小説 > 在田 > 黄金の翼 > 03

ディエス・イレ


 広い空間に、人間は彼一人だった。
 閉ざされながらも広大なそこを満たしているのは、暗闇だった。
 普段より見慣れている聖堂ほどの広さと高さがあろうかという場所は今、しんと冷たい閑寂さを纏った一条の光を落とす。
 天蓋に設えられた小窓から、白く丸い月が一人の男を見守るべく、光明に照らしているのだ。
 彼を包むスーツの純白が光をより強く際立たせると同時に、暗闇から四角く切り取られた足元へ、暗澹へ繋がるべき影を作り出す。
 ジルベルト・ロレンツォ・ヴェルディはただ黙し、秘めた想いに眼差しは鋭く、月とは違う場所を見上げている。
 彼が少し立ち位置を変えれば、ふくよかな曲線を描く生誕のファサードを見ることができるだろう。当然、その手前に掲げられた生命の樹(サイプレス)の鳩たちも、同じくその奥に高く聳えるイエスの塔も。
 ……設計者たるアントニオ・ガウディがその完成を見ることなく、没後百年を経過して完成を遂げた、複雑ながらも有機的な造型が、その巨大な偉容が荘厳さを放つ。
 到るところに埋め込まれた装飾品の数々と、それを内包しながらも全体像としての美しさを失わない精緻さは、企業歴となっても、遥か昔から変わらず、泥からレンガを作り、石を積み上げて作られてきたバルセロナの街並みと同じく健在だ。
 その巨大な聖家族教会(サグラダ=ファミリア)を、年に一度の祝祭で彩られる姿をひと目見ようと取り囲む民衆たちの活気に、外は満たされている。
 肉料理が振る舞われ、町中のどこを見ても、金色の卵と彼らの笑顔が映り込む……そんな賑やかで、素晴らしい祝祭となっていることだろう。
 バルセロナの街並みが、今、脈動する聖家族教会を心臓に、明るい活気が循環し、満たされていく。
 その中心点にいながらも、ジルベルトが見つめているのは、そこではない。
 彼の手は確かに、鏡月へ伸びる指のような四棟の鐘塔の如く、上へ掲げられていた。
 だが彼の表情は決して、外で歓喜を浮かべる民衆たちとは違っていた。夜闇のように暗く、深閑のように冷たく、月光のように澄まされている。
 これほどの広い空間でありながら、彼は一人だった。
 ……いや精確には、あと二人いると言うべきだろう。
 一人は姿なき存在。レメゲトンであるクウィリーノ。
 一人は威容な存在。彼と同じくヒト型でありながら、しかしこれほどの空間でなければ立つことすらできないほどに大きな存在。
 西暦が潰え、企業歴へ人類の歴史が舵を切った時……一つ、大きく変わったものがある。
 元を辿れば人の道具。ただの木の棒に始まり、炎を生み出し、動物を使って馬車や牛車を作り、青銅による金属性の鎧や盾、刀剣へ発展し、人の手が届かない場所である弓矢。さらには火薬を用いた銃器。産業革命がもたらした石炭動力の蒸気機関車や石油動力の自動車。技術の発展に電気技術が発展したコンピュータ。
 その結集点とも呼べるべき存在が、あろうことか、人類と同じく、神を模した形となって屹立している。
 それは兵器であり、乗り物であり、電子機器でもある。
 企業VCFからすればその威光を保つための、十字架に等しき象徴でもある。
 テウルギア。そう呼称される人型巨大構造物は同時に、レメゲトンであるクウィリーノの依代でもあった。
 クウィリーノだけではなく、ジルベルトにとっても……そして、もう一人にとっても。
 〈怒りの日(ディエス・イレ)
 企業リュミエール・クロノワールが造形した中世の騎士を思わせるシルエットでありながら、繊細で流麗なスケールが、そこにあった。その到るところに施された装飾の数々を見て、その元がミラージュナイトと呼ばれる、兵器としてのテウルギアであることなと想像にもつかないだろう。
 アルバを模した純白のベールを纏い、しかし隠しきれない金属で構成された表面が、微かに宿した月光を、自らの輪郭に走らせる。
 暗澹する空間で、黙しながらしかし、静謐を伴って雄弁に、ジルベルトを威圧するかのように見下ろしていた。
 ジルベルトが見つめているのは、ヒトと同じ姿を象る〈怒りの日〉でありながら、同時に更なる深奥でもあった。
 掲げたままの手をより高く伸ばしながら、ジルベルトは見つめるように歩み寄る。
 天井の小窓から覗く光から外れて、ジルベルトの真っ白なスーツが暗闇に包まる。
「あれからもうじき、三年が経つことを思い出したよ」
 囁くように紡がれたジルベルトの声はしかし、彼以外の誰もいないはずの虚空を反響する。舞台に経つ役者が、壇上の相手と、固唾を飲んで見守る観客たちの二方向へ語るかのように、ジルベルトの声は朗々と感情を載せて語りかける。
 それは悲哀であった。そして歓喜ですらあった。
 細い骨組みに作られた簡易的な階段が、彼らの間にあった。
 穏やかな一定の拍子を刻みながら階段を上っていく靴音さえ、努めて静かであろうはずなのに、こだまする。
「君がどこにいるのか、最近はそれを考えていた」
 外で繰り広げられているだろう復活祭の歓声など、この空間には届かない。
 それほどまでに静謐であるはずの空間が、ジルベルト一人の声を響かせ、震えている。
 〈怒りの日〉も同じく、沈黙し続けていながら同時に、硬い金属が彼の声を吸いこんでいる。
 ジルベルトの視線は弛まず、その顔を見つめ続けて、階段を登り続ける。
「君と、私にとっても馴染みの深いフィレンツェ……ではない」
 花の女神に祝福された歴史の街。ジルベルトも居を構える場所であり、街の至る所に、ジルベルトの歩んできた記憶と思い出が内包されている。
 結婚式を執り行う頃も、町中を歩く時も、奇跡の橋(ポンテ・ヴェッキオ)からの景色を眺めている間も、脳裏に掠める記憶は、ジルベルトの目から見た景色でしかない。
 彼女がいた景色はしかし、彼女が歩み去った景色でもあるのだ。
「ならばミラノ……でもない」
 葬式を行う片時も、棺を埋める瞬間も、雨に打たれながら墓標を見つめる刹那も、その直後でさえ、ジルベルトの視界にはその姿があった。だが記憶の断片たちが語る景色で、口はおろか、目すら開く瞬間を見なかった。声を聞くことでさえ適わなかった。
 その時には既に、彼女は肉体を離れていた。
 階段の上――ちょうど〈怒りの日〉の胸あたりまで登ったジルベルトは、冷たく固い光を纏う、純白の装甲に触れる。
「ならば恐らく、ここでもないのだろう」
 〈怒りの日〉は、単に姿だけが他と違うテウルギアではない。
 歴然と他のテウルギアから逸脱した、とある部品が埋め込まれている。
 それは十字教において禁忌とされる施術であった。
 だが同時に聖人となった者のたどる道でもある。
 企業VCFでは、〈怒りの日〉は対外的な象徴であること以上に、企業歴において初めて聖人となった者の処遇を巡る騒乱の末に行き着き、同時にジルベルトが切り開いた、結論としての場所として認識されている。
「こればかりは、君にどれほど怒られようと構わない」
 不朽体。
 来るべき復活の日が訪れるその時、本来ならは朽ち果てた肉体は亡者たちの魂が宿る器に相応しいはずなどありえない。そのため、棺に守り、土の中というこれ以上ない厳重な保護を行われる。
 だが聖人の肉体は別だ。選ばれた者の魂があった肉体は、来るべき瞬間も本来の肉体へ戻れるように、肉体が腐ることなどないとされている。
 だからこそ〈怒りの日〉は、機械という腐敗を知らない身体として保ち続けられている。
 アデラーイデ・ヴェルディ……故人が本来持っていた肉体の一部を保守する棺として。その新たな魂の器として。
 だがそれでさえ、ジルベルトは違うと告げた。
 もしこの場に、彼と同じくVCFに所属する者がいれば、顔を真っ赤にして彼を糾弾したことだろう。
 何せそれまでの歴史で、禁忌ゆえに考えられなかった不朽体に対する解釈を、VCFの顔役であるジルベルトが断行したに等しいのだから。
「そうであってほしくないと願う私の、エゴだ」
 再び彼は、自身より何倍もの巨大さを誇る威容を見上げた。光の宿らない双眸。その表面に浮かぶ、自らの表情を見つめる。
 ――俗に、棺の花婿(スポーゾ・ラ・バーラ)と呼ばれている男の、情けない悲痛と大人げない欣幸に歪んだ顔を。
 次の瞬間に、異変は起こった。
 〈怒りの日〉の胸が、大きく口を開いたのだ。機械式のモータが回り、油圧ポンプが伸縮する音を立てて……胸の内側に、一人の人間が座れるだけの椅子を見せる。
『おかえり、父上』
 朗らかになクウィリーノの声が、ジルベルトのそれを同じように空間を震わせる。
 姿なき人格であるレメゲトンが、姿在る乗り物であるテウルギアを動かし、コクピットを開いたのだ。
「ただいま。息子よ……そして、アデラーイデ」
 ジルベルトの目に見えたのは、クウィリーノが自分へ手を差し伸ばしてくれる姿だった。
 その手を取り、手繰るように中空を彷徨う手のまま……ジルベルトは椅子に背中を預けて、安堵に息をつく。
 下手な言葉を選べば、彼女はコクピットへ通じるハッチすら開かなかっただろうとさえ思っていたのだ。
 次の瞬間には、開かれていたはずの胸が同じ動作を巻き戻すように動き、閉じこめられる。
 月の光さえ届かない、密閉された暗闇の中で、ジルベルトは純白のスーツに包まれた自分の身体さえ見失う。
 聞こえるのは自分の心臓が打ち鳴らす鼓動と、肺の膨張と縮小が織りなす呼吸。
 自分の身体を包み込むような椅子の感触で、本来保持している自分の肉体という境界線すら見失ってしまいそうになる。
 肉体などすでに喪失しており、この暗闇と同化して、意識という魂だけだが漂っているのではないか、と。
 それが出来るのならば、どれほど幸せなことだろうかとさえ思考が倒錯しかけて、しかしジルベルトの鼓動が自分だけのものでしかないことを思い出す。
 姿なきクウィリーノに、初めから心臓はない。そして〈怒りの日〉にも、感情で揺さぶられる早鐘など持ち合わせていない。
 ジルベルトは暗闇の中から、自分の肉体を再び見つけなければならないのだ。
「アデラーイデ……君は、光だ」
 その声は、先程の空間と違い響き渡ることなどない。真なる暗闇に飲まれ、溶けてしまった。
「目に見える世界は残酷だ」
 司祭という役職は常に、当事者たちの隣にいる。
 人生を誰かと添い遂げると決めた結婚式では、その誓約を皆に認めてもらうための中継点となる。
 人生を終える瞬間には、その功罪を香油に浸して、神に許される憶測を語り、別れを告げさせる。
「永劫続く未来を、私はこれからも見守り続ける。なんておぞましい残酷だろうか」
 VCFという企業が行っているのは、人生の大きな転機に関わることばかりだ。
 そこには大きな喜びがあり、あるいは大きな悲しみがある。
 だがVCFは――ジルベルトは、そこに寄り添うのみだ。手を差し伸べることも、拍手を送ることも許されない。
「私は誰かを救う機会すらない。それには、この身体は小さすぎる」
 人の身でしかないジルベルトには、目に見える世界と、目に見えていた記憶のことしか考えることができない。
 未来を見定めることができたとしても、しかし永遠に幾何学し続ける神が設計した、世界の導く運命を歪められるだけの力など、持ち合わせてはいない。
「だからアデラーイデ。せめて私の手が届く世界を、照らし出してくれ」
 ――次なる異変は、彼の目の前で起こる。
 コクピットの内側に、光が灯ったのだ。
 眼前の画面や、各所にある操縦桿や多種多様なスイッチが、それぞれに小さな光を宿して……しかしそれら全てが折り重なって一つの光となることで、ジルベルトの姿を……それだけではない。ジルベルトの手が届く、コクピットの内部全てを照らし出す。
 ……だが、ジルベルトの言葉は止まらなかった。
「私だけではない。私と同じく、世界に生き続ける誰かのために……」
 次なる変化は、ジルベルトの見えない外側に起こる。
 〈怒りの日〉の双眸に光が灯ったのだ。過去を見つめる右目には悲愴の青(サファイア)、そして未来を見つめる左目には和平の緑(エメラルド)……それぞれの光を。
 月下に薄い輪郭だけを映し出していた巨人が、希望の白に身を包んで、その全身に溢れ返らんばかりの力を漲らせる。それこそ、ジルベルト一人では成しえないほどの大きな力と、より広く伸ばされた腕を。
 自ずと光を放つ〈怒りの日〉は今……荘厳なる鎮魂曲を冠されながらも、激情的で生気に満ちた光を周囲に溢れさせる。
『ねえ、父上。母上が、笑ってるよ』
「ならば、これほど喜ばしいこともない」
 クウィリーノの声に、思わず頬を緩めて、堪えきれない喜びに声を震わせる。
 コクピットを照らす光を頼りに、操縦桿へ手を伸ばした。
 だが続いたクウィリーノの声でジルベルトの手は止まり、溢れてきた嗚咽と、滲み出た涙を隠そうとして、自らの顔を覆う。
『でもね父上。母上、泣いてるよ……父上?』
「……いいのさ、息子よ」
 〈怒りの日〉が一歩を踏み出し、途端に狭苦しくなった空間が、その重厚な足音を轟かせる。
 祝祭に、その象徴として姿を見せるためだ。
 聖家族教会の足元で、未だ民衆たちは、今か今かとその瞬間を待ち望んでいる。
 年に一度。復活を記念して、巨大にして荘厳な偉容が、色とりどりの光に照らし出され、幻想的な姿へ豹変するその瞬間を。
 様々な装飾が施され光を宿す巨人が執り行う、祝祭の開幕を。
 民衆は知らないだろう。その巨人こそ、一つの家族そのものであることなど。聖家族教会に満たされる光が、一体何を象徴したものなのかを。
 神に見捨てられ、神に見切りをつけた企業歴の時代で、復活が何を意味するのかを。
「さあ、行こう。アデラーイデ。息子も……一緒に、世界を祝福しよう」
最終更新:2018年09月06日 19:38