小説 > 在田 > ジルサヴィの部屋 > 10

 どことも知れない異次元に、『フラテッロ』はある。

 小綺麗なバーだ。
 目立ったインテリアがあるわけではないが、趣向の凝らされた綺羅びやかな照明が、そこここに暖色の光を落とす。

 まず目につくのは大きなバーカウンターだ。背の高いダークブラウンのニスが穏やかに光沢するカウンターテーブルは、日頃から清潔を保つ手が行き届いているのだろう、目立った傷も見せず、ゆったりと構えた落ち着きを纏っている。

 カウンターの奥に並ぶガラス戸の奥では、色も形も違う酒瓶たちが、光の届く中身を注がれる瞬間を待ち望んでいる。

 天井を見上げれば、ハンガーに釣らされたグラスが潤いを求める口を開いていた。
 広く開かれて縦に潰れた丸みを持つソーサーグラス。対象的に背が高くも口の小さいフロートグラス。緩やかな流線を描きながら口をすぼめたワイングラス。逆さにした円錐を直線的に作るイプシロングラス。足が小さくて短いくせに、丸々と太って主張の激しめなブランデーグラスもあった。

 カウンターを覗き込めば、ヘアラインに光沢を抑えた銀色のシンクと、同じく鈍い光を見せる大きさの違うシェイカーや、上下にそれぞれ口を持つメジャーカップ、ネジを巻くバースプーンにはフォークもささやかに主張する。
 隣には足のないグラスも並んでいた。

 その中で、口が広めで背も高くない、底が厚く、直線とも流線ともつかないグラスが、穏やかな光を宿す。

 ……グラスの呼び名は、オールドファッション。
 (グラス)という長い歴史の中でも、使い古し(オールドファッション)でありながら王道(オーセンティック)であり、シンプルであるからこそ長く愛され、暮らしに馴染んできたグラスだ。

 乾燥しきった一品たちがその出番を今か今かと待ち望んでいるのに対して……。

 カウンターには、バーテンダーも、ウェイターも、いない。

 店内に、一つの乾いた音が響いた。
 小さな木製のボールが転がり、緩やかなすり鉢状の円環(サーキット)を螺旋状に撫でていく、軽やかで、ともすれば癖になりそうな響き。

「17だ!」

 マットに並べられた数字へチップを力強く叩きつけた偉丈夫の、低くも子供のように張り上げられた声。
 サヴィーノ・サンツィオ……バーテンダーだ。

 若々しい顔立ちをさらに若く見せる快活な笑み。短くまとめられた栗色の髪の毛。シャツの袖を肘上までまくりあげ、見えるのは程よく焼けた少年のような肌と、鍛え上げられただろう逞しい筋肉。シャツの皺までも、彼の体型を浮き上がらせるほどだ。
 片足首を膝に乗せるという、とても行儀良いとは言えない姿勢で、回転する台と、その中で逆方向へ螺旋を描く白球を見守る目には鬼気迫る熱意が覗いた。

「では赤の14で」

 冴え冴えとした鋭利さがある声が、細く刺し込まれた。
 ジルグリンデ・アル・カトラズ……ウェイターだ。

 線が細く端正で精巧な美しさを称える顔。色の薄く長い髪が後ろで緩やかに纏まる。筋骨隆々のサヴィーノとは対象的に、アイロンの効いたシャツをカフスまで留め、首元のクロスタイで、堅苦しくならない範囲に纏める。シャツだけではなく黒のベストを纏うのは、眩しくなりすぎないよう華奢な身体に重みを持たせるためか。
 光を反射しながら回転を続ける台を見守る視線は、一見して興味がなさそうだが、鷹のような眼光がボールの行き先を伺っている。

ではここまで(ノー・モア・ベット)

 横に並ぶ男二人へ、テーブルを挟んだ反対側から、盤上のチップへ見えない壁を構築する、決して大きくないがハリのある、女性の声。
 光を包み込む褪せた金髪(アッシュブロンド)を肩口で切りそろえ、黒に灰色のラインが走るスーツを着こなす女性。薄いピンクのシャツに、赤いループタイが身体の線に揃えられたベストに引き締められた胸元で揺れる。
 特筆した派手さがないにも関わらず、どことない甘さのある華やかさを感じさせるのは、服装よりも匂い立つ彼女の女性らしさなのだろう。

 ディサローノという呼び名は無論、本名ではない。
 流転し続けるルーレットの盤面と白球を操るディーラー……スピナーとしての呼び名だ。

「なあ、本当にテウルゴスなんだよな、あんた」

 台の縁へ肘をかけたサヴィーノが、ディサローノへ話題をふっかけた。
 その気軽さは、彼の趣味とも言えるナンパの一環か、それとも単に話題作りか。

「そうよ。気がつけばランキングに載せられていたけど」

「気づけばじゃねぇよ……」

 サヴィーノはがっくりと頭を垂らす。
 店に入ってくる女性には大体手を伸ばすサヴィーノの悪癖は……しかし叶わなかった。

 レメゲトンであるヴィットーリアに遮られたのでも、ジルグリンデに阻まれたわけでもない。
 ちなみにヴィットーリアは今、犬の散歩に出かけているため、不在だ。

 女性にしてはやや小柄なディサローノの肩に手をかけたと思えば、次の瞬間に彼の身体は宙を舞って床に叩きつけられていたのだ。

 酔っぱらいの相手をすることも多いカジノのディーラー……その中でも、目を引く女性であるディサローノは、ただ守られているわけではない。

 彼女自身が強いのだ。
 同僚から教わっているという武術……いくら筋肉の塊であるサヴィーノといえど、不意を突かれては為す術もない。

 それでいながら、サヴィーノの職業たるテウルゴスとしても、ディサローノは更に上を行く。
 オラクルボードのランキングなど、サヴィーノからすれば雲の上の話だ。

 ……すぐ隣に、陣営こそ違えど同じくランキングに名を連ねているジルグリンデもいるのだが。
 だが数字を見れば、ディサローノの方がわずかに上なのだ。

 そしてディサローノが持ちかけた勝負にサヴィーノがまんまと乗っかり、ジルグリンデは巻き込まれ……この謎空間がどこからともなく生み出したルーレット台にいる。

 盤面を走るボールが盤上のピンに跳ねられ、数字のあるポケットへ吸い込まれる。

「はい残念。31です」

 ヨーロピアンルーレット……0~36の数字から、ボールの落ちる数字を当てるのがルーレットの基本ルールだ。
 奇数は黒、偶数は赤。そして盤上にある複数の賭け方の組み合わせが可能だが、今この三人には複数を同時に賭けるというハウスルールは存在しない。

 サヴィーノとジルグリンデが賭けられるのは、1~18までの数字の一つずつ。
 ディサローノが、その二つの合計値ではない数字にボールを落としたら二人の勝ちという……圧倒的に二人が有利なはずのルールで、五度目の敗北を味わうことになった。
 五度目である今回に至っては、ディサローノがボールを回してから二人が賭けているにも関わらず。

 加えて勝利の暁に一晩を共にしてもいいとディサローノが言い出して、サヴィーノは負けるわけにはいかないと息巻いていた。

 サヴィーノが力なく立ち上がる。
 ジルグリンデは興味なさそうにサヴィーノを見上げた。
 女性なら誰彼構わず声をかけるサヴィーノもそうだが、それに乗っかって変なことを言い出すディサローノも大概だ。
 ジルグリンデには関係もなければ興味もない。
 ある意味で、ルーレットというゲームを一番楽しんでいる。

「んで、次は何がお望みで?」

「なんでも良いわ。美味しいのを、よろしくね☆」

 女性らしさをここぞとばかりに振りまき、ウィンクまでかますディサローノ。
 明らかに、煽っている。

「あいよ……」

「やる気なくさないでよ。あなた良い男なんだから、せめて私の手元を狂わせるようなものにしてね」

 余裕の挑発をかけるディサローノと、五度目の敗北で男としてのプライドがズタズタにされつつあるサヴィーノ。

 ディサローノは、あまりにも強すぎる。
 格闘術をつけた人間として、テウルゴスとして……だけではない。

 破格の条件を差し出して尚、肝が据わっているギャンブラーとしても圧倒的に強い。

 ……そして、酒にも。
 ディサローノの手元には空のグラスが四つ並んでいる。

 息巻いたサヴィーノが三杯目にスピリタスを混ぜたにも関わらず、顔を赤くする様子も酔いらしい酔いを見せる素振りすら無い。
 むしろ三杯目を一気に飲み干してから「汚いことする人は嫌いじゃないけど、イカサマにも私は負けないの」と勝ち気に言い放ってみせた。

「スピリタスで酔わない奴をどうやって酔わせんだよ」

 チクショウ、今回は行けると思ったのに。とまで聞こえてきそうなサヴィーノの脱力しきった背中を見なかったことにして、ジルグリンデは改めて前を振り向く。
 今回ばかりは、あまりにも相棒が哀れすぎる。

 目が合った瞬間に小首を傾げながら浮かべる笑顔は、果たして素なのか、それとも磨き上げられた営業スマイルなのか。

「どうしたのかしら?」

「ヴァネッサは……」

「ディサローノ。スピナーとしての、私の名前」

「失礼しました」

 一瞬で敗北宣言するジルグリンデ。
 怒ってはいない。声が荒だっているわけではなかったが、しかしディサローノの差し込む言葉は鋭く胸に突き刺さってくる。

 年齢で言えばジルグリンデもサヴィーノも、年上のはずだが……。
 おそらく論客で、彼女には勝てない。

 ボールを取り出して、弄ぶディサローノが、ゆっくりと呟く。

「どうして私がここに来たのか? 知りたいのはそれじゃないの?」

「ええ。よくお気づきで」

「後輩を叱りすぎちゃってね……今はちょっと逃げ出しているところなの」

 瞼を伏せるディサローノ。さっきまで伴っていたはずの華やかさが、いつの間にか、凪いだ。
 体格以上に大きく、そして圧倒されるような雰囲気を放っていたはずの彼女が、その瞬間だけ、ちっぽけな一個人に見える。


「ほら私、最強じゃない?」


「…………はい?」

 さらっと吐き出された言葉に、ジルグリンデは止まる。
 さっきまで纏っていたはずの雰囲気も、どこかへ霧散していた。

「別に嫌いってわけじゃないんだけど、やっぱり喧嘩も勝負事じゃない?
 私は負けないのに……それでも突っかかってくるから、ちょっと可愛くてね」

「はあ……」

 ボールを指先で転がし、物憂げに目を細める。

「つい負かしちゃうの」

「…………」

 そんな悩みを持つ人間がいるとは思いもしなかったと、目を背ける。
 戦場で相見えるよりも、会話する方が嫌な人間がいることを、思い知った瞬間だった。

「それで……」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 尚もまくしたてようとするディサローノに、思わず割り込む。

「何よ?」

「もしかして、酔っているのでは?」

「酔っていても、私の手元は狂わないの。普段はお客さんを適度に勝たせないと儲からないし」

 ジルグリンデの背後で、虚脱しきった相棒を思い出す。
 ディサローノの持ちかけた勝負にまんまとハマり、負け続け、そしてやる気どころかプライドも悉く打ち砕かれた、哀れな男がシェーカーを振っている。

「でも負けるのは癪じゃない?」

「……」

 もはやジルグリンデには、同意も否定もできない問い掛け……。
 のはずだった。

「だから今日は勝つつもりしか無いから。
 さあ、次は何を賭けてくれるの? このお店もらってもいいかもね!」

「もうお引取りくださいませー!!」

 ……嫌だ嫌だと暴れまわるディサローノを追い出せたのは、翌朝のことだった。
最終更新:2018年05月09日 08:52