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0話:MK-1301


 古い教会だった。その原型を留めているかどうかさえ怪しいほどに、建物は朽ちている。
 祭壇の背にある窓から落ちた陽光が、広い空間を仄かに照らした。
 高い天井の隙間からこぼれ落ちる光が、その空間に縦の線を何本か引いて、床に光点を作っている。

 立ち並ぶ長い椅子は至るところに腐食が進んでいる。
 隅には鍵盤の抜け落ちたオルガンがあった。しかしひと目で、埃とカビに塗れているのがわかる。パイプにも錆びが回っているだろうと想像するまでは難しくない。
 壁に刻まれた十字架も色褪せて、辛うじてわかるかわからないか、ぐらいにしか残されていない。

 空気中を縦横無尽に漂う埃の数々。
 祭壇に載せられた、異様に真新しい十字架が煌めく。

 そして吐き出された紫煙が、ふわりと霧散して埃と光ばかりの空気へ溶けていく。
 祭壇の脇……教会という場所で、本来ありえない喫煙を咎める者すら、いない。

 彼女、一人だった。
 ミシェル・クランという名前で登録されているか、本来の名前は誰も知らない。
 そもそも本来の名前があるかどうかすら、本人でさえわからない。

 だが彼女は、名前があること自体へ違和感を覚えてしまうほど……陽光に溶けてしまいそうなほどに、稀薄だった。
 人形と呼べるほど幼くない……さながら白塗りのマネキンが座っているのかと見間違えてしまう。
 あちこちがほつれた、しわくちゃのシャツと色褪せたデニム。
 金髪も、褪せているというより、白金(プラティン)に思える。強いて、寝癖が跳ねていることが数少ない人間らしさか。
 とても薄く乾いた唇。ついばまれた煙草の白でさえも、同じ身体とさえ見間違えてしまいそうなほどに白い肌。
 微睡みの垢抜けなさなのか、それとも洗練された鋭敏さなのか……どちらとも取れないが、細く開かれた瞼の奥で、アクアマリンのような透き通った碧眼が、何かを見つめている。
 ――教会に落とされた光か、自分の吐き出した紫煙か、あるいはどことも知れない場所。

 その視線が、手中へ動いた。
 ヘアライン加工で光沢を抑えられた、銀の、薄い長方形。ところどころに見える錆を拭う。
 ライター『MK-1301』……彼女の名前でもある『ミシェル・クラン』のもの。

 着火レバーの尻に、小さく鎖がぶら下がっている。
 本来なら何かしらのキーチェーンがついていただろう鎖の先端に……今は、何もない。
 ずっと前から、ミシェルはそれを持っていた。
 記憶にある限りで最も古い物。
 だが古びた記憶のどこにも、鎖の先にあったものがなんだったのかを示すイメージはない。

 じっと、ミシェルは見つめていた。
 ……やがて煙草の火がフィルターにまで回って、指先と唇に熱を覚える。

 ライターをポケットへ仕舞い、煙草の吸い殻を祭壇に隠して、さびれた場所(・・・・・・)を後にする。
最終更新:2018年07月24日 07:08