第1幕 ―― 雪山
寒さに感覚が奪われていたと思っていた頬が、何気ない呼吸に口を開くだけでもピリピリとした痛みを走らせる。
常に話すようなことがあればそんなこともなかっただろうが……既に彼らの中で話すべき話題はなくなっているも同然だった。
そろそろかな、とリンマが思ったのを知ってか知らずか、スピーカーに声が飛び込んでくる。
「隊長さんよぉ……」
通信を突き破りそうな大声/嗄れきったダミ声――顔と同じくらいの皺が声にまで彫り込まれているようで、しかし初老とは思えないほど活力・粗野・野性的――喉を鳴らす老虎のような、威圧感に満ちたじゃれつき。
モールニヤという名前の男は、一時間黙り続けることができないようだとリンマは唇をへの時に歪める。
「なんだ」手早く済ませろ――と催促するように素早く事務的な応答。
隊長と呼ばれた男――ユーリー・ホチネンコ。
瞬きすら感じさせないほど微動だにせず静止した眼球=画面上の白い景色に塗り潰された黒目――敵部隊の一挙手一投足を見逃さないとばかりに見開かれた四角い眼。
班全体に張り詰める緊張の結節点かの如く厳粛に引き結ばれた唇/情熱さを伺わせる尻上がりな太い眉/理想的な実直さの現れのような四角い顔。
胸元で堅く組まれた図太い腕/シートにがっしりもたれかかる逆三角形の背中――ガチガチに着込まれた実直すぎるカタブツ感=自身を守るマゲイアの金属装甲と同等かそれ以上に頑強かつ角張っている――三十代とは思えないほどの強固さ=まるで銅像。
「俺ぁ、いつ撃てば良いんだ? 早くしねぇと砲身が歪んじまう」
ユーリーが溜息と共に頭を垂れ、両の目元をキツく抑える。
乾ききった眼と凍りついた頬の痛みで、ようやく同じ姿勢のままだった身体が訴える痛みを思い出す。
つい先程までミリ単位で動かなかったユーリーの返答――闊達たる上司としてのマニュアル的真面目さ=声に感情を籠めない/手早くまくしたてるような滑舌/しかし聞き取りやすくするために単語ごとの区切りだけは丁寧。
「この採掘場の所有者には通達してある。明朝の午前五時までに動きが見られないならばこちらから、あるいは敵部隊に敵対の意思と見られる行動を発見次第――」
「悪いが隊長さんよ、俺ぁバカでね。もっとわかりやすく言ってくれや」
……が、老虎の猛々しいじゃれつきに、柔軟さを持てないままぐらつく銅像。
怒りを悟られないように厳正さを取り戻そうと語調を強める――早口と合わさり、翻って躍起な苛立ちに勘違われるような喋り方に。
「俺が良いと言うまで禁止だ」
ユーリーたち三人=三機のマゲイアが居座る場所から遥か遠く――一キロと距離を離れていない峰に、モールニヤの乗るテウルギア〈モルニーイェトヴォート〉が潜む手筈となっている。
コラ・ヴォイエンニー・アルセナル社――ユーラシア大陸の北端に位置する企業から、わざわざ南側まで忍び込んだ。
敵地で戦闘をするのだ。マゲイアのみでは不足だろうことは容易に想像がつく。
現時点で敵マゲイアがモールニヤの居る峰を警戒する素振りなし=気づかれていない証左。
「そうかそうか。ハハハッ。そんぐらいの方が、ちったぁ威厳が出るってもんだぜ隊長さんよ」
「……」
あくまで快活に笑っているつもりだろうモールニヤの笑声――ユーリーからすれば立場と年齢に乗じた罵声。
「モールニヤさん! 隊長を怒らせて楽しいんですか!?」
我慢できずに言い放つリンマ・キリーロヴァ=班で唯一の女性/二十代半ばに差し掛かったばかりの最年少。
年齢相応に成長した体/長すぎない髪を後ろで一纏め/普段は丸みのある目尻をキリリと釣り上げて糾弾の威勢。
「違ぇぞ嬢ちゃん。遊んでいるわけじゃねぇ」
言葉とは裏腹にニヤけているのが丸わかりなモールニヤの声音。
……まだ企業という社会構造に不慣れなリンマでも、若くして隊長でありながらマゲイアに乗るユーリーと、老齢に差し掛かり一隊員でありながらテウルギアに乗るモールニヤという露骨なまでに摩擦が生じる関係に気づかないわけではない。
ユーリーだけでなくリンマも登場しているマゲイア〈プリテンデーント〉は、量産性・整備性に重きを置いた、本社からすれば数を揃えるためだけの機体に過ぎない。
対してテウルギアは、より大型かつレメゲトンと呼ばれるOSの強力なバックアップにより桁違いの性能を発揮できる、選ばれた者たちのための機体。
……順当どころか他より抜きん出て階級を押し上げてきたユーリーからすれば、遊び呆けながら過ごしてきたモールニヤがテウルギア搭乗券という限られた席を掠め取られたようなものだ。
「絶対遊んでます!」
「よせリンマ。作戦に集中しろ」
前のめりになりつつ声高に主張するリンマ/元の調子を取り戻しつつ、追いかけるべき合理的判断に基づいて静粛を求めるユーリー=その内面でどんな感情が渦巻いているかを部下に読み取らせるつもりなし――リンマの推測が余計に膨らんでいくのも知らずに。
「ですけど」
「ま、まあまあ。こんなときにエネルギー使う方がもったいないよ」
躍起さが空回りし始めたリンマへかけられる穏やかな男性の声。
イサイ・ホムトフ。
ユーリー、リンマと同じく〈プリテンデーント〉に乗る三人目――計四人の班。
「食べ物もなくなりそうだし……とりあえず落ち着いて」
二言目には飯の話=イサイの特徴。
常時飢餓地獄に等しいアルセナル社の食糧事情において、これ以上無いほどの希少価値=パイロットスーツがはち切れんばかりの丸い体。
班で重量でも背丈でも最も大きな体躯を保持しながら極めて少ない発言/温厚と臆病を足して二で割ったようなか細い声/ぷっくり膨れた頬と瞼/少し潰れた伏せがちの瞼。
本社が所属するクリストファー・ダイナミクス・グループの命題=食料確保――生存のため以上に欲求として置き換えたらこうなる、という醜さを感じさせないのは、マシュマロ並みに柔らかな人当たりの良さか。
「出た。またご飯の話」
「だが事実だ。出立してそろそろ三週間になる。いい加減携帯食料だけじゃ気が狂いそうだ」
本来ならばかなり珍しいユーリーの冗談――だが口調が普段通りすぎて誰も気づけず=真に受けた閉口/図らずも総スルーの姿勢――そもそも三週間も同じものしか口に入れていない時点でストレスを積もらせている事実にすら考えが至らない。
……黙り込む全員が改めて作戦で気を紛らわそうとする=残り半日あまりという膨大な時間に気づき失意に呑まれそうな瞬間――モールニヤがまたも最初に口を開く。
「隊長さんよぉ……」
「なんだ……ん!?」
先程と全く同じやり取り――と思いきやユーリーの語尾が驚きに歪む/リンマとイサイが命令を待つべく耳を澄ます。
「各員警戒態勢! レーダーに反応! デカイぞ!」
ユーリーの号令と共に、機体を待機状態から切り替え=沈黙していた数多のメモリを叩き起こす――一気に明るく
なるコクピット/倍増する各部の稼働状態を示すメモリ群/装備している武装の残弾数/明るくなるレーダーの東部に映った、接近してくる巨大な赤色。
急いで全員が〈プリテンデーント〉を起こす――堆積した雪がずれ落ちて露わになる=テウルギア:ジェド・マーロスからフィードバックを図られた機体――面影を残しながらも全体的に図太く無骨さを増したシルエット/数が少なくも大きな部品の組み合わせ/対峙していた敵機=SSCNのマゲイアよりも一回りは大きな図体。
頭部のカメラをレーダーの場所=上空へ向ける――画面上に映し出される、巨大な黒い機影。
だが皆が手持ちの武装を構え直すよりも早く。
その機影から姿を表した新たな人型たちに対する驚愕と共に、眼前ではない敵が現れたことの焦燥が一斉に皆を支配する。
「新手だと? 一体どこから!?」
最終更新:2018年06月08日 05:32