小説 > 在田 > 銀の炎へため息のように > 01

1話:レスト・ハート


 教会の裏手に、人が暮らせる空間がある。
 教会ほどではないにしろ、周囲の近代化された都市とは裏腹に、古びた民家のそれではあるが。

 金具が軋むドアを開けたミシェルの鼻孔に、暖かな匂いが入る。
「あ、ミシェル!」
 幼く元気な声が聞こえた。

 四角く背の低いテーブルに、小さな子供が座っていた。
 大人用の大きなスプーンを握りしめて、湯気が上る料理を前に……ミシェルへスプーンごと手を振る。
 少女は、オヨンチメグという。
 ミシェルと違い、出会った時には既に名前があったが、彼女の名付け親のことは知らない。そしてオヨンチメグも、あまり覚えていないらしい。

「もうお昼だよー」
「そうだな」
 面白半分にからかうようなオヨンチメグに、起伏のない語調でさらりと返したミシェルは隣に座る。

 生活を続けているうちに、いつの間にかそこが定位置になっていた……のと同じく、既にオヨンチメグの向かいに座る姿がある。
『おはようミシェル。よく眠れたかしら?』
 これでもかと女性らしさを過剰に盛り込んで、くねくねと揺れる口調が、男性にしても野太い音声で放たれる。
「そうだな。普段と同じだ」
 ミシェルの口調は、オヨンチメグに返したものと全く変わらない。

『なら、良かったわ』
 ミシェルを向いたその顔に、『 ^_^ 』が浮かぶ。
 表情の比喩ではなく、顔面と呼べる位置に並べられたLEDディスプレイが、その文字列を表示しているのだ。

 それは、教会の神父が纏うべきカソックで全身をすっぽりと隠している。頭と呼べる場所には修道女が被るようなベールがあった。髪があるわけではない頭部だが、確かに後ろ姿は人だと思われるかもしれない。
 だが、普通の人間よりも頭二つ分は飛び出た長身であることは隠せない。
 ロボット、アンドロイド……少なからずそれは、サイボーグと呼ばれるような人間と機械の混じった存在ではなく、純然とした機械そのものだ。

 アルレッキーノ・クラウンと名乗る個体は、正確にはミシェルとオヨンチメグの前に座る機械のことですらない。
 今はこの機械に宿っている、電子疑似人格:レメゲトン……俗に言うAIの個体名だ。

「ミシェル。煙草くさーい」
 オヨンチメグが彼女の袖を引っ張り、ミシェルはずっと変わらない鉄面皮を向ける。
 間の伸びたオヨンチメグの声が続いた。
「また吸ったでしょ」
「そうだな。吸った」
「くちゃーい」『くちゃーい』
「そうか」
 表情も口調も全く揺らがず……つまらないと揶揄されかねないほどに素っ気なく済ませるミシェル。

 ミシェルの前にも同じく並べられた麻婆豆腐を、スプーンを手に口へ運ぶ。
『それでそれで!』
 すぐさま、アルレッキーノが話題を切り替える。
 顔たる画面には『 ^∇^ 』が浮かび、オヨンチメグとミシェルを交互に向く。
『どう? 今回のお昼ご飯は!? 今度こそレシピ通りに作れたはずなの!』
 毎日、毎食……ミシェルとオヨンチメグの食事を用意するのが、アルレッキーノの日課でもある。
 機械故に試食ができないアルレッキーノは、食事の度に感想を尋ねていた。
「問題ない。食べ物だ」
『そういうことじゃあないのよミシェル……違うのよ……』
 ふるふると頭部を横に振るアルレッキーノの画面に『 -_-; 』が浮かぶ。

 だがミシェルは構わず、次の一口を運ぶ。
 ……対して、あまりオヨンチメグのスプーンは進んでいない様子だった。
『あらどうしたのオヨンチメグ? いつもならゴチソサマしてるのに~』
 アルレッキーノが心配げな声と共に、『 ? 』でいっぱいにした画面をオヨンチメグへ近づける。

 オヨンチメグの視線は覚束ない。浮かない表情でアルレッキーノを見たかと思えば、次には麻婆豆腐を見て……スプーンで掬っては戻したり、裏面で軽く叩いたり……食べていそうな手元の動きに対して、食が進んでいるようには見えない。
『まさか! 本当に美味しくなかったのかしら~!?』
 ああん悲しいわーん、と嘆くアルレッキーノの顔面が『 ToT 』へ変わり、上半身ごと大きく横に揺れる。その巨体故か、床までも大きく軋み始めていた。
 ……その横で、ミシェルは変わらず咀嚼する。

「あのね」
 発音こそ元気だが、オヨンチメグが前向きではないことがすぐに読み取れるのは、短い言葉の後にたっぷりと空白の時間があったからだ。
「ちょっと前から、歯が痛いの」
『えっ? まさか! 虫歯!?』
 アルレッキーノの顔が、今度は『 ゚□゚ 』へ切り替わってミシェルへ向かう。
 忙しない所作だが、ミシェルは咀嚼をやめないままにアルレッキーノと視線を合わせる。
『どうしましょ!? ちゃんと歯磨きしてあげてるつもりだったのに!!』
「アルレ。虫歯ぐらいよくある話だ」

 変わらず、ミシェルは最後の一口を運び終える。
 騒がしく動き回っては画面をもコロコロと変えるアルレッキーノとは対象的に、ミシェルの動きは最小限で、感情らしい機微を見せない。淡々と食事を終えて、そのまま去ろうと立ち上がる。
「あとね、歯がぐらぐらする」
『ああどうしましょミシェル! 歯がぐらぐらするなんて! 虫歯じゃなくて別の変なご病気じゃないかしら!?
 ああちょっと待ちなさいミシェル! あんたこんな可哀想なことになっているのにまた煙草吸いに行くの!?』
 アルレッキーノの機械の腕がミシェルの袖を掴んで、ぶんぶんと揺さぶる。

 オヨンチメグの小さな手ではない。人間からすれば大柄な上に、機械だからこその怪力。ミシェルの体も危うく転びそうになったが、すぐに体勢を整え直す。
 泣きっ面を浮かべてばかりのアルレッキーノを、ミシェルは一瞥した。
 ミシェルとアルレッキーノは、経歴からすれば長い付き合いになるだろう。
 お互いに、嘘をつかない性格であることも熟知している。アルレッキーノが心配そうに振る舞っているのならば、本当に心配しているということだ。
 ……同じように、ミシェルが素っ気ない態度ばかり取っていることも、アルレッキーノは知っている。

 袖を振り払い、表情を変えないミシェルが、冷めた麻婆豆腐の前で座ったままのオヨンチメグを見下ろす。
「……乳歯だろう」
『乳歯?』
「人間は一度、歯が生え変わる」
 再び疑問符で埋まる画面を向かないままに返答したミシェルが、オヨンチメグの前に屈む。
 きょとんと見つめ返すオヨンチメグの口は、少し間抜けに開かれている。
 オヨンチメグの年齢からして、乳歯である可能性が高いことは明白だ。

 ならばぐらついている歯を抜いてしまえばいいと、ミシェルが指を伸ばす。
「んや!」
 口に入れ、歯に触れようかというところで、オヨンチメグが顔を背けて、手を叩かれてしまう。
 ……嫌がられたのだと、ようやくミシェルの理解が追いついた。

 躊躇っているオヨンチメグより、ミシェルが抜く方が早いと、考えていた。そのために指を突っ込もうとしたのだ。
 他人の口に手を入れるという嫌悪感も、自分が同じことをされることに対する嫌悪感も、想定していなかった。
 ……いや、ミシェルには想定することも、そのための発想もなかった。
 ミシェル自身がそうされたとして、嫌悪感を感じることはない。もしかしたら嫌悪感そのものはあるのかもしれないが、ミシェル自身が、あまりにも感情に無自覚すぎるのだ。
 ……ミシェルの手に、未だ煙草の臭いがこべりついていることにまでは、まだ気づいていない。

 くたびれたシャツの裾から、ほつれた糸を抜き取る。
「どこの歯だ?」
「あ」
 口を開けたオヨンチメグが上の前歯をいじる。前後に大きく揺れている様子からして、辛うじて端がひっついているという具合だ。
「それならもう抜けるだろう。巻いて、引っ張れ」

 糸を受け取ったオヨンチメグの表情は明るくない。胸の下で糸を指でいじりつつ、じっと俯くように見つめたまま……自分の口元へは動かさない。
 胸元の糸とミシェルの顔とを交互に見やりながら、おずおずと口を開く。
「……ねえ、引っこ抜くの、痛い?」
「痛すぎることはない」
 ミシェルが答えてからも、しばらくオヨンチメグは動かなかった。
 糸をいじり、ミシェルを見て、腰を右に左に回して……しかし逃げるということはなく……ただただ躊躇っている。

『ねえ、大丈夫? 私がやってあげても……』
 しびれを切らしたのは、ミシェルではなくアルレッキーノだった。
 怯えがちにオヨンチメグへ近づき、しかしオヨンチメグが首を横に振ったのを見て、仕方なく引き下がる。
 二人が黙って見守る中……ようやく、オヨンチメグが口を開いて、糸を歯へ近づける。

 ……引っかかった、という瞬間だった。
 ミシェルの手が動いて、オヨンチメグの腕を引っ張っていた。
「あ」『あ』
 勢いに任せて、小さな歯がどこかへ飛んでいく。石粒が転がるような音がして、歯は見えなくなった。
 なくなった前歯を舌で確認しているのか、閉じた唇がモゴモゴ動く。

「痛かったか?」
 この日で初めてであり唯一となる、ミシェルからの問いかけだった。
「全然痛くなかった」
『ああ良かった~!』
「そうか」
 前歯がすっぽりなくなった笑顔を見て、いつもと全く同じように答えるミシェル。

 ……ただ一つ、彼女の手が、オヨンチメグの頭に載せられていることが、いつもと違う光景だった。
 アルレッキーノの顔に、再び『 ^_^ 』が浮かぶ。
『あらミシェルが……珍しいわね~』
 後ろから機械の手が、同じように頭へ載せられた。

 その時になってようやく、ミシェルは自分のしていることに気づく。
 ……全くの無自覚、無意識的な行動。
 人の頭に手を乗せる……何の意味があるのかはわからないが、しかし気つけば、自身がやっていた。

「ミシェル楽しそうだね」
 オヨンチメグの言葉に、ミシェルは思わず目を見開く。
 楽しい……そういった形容詞がミシェルに当てられることは、今までなかった。
 冷徹、冷酷、機械、惨忍……ならば言われたことがある。その言葉に、何も感じることなどなかった。

 だが今の言葉は違った。
 何かが……それこそ歯が床で音を立てるような、乾いた音が反響するような感触が、胸の奥に落ちた。
 具体的に何が違うのか、まだ言葉にできない。それが何なのかを定義する術を知らない。
 だがどうであれ、ミシェルの返答はいつもと変わることはない。
「……そうか」
最終更新:2018年07月24日 07:13