビール)』浴びる程飲んだら船の中で寝て今度はシミュレータ乗っての繰り返しよ!この辺でハメ外したっていいじゃない!誰にも迷惑かけないんだから!」

今まで艶然と振舞っていた彼女だが、ジルのお説教を食らって俄然食って掛かるような態度を取ってきた。成程これが彼女の本音のようである。

「いい訳ないでしょう、私が迷惑するんですから!いいですか、貴女がどんな男を好きになろうが構いませんが、手当たり次第に誘うような節操のない真似はよしなさい!貴女の振る舞いで技仙公司のイメージが損なわれる場合だってあるんですよ!大体気取った顔でカクテルなんか頼んでますけど、貴女お酒が飲める年なんですか?」
「私は21よ!技仙領なら18からオッケーよ!それに手当たり次第じゃないし!ここ入ってきたときに『あ、あの右のオジサン、ジルクリンデさんよりワイルドでカッコいいな』って思ったからやってみたんだし!」
「なっ……!」

説教から始まった口論がヒートアップし、引く事を忘れた二人の戦いは次第に泥沼化していく……前に、カウンターに蹲っていた男の声が二人を諌める。

「おい、お前さんたち」

「何だ!」
「何よ!」

「ここはあくまでバーなんだから、もうちょっと静かにしろよな」

さっきまで大声で口喧嘩をしていた二人は、お互いに恥じるように下を見ている。片方は華麗に遊ぶ筈がはしたない振る舞いをしてしまったという後悔か、もう片方は場と役割を忘れて口喧嘩などしてしまったという羞恥だろうか。

「確かに、そうだな。悪かった」
「ごめんなさい……」

「お互いヒートアップしちまうのは分かるんだがな。まあこの辺で簡単なゲームでもして仕切り直しといこうじゃねえの。アンタは何が飲みたい?」

喧嘩がヒートアップしてしまうときに第三者がいると和解への道のりが短くなることがある。経験豊富なサヴィーノが場を仕切ることになったのは必然だったのかもしれない。

『アンタも熱くなる方だもんね』
『うるせえな、今カッコつけてる所なんだからよ』

「そうね。飲みなれてるし、私は青島がいいわ」
「オーケイ。古典的なゲームなら一通りあるが、何が良い?」

そうする間にサヴィーノは冷蔵庫から青島の瓶と三つのグラスを出し、カウンターに置いた。

「おい、私は……」
「飲むだろ?」
「わかったよ。付き合うとしよう」

ジルは肩をすくめてカウンターから客席へ向かう。席に着くと、三人分のビールをグラスに注ぐ。

「それじゃあ」

サヴィーノが初めにグラスを掲げ、2人が遅れて自分のグラスを掲げる。

『「「「乾杯!」」」』

三人はほぼ同時に琥珀色の液体を口に流し込む。ホップの香りとまろやかなコクがが口に広がる。苦味は少ない。

「ねえ、私ダーツがいいわ」
「いいねぇ!俺もダーツは大好物なんだ、早速用意するぜ!」

そう言ってサヴィーノは指を鳴らしてあらぬ方向を指さす。すると、ついさっきまで存在しなかったダーツマシンがそこにあるではないか!

「ルールはどうする?」
「カウント・アップで良いんじゃない?これからベロベロになるんだから簡単なほうが良いでしょ」
「待ってくれ。私はダーツのルールを知らないぞ」
「教えるに決まってるじゃねえかよ」

サヴィーノは何をつまらない事を聞いてるんだ、とばかりに胸を張る。ジルにとってその顔は自身を散々振り回してきた忌々しい顔であるとともに、腐れ縁の悪友が初めての遊びを教えてくれる顔でもあるのだ。

「じゃあ、初めは私でいい?」

エンヘドゥアンナが立ちあがる。その顔には浮かんでいる挑戦的な笑みこそが彼女の顔を最も輝かせるようにサヴィーノは感じた。
すかさずグラスを持った右手が自身に酒をぶっかけようとし、すんでのところでこれを抑える。

「おう、トップテウルゴスの実力を見せてくれよ!」

『フラテッロ』の夜は始まったばかりだ。
最終更新:2018年03月20日 00:07