小説 > 在田 > 黄金の翼 > 01

ピエ・イエス


『例え私が、人々や御使いたちの言葉を語ろうとも、そこに愛がなければ、
 私は喧しい鐘や、騒がしき饒鉢(にょうばち)と同じとなる』
  ――コリント人への手紙・第13章 1節



 暖かな光があった。
『愛は寛容であり、愛は情深い。また、妬まない。愛は高ぶらず、誇らない――』
 見上げた絢爛な天井では、遥か昔、このフィレンツェの地にて聖人となった者たち、十二にもなる使徒たち、その更に奥へ、三位一体が、黄昏よりも黄金色に輝く空を見上げている。
 聖人たちの中の一人であり、壁にも同じく彫刻としてあしらわれている、この教会の真の主であるフィリッポ・ネリ・ロモロ。
『不作法をせず、利己を求めず、苛立たず、恨みを抱かない――』
 彼が見下ろす階下で、絹のように柔らかな光が、皆の笑顔をより穏やかに讃えていた。
 天井の上部にある四角い窓から、正午を導く陽射し。柱に灯された燭台が隈なく光を広げ、誰ひとり余すことなく照らし出す。皆が笑みを浮かべる中で、こぼれかけた涙をチーフに沁みさせる顔もあった。
『不義を喜ばずして、真理を喜ぶ――』
 決して眩しいほどではない。むしろ柱や壁面、天井までに至り、積み重ねてきた歴史の荘厳さが、薄暗さに浮き彫りになろうかというほどだろうか。
 だが誰ひとりとて、そこを暗いなどと思わないだろう。決して強くない光はしかし、眠りに入る前の微睡みのようななめらかさに、誰もの暗がりを見つけるための、心の黒い部分ですら覆ってしまう。
『そしてすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える――』
 縦に長い空間の中央を、これまた長い赤が、出入り口から祭壇の前まで敷かれている。
 慈愛と純粋を象る二体の彫像が、祭壇に立つ三人の動向を、黙して伺っていた。
『――愛はいつまでも、絶えることなどない』
 静かに、書が祭壇の上に置かれる。
 紡がれているのは司祭の声だ。決して高すぎず、しかし低すぎない。歌声のような朗らかさで響き、光に導かれるように淀むことなく、それぞれの耳へ届けられ、胸に染み入る。
 司祭の服装は重層的だ。三十三のボタンが並ぶ法衣(カソック)の黒は、アルバの純白に全てを覆い隠される。肩にかけられたカズラの緑は平和を象徴する。手首で十字架が煌めいた。
 光が見下ろし、皆が見守る中で、男女が向かい合う。
 力を感じさせないなだらかさで挙げられた女の手。それを支えるように持ち上げた男の手。さらに男の、もう片方の手が上から守るように添えられ、またその上から、女が優しく指をなぞる。それは固い握手となる。
 司祭が男の横顔を向く。
『新郎。――……』
 黒いスーツで着固めた男はまだ若く、釣り上げた口元にさえ若い英気が溢れていた。野心を隠せない目が、爛々と司祭を見つめ返す。だからこそ静かで穏やかなこの場所に、居心地の良さを感じないのだろうか……長い長い司祭の返答にさえ、力が入ってしまっていた。
 寛容か慈悲か、司祭はゆったりした瞬きと共に、顔を女へ向ける。
『新婦。――……』
 白いベールに包まれた女の表情はまだあどけない。だが密かな夢の場所に来たという充足だろうか、目尻に静かな涙滴を膨らませて、それに恥じないよう背中に意識を通わせている。男よりも、淑やかでしたたかな声が、司祭に返される。
 だがどちらも、隠すことのない明るく暖かな感情が現れている。
 指を伸ばした司祭の右手が、掲げられる。上から下へ、左から右へ。やがてそっと男女の握手の上に、司祭の右手が重なる。
 先程よりも大きく……また響き渡る司祭の声が、教会の歴史たる壁と、皆の耳を介した胸の中へ、差し伸ばされるのだった。

『たった今。神と、会衆の前において、夫婦たる誓約が成されました――』

 教会を満たす光は、誰一人をも逃さず光に捉える。
 司祭の言葉に実感し、遅れてきた安堵に息を吐く夫婦の姿。
 新たに生まれた夫婦に喜びを隠せず、緊張しきった皆の顔と共にほどけていく、張り詰めていた空気。
 それを見つめ、見守り、見渡し、見届け、見送る司祭――
 ――ジルベルト・ロレンツォ・ヴェルディの微笑みに垣間見える陰でさえも。

 ・ ・ ・

 モズマ統治体……地中海に囲まれた長いブーツ状のロスティバルを治めていた、かつて在った共和国の面影を遺す、非常に大きな企業体である。
 起源をたどれば古代ローマより、連綿と続く歴史がある土地だ。西暦が終わって以後、二世紀余りを渡り、古めかしく重厚な建物が作る街並みは未だ多く、中でもその例に挙がることが多いのは、花の女神が加護する街として語り継がれてきた都市の名前。
 フィレンツェ。
 昔へ遡れば、国家という土地に由来する組織と、かつての国境に縛られず世界へ名を広めていた十字教の拠点が重なる場所。国家と宗教の結び目。ある時は手を結び、ある時は共に歩き、またある時は争ってきた歴史の中心点でもあった街だ。
 そのことを街の建物たちは覚えており、今に続き、これからも紡がれる歴史の流れをこれからも眺め続けることだろう。
 傾き始めた陽光が見下ろす、古い橋(ポンテ・ヴェッキオ)もその一つだ。
 アルノ河に跨がる橋でありながらも、その両側に複層階建ての建築物を抱える奇異な場所でもある。
 歴史では、その建物たちの階上へ設えられたヴァザーリの回廊がヴェッキオ宮殿とピッキィ宮殿まで繋がり、メディチ家の関係者を食肉の臭いと暗殺者から守ったという。だが今となっては閉鎖され、誰も通ることなどできない。
 そのすぐ下では、建物から数々の宝飾店が軒を連ね、人々の活気に満ちている。
 その活気を作る一人ひとりの横顔は、照らしつける陽光に負けじと明るい笑みに満ちている。過去に何度となく繰り返され繰り広げられてきた大戦や大破壊、あるいは大災厄の暗い記憶など、想像もつかないだろう。
 河水が静かに、しかしずっと見上げてきた時間の流れは、複雑なうねりがぶつかりあう歴史の大流へ至る。人によって作られた橋は、その利便性故に、人によって破壊を余儀なくされることも多い。その中でしかし、奇跡の橋(ポンテ・ヴェッキオ)だけは免れ、生きてきた。
 一説によれば、かつて第三帝国の総統がメディチ家だけに許された階上からの眺めを楽しみたかったという噂もあれば、西暦が終わりを告げる時に、ヴェッキオの街だけは、神が世界を見捨てる前の、心ばかりの温情がなされた、という逸話もある。
 橋の中央に建物はない。そこを通る誰もが奇跡の橋(ポンテ・ヴェッキオ)の語るアルノ河の煌めきに胸を踊らせ、赤と黄のレンガが積み上げた歴史が光に照らされ、その黙した語らいに息をつくことができる。
 ……柵へ肘を委ねる男。ジルベルトもその一人だ。
 司祭として新たに生まれた一組の夫婦を見届ける役目を終え、次なる仕事の場であるビッティ宮殿へ向かう途中であった。
 彼が着ているのは法衣(カソック)ではなく、白のスーツだ。まるで自身が結婚式の新郎であるかのような、丹念に織り込まれた生地と精緻な縫製で作られた、豪華さを滲ませる、新品同様に綺麗なスーツ。
 司祭……言わば十字教が認める先導者の一人でありながら、しかし彼は、その証である法衣を纏わない。いや、町中を歩く際に、法衣となることを許されていないのだ。
 かつて国家と宗教は別でありながら、その境界線は曖昧であった。だからこそ複雑な勢力がうねり、からみあって歴史を作ってきた。
 それに乗じて十字架は世界に広がり、栄華を誇る。だからこそ神父……とりわけ司祭以上の階位であれば、仕事ではないにしろそれだけで一つの職務となり得た。
 だが今に、それは通じない。
 神が世界を見捨てることで始まった、西暦の時代。その悔恨を引きずり続けていた人々は、新しい神を迎えて、かつての神との決別を果たし、企業歴をもたらす。
 新しい神となった金銭は、誰もの手元に居座り続け、その金銭を供給する企業と呼ばれる存在もまた同様、神と程近い存在になった。
 そのように時代が切り替われば、十字教はかつての栄華を失うこととなる。救う者である神がいなくなれば、救われる者もいなくなる。遺されるのは、救われなかった者たちだけなのだから。
 皮肉なことに、国家と宗教に依存していた者であればあるほどに、救われなかった者たちの体現者と成ってしまう。
 当然、十字教そのものこそが、その代表格だ。
 移ろい往く時代という濁流に、押し流され倒れかける十字架を、そうと知りながらも縋るしかなかった者たちがいた。あるいは信心深い者であり、あるいは聖職者と呼ばれる者たちであり、あるいはその庇護下に居た者たちだ。
 だが彼らこそ、本来ならば捧げるために行われてきた儀式を商業として売り出すことを選んだ者たちでもある。千年を超えて余りある歴史を越え、彼らはひたすらに儀式を繰り返してきたからこそ、それしか知らなかったのだ。
 そうして十字架を支えるべく、救われなかった者たちが束ねた捨てきれない希望こそ、とある企業の起点であり、今尚続く主目的でもある。
 それこそが、ヴェルディ・セリモーニ・ファミリアーリと呼ばれる企業。モズマ統治体と違い、治める土地を持たない企業だ。
 その本拠地こそ、このフィレンツェにある二つの教会。サンタ・マリアから名を始める、ノヴェッラ及び、デル・フィオーレである。
 ジルベルトは司祭である以上に、企業に勤める一会社員でしかないが、単なる社員ではない。三十を越えた彼の年齢にはそぐわず、副社長という役職を与えられているのだ。
 だからこそジルベルトの言動には、一企業の顔としての側面が常に付き纏う。法衣を着ることは決して違反ではなく、むしろ教義からすれば推奨される。だが他の企業、例えばこの土地を治めるモズマ統治体に対して、捨てられた神の信徒であることをいつまでも誇示し続けてしまえば、喜色を示されないことなど火を見るよりも明らかだ。
『……聞いている? 父上』
「もちろんだとも。息子よ。私の執り行った儀に、またアデラーイデが怒ったのだろう」
 企業歴となってなお、複雑に絡み合う組織と歴史が守り続ける景色を眺めながら、耳元に当てた携帯端末から溌剌と溢れる少年の声に、ジルベルトは返す。
 携帯端末から溢れる少年の声の持ち主は、クウィリーノという。
『カンカンだよ。怒りの日が聞こえてきそうなぐらい』
「それは恐ろしい!」
 橋には人々の雑踏と雑談が行き交う中で、それでもジルベルトの声はよく響き渡る。白のスーツなど誰もが普段着るような服装ではない以上、殊更に視線を集める。
 だが彼の姿を一目した誰もが、すぐに彼のことを思い出しては普段通りの歩みへ戻る。
「また会う日には花束を用意しなければな」
『母上がね、お花は飽きたって』
「なんということか! では新しく考え直さなければ!」
 再び視線を集めるジルベルトは、構わずに橋へ並ぶ宝飾店へ視線を這わせる。煌びやかな宝石と貴金属が並ぶショーケースの奥で、老齢の婦人が、微笑みと共に手を振った。ジルベルトも婦人へ手を掲げて応えた後に、再び視線をアルノ河へ向ける。
 端末の向こうでくすくすと笑うクウィリーノが、さらりと話題を切り返す。
『でも父上、そろそろ会合のお時間だよ』
「私としたことがそんな失態を……ああ!」
 一笑に付しようと腕時計を確認したジルベルトの口が、嘆きに大きく開かれた。
 また視線を集める中で、ジルベルトは慌ただしく駆け出す。
 人々が、叫んでばかりだったジルベルトが突然に動き出したことでにわかに驚きながらも、しかし彼だとわかるなり、さらりと道を開ける。
「急がねば、せっかくのご足労をかけていただいた先方に申し訳ない!」
 ジルベルトの大きな一歩に合わせて、景色は過ぎ去っていく。
 軒を連ねた宝飾店……ショーケースの中に並ぶ指輪が、彼の視界に入った。
 白色の照明に輝く、銀や金のリング。はめ込まれた、色とりどりの宝石たち。
 ジルベルトを父上と呼ぶクウィリーノが、同じく母上と呼ぶ相手がいる。
 ジルベルトはアデラーイデと呼んだ。
 司祭であるならばむしろ当然とさえ言えるだろう。神父として、聖職者としての階位を得るものに、婚姻は許されていない。だがそれは西暦の話でしかない。
 企業にそこまでを縛ることはできない。
 事実として彼はすでに名字を変え、ヴェルディの苗字を持つ。
 夫婦が別姓であることにそこまで忌避感がないロスティバルの土地でならば、わざわざ苗字を変えてまでするジルベルトの行動はむしろ驚かれるべきものかもしれない。
 それほどまでの情熱が確かに、ジルベルトにはあったのだ。
 だが彼の左手に指輪はない。
 ……ジルベルトはひた走る。誰も彼もが通り過ぎると共に、視界から純白のスーツを追いやっていく。
 ただ一つ……街そのものを見下ろす傾いた陽だけは、純白のスーツと、彼の金髪と、そして指輪のない左手を見つめ続けていた。



『永劫に存続するものは、信仰と希望と愛。この三つである。
 然して、このうちで最も偉大なるものは、愛である』
  ――コリント人への手紙・第13章 13節
最終更新:2018年08月17日 17:27