小説 > 在田 > 黄金の翼 > 02

レクイエム・エテルナム


『兄弟たちよ。私が以前 貴方がたに伝えた福音、貴方がたが受けいれ、
 それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい』
  ――コリント人への手紙・第15章 1節



 見上げれば灰色の雲間から、光の柱が広がる緑の大地を照らす。少し視線を下ろせば、上へ上へと立ち上る、先が丸く細い葉を持つ糸杉(サイプレス)が取り囲んでいる。広々と開かれた空間であった。
 だが公園のように、駆け回る子供の姿もなければ、いたずらに散歩を回る人々の姿もなく、賑やかとは決して呼べない。閑散や閑静ではなく、灰色の雲が落ちてくるような重々しい静寂が立ち籠めている。
 陽の光があるというのに、他の場所で感じるはずの温もりを、むしろ抜き取られていくような寒ささえ覚えてしまう。
 緑の大地は、単に草花が広がっているのではない。一定の間隔で埋め込まれた白い大理石が、その光沢で日光を反射する一方、様々な形の陰影を落としている。
 透明感の欠けた、のっぺりと広がる白んだ景色。立体感や起伏でさえ欠けている土地だというに、足元へ伸びる大理石の影ばかりが、嫌に視界へ入り込む。
 この場所を取り囲む糸杉は、決して単なる造園樹として植えられたものではない。いくつもの意味が重なり、糸杉しか植えられる樹木が存在しないのだ。
 糸杉はかつて、神の子が磔られた十字架の材料となったとされている。一度目の死を迎える時、身を委ねた木こそが糸杉であったのだ。
 また死を迎えた人の肉体は、特異な臭いを放つ。糸杉はその臭いを阻み、それ以上の広がりを食い止める作用がある。
 その糸杉が取り囲む場所であるこの地こそ、やがて人が、終わりを告げた肉体を宿すために来たる場所。
 ロスティバルでも、北に位置する都市では最も栄え、荘厳なる大聖堂(ドゥオーモ)を抱える土地。
 ミラノ。
 そのほど近くにある記念墓地へ、また新たな肉体が運び込まれていた。
 大きく開けられた穴の底に、黒い桐の箱が横たわっている。
 その中で、役目の終えた肉体を色とりどりの花が飾っていることだろう。
 終油も葬儀も既に終わり、多くの人たちはすでに、彼の者との別れを済ませて帰路に着いた。
 数えれば十人に満たない、ごく僅かな人たちだけが、土を被せられていく棺を見守っている。
 黒のスーツを纏う男たちの身体は、太く屈強なものだった。彼の者も似たような体型だった故、そういった力が必要な仕事に就いている同僚たちであることが見て取れる。険しい巌のような顔をして、睨みつけるような悲嘆の顔で、土を被せていく。
 彼らの身体より重たい感情に抗い、虚脱しきってしまいそうな身体に力を巡らせるためなのだろう。全員が穏やかではない剣幕でスコップを握りしめている。
 どんな人間にも等しく訪れるものは二つだ。魂が肉体を得ること、そして魂が肉体から離れること。一人につき、それぞれ一度ずつ訪れる必然。
 それを乗り越えられるのは神の子以外に他ならず、また世界では今も、聖書の時代から変わらず、人の生と死が延々と繰り返されている。
 病気、事故、戦争……止め処なく、絶えることなく、人類史はそれを繰り返している。
 聖書の時代から、西暦を経て、企業歴という今の時代へ至った。だが時代がどう変わろうとも、その真理は、決して変わらないものだ。
 だがそれを、悲しむ者たちがいる。
 何度となく歴史が繰り返してきた人の営みに、常に生と死は同居し、隣合わせであり、もはや人々の日常と同化している。
 だがそれでも、人が生まれた瞬間を喜ぶ人間は必ず居る。人が死ぬ瞬間を悲しむ人間は必ず居る。
 小さき人に見えるのは、その人が送る人生に見える限りでしかないからであり、目に見えず、また遥か過去から積み重ねられてきた生と死など、目にも見えないからだ。
 歴史から俯瞰すれば途方もない反復作業。それを人は人生と呼び、尊ぶ。
 横に立っていた婦人が嗚咽をあげてその場で崩れ落ちる。黒のレースに隠された顔を涙が這い、やがて地面に落ちて、陽光を宿す。
 婦人の脇いた青年が屈んで、婦人の肩をそっと抱き寄せる。
 教会に居た時は、彼女たちの気も紛れていただろう。司祭が執り仕切るままに花を手向け、知人たちと朗らかな笑顔さえ浮かべて言葉を交わし、歌を口ずさみ……しかし誰も口を開かなくなったこの場で、思い出したように溢れた感情が堰を切って、氾濫するように涙となって流れ落ちる。
 それを黙って見つめることこそ、その中心点で、悲嘆を意味する紫のカズラを肩にかけたジルベルトの役目でもあった。
 険しい顔でスコップを動かす同僚たち。涙を流しながら十字架を握りしめる親族たち。
 そして、それを黙って見つめるだけの司祭。
 ……その誰もを、雲間から覗く光が照らし出す。誰もが顔を背ける光の源から与えられる光は、誰の顔にも影を作る。
 無論、土に隠れつつある棺にも、光が当てられる。
 棺を燃やさず、土に被せることなど、昨今ではかなり稀となってしまった。
 墓地に収められた人の数など、誰も数えたがらないだろう。だがここだけではない。墓地でさえ土地であり、そこには限りがある。
 杯から溢れ落ちるように、人が死を迎える数も、どんどん増えていく。
 同じ人間が、何度も死ぬわけではない。
 だがこの記念墓地でさえ数年前、VCFが一部を買収する形でその面積を拡張している。それでも間に合わないほどの数が……魂のない肉体が、棺に収められる。
 だからこそ火葬をし、遺灰となった肉体を埋める方が面積を取らずに済む。
 教義に従うのであれば、誰もを棺に収めて、来るべき復活の日を待たなければならないはずだった。
 だが既に、世界には新しい神がいる。故人の復活を許さないだろう、沈黙し続ける、ありとあらゆる種類の神が世界を埋め尽くしている。
 かつての時代ではそれに抗うべきであった十字教も、今となっては形を変え、そんな神々の一柱となってしまった。
 葬儀は献金ではなく事業の費用として金銭を頂戴することがまかり通り、それを続けるためにも、墓地の土地を確保することが必要となり、教義を捻じ曲げることが許されてしまう。
 ふと顔を上げたジルベルトの表情は、誰の目にも映らないだろう。
 ただ一つ、分厚くなり始めた雲の隙間から見下ろし続けている光を差し置いて。

 ・ ・ ・

 一段と暗くなった周囲に、さめざめとした雨音が大理石の十字架を伝う。完全な暗闇ではないのは、まだ雲の向こうに太陽がいるからだろう。
 どんよりと思い詰めた雲から雨粒が溢れるように、重々しい灰色にまで分厚くなった雲から、それでも光は滲んで、ミラノの地を照らし出す。だが見上げる空から、その源を探し出すことは適わない。
 土葬を終え、雨足が近づくのを機に、そこには誰もいなくなったはずだった。
 ……ただ一人、カズラとアルバを脱いで、踝まで伸びる真っ黒な法衣(カソック)となったジルベルトを除いて。
 濡れた黒はより深い暗闇を作り、彼の身体だけではなく内側にまで、丹念に深淵を織り込んでいく。
 髪の端から雨粒が溢れた時だった。
『父上……?』
 懐より、不安げに震える声が漏れ出た。携帯端末が、法衣の内側にある。傘も差さないまま一向に動かず、一つの十字架をじっと見下ろし続けるジルベルトを、クウィリーノが不思議に思ったのだろう。
 下を向いたジルベルトの目に、クウィリーノの顔が横切るような錯覚を覚える。
 まだ幼い子供だが、癖のついた濃い金髪を受け継いでいるかにさえ思える。ジルベルトの目尻から伸びる笑い皺などまだほど遠い、丸みがある白さの際立つ肌だ。ジルベルトの瞳は深海から拾い上げたようなサファイアだが、クウィリーノは光を宿しているかのように眩しいエメラルド。
 ……廻り巡る記憶で、とある女性の眼差しが射竦める。
 ふと、ジルベルトは顔を上げていた。
 地面に突き立つ十字架の、少し上――目が揃う高さだった。
『母上が――』
「わかっているとも。息子よ。アデラーイデがまた、怒っているのだろう?」
『……うん』
 クウィリーノが怒られているというわけでもないのに、愚図りに声を揺らした。
 その間も、ジルベルトの目は、そこから離せないでいる。
 雨粒が通り過ぎ、白い十字架を打ちつけるだけの空間。奥にある糸杉の暗い緑。
 ――爛々と煌めくエメラルド。軽やかに宙を舞うアッシュブラウン。そばかす痕が横切る白い顔。聖職とは思えないほどの有り余る気力と激昂で、胸ぐらを掴まれる――。
『父上。行かないの?』
 催促するクウィリーノに、ジルベルトは我を取り戻すかのごとく顔を上げた。
 ――突然に、ジルベルトは自分の胸元を握っていた。握っていたことにようやく気づいた。
 そこにあったものを握りしめんとするように、しかし中空を掴んで、結局は自分ひとりの握り拳しかできないまま終始する。
 握り拳が、漲らせた力に固く震える。膨らんだ腕の筋肉に、法衣の継ぎ目がぎりぎりと音を立てた。
 虚脱と無為で、胸元にあった拳がふわりと投げ捨てられる。
 ジルベルトの瞼が、光を失ったサファイアを覆い隠した。力を抜いて伸ばされた右手の指が宙をなぞる。上から下へ、左から右へ。
 ……そのまま、ジルベルトは雨に打たれ続けることを選んだ。身体に黒が染み渡るのを待ち、自分が黒そのものへ溶けるのを待つように。
 長い長い沈黙を経て、ようやくサファイアの瞳が外の景色を見定める。
「さて、待たせたな息子よ。帰ろうか」
 懐か、それとも自分の腰の位置か、ジルベルトは視線を下ろしながら、優しげに微笑んだ。
 先程までの虚脱も、光の喪失も、それらしき痕などかき消えている。
『うん! 母上がね……』
「何を言ったか当てよう、息子よ――」
 嬉しさに声を踊らせたクウィリーノに対し、ジルベルトは人差し指を立てながら回れ右をする。
 ジルベルトの手に傘はない。そのまま法衣を雨に濡らしながら、ゆっくりと歩を進める。
「――風邪を引くぞ。こんなところでグズグズするな――だろう?」
『そう! 母上が、父上にそう言えって』
 広大な土地に並ぶ、墓石の群々。ジルベルトと向かい合っていたその一つが、同じく雨を乳白色の大理石に走らせながら、ジルベルトの真っ黒な背中を見送る。
「ははは。大丈夫さ。言われなくてもわかっている」
 十字架の足元に据えられた金属板の上にも、雨水が流れていく。刻まれた文字列にこそ水が溜まり……ふと、雲間から覗いた光に、反射してキラキラと輝きを取り戻す。
 すでに距離を開いたジルベルトの目にも、光が差し込んだ。
 思わず瞼を細めて、掲げた手の向こう、指の隙間から、一瞬だけ、その眩しい光が、法衣をすり抜けて胸の奥にまで差し込むようだった。
「君が言おうとしていることは、私ならばわかるのさ」
 手を降ろした時には、眩しい陽光は再び雲間に隠れ、見えなくなってしまった。
 あるいは、降り注いでいた光そのものが、ジルベルトが巡廻した記憶の延長線上であったかと思えてしまうほど……先程にジルベルトが感じていた眩しさは、白昼夢のような幻影でしかないかと、思えてしまうほど。
「君もそうじゃないか?」
 細く開かれた唇の隙間から、その名前が漏れ出る。クウィリーノにさえ聞き取れないほどに小さく、口内だけで収まってしまうほどに小さな声。
 だがそれは奇しくも、十字架の足元に刻まれた名前と、同一であった。
「――Adelaide(アデラーイデ)
 頬には、笑みが称えられていた。
 すでに見えなくなった陽光。初めからなかったかもしれない陽光。
 ……だがジルベルトだけには、その姿がしっかと見えているごとく、愛おしそうに見上げて続けていた。



『兄弟たちよ。私ははこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、
 朽ちるものは朽ちないものを継ぐことができない』
  ――コリント人への手紙・第15章 50節
最終更新:2018年08月17日 17:32