小説 > 在田 > 鍍金と白金 > 01

 息の詰まるような感覚があるのは、キツく締めたタイのせいではないとわかっていながらも、しかし襟を緩めようと首元に手を当てていた。第一まで閉まった襟には、二本もの指がするりと入ってしまうほどの隙間がある。いくら薄いとはいえ、手袋を嵌めている手でさえ、だろう。

 それでも、喉奥に引っかかるものがあるような息苦しさを無視できない。
 もう片方の手には、炭酸の抜けたスパークリングワインが、彼女自身と同じく身の細いグラスで所在なく揺れている。

 一口に嚥下しようとグラスを傾げて、少しばかり上を向いた視界に入ったのは、綺羅びやかな照明の数々だ。
 ぶら下がったガラスの寄せ集めが、電光をこれでもかと撹拌し、ホール全体へ眩しいばかりに光を散らしている。
 シャンデリアというものは元よりそう作られている。忌々しいとばかりに視線を下へやれば、今度目に入るのはシャンデリアに敗けじとばかりに着飾った人間の群れだ。

 男の服装はまだ落ち着いている。黒か灰ぐらいだろう。だからこそ体型の違いがひと目でわかる。軍属上がりは鍛えた筋肉のせいで横幅が広く四肢が太い。政界の人間は贅肉に丸まっている。こんな場所に足繁く通うことを仕事としている連中なのだ。昼間に関わらず酒を飲み、テーブルにある如何にも油分の多そうな食事ばかりを貪るともなれば太るのは明らかだ。

 対して女性の服装は色が目立つ。ワインのような赤が過剰に煌めき、シックな青のドレープがふわりと揺れる。誰かは肩を出し、誰かは背中を開き、誰かはスカートにスリットがある。この場にいる群れの年齢層が彼女より高いからだろうか、淡い色合いは見つけにくい。

 ……一方でフェオドラ・ジノーヴィエヴナ・シャムシュロヴァが身に纏っているものといえば、他の女性とも合わなければ、男たちとも合わないだろう。
 公務で着ている黒のパンツスーツ。それも男性が羽織るべきベストを挟んだスリーピース。いくら女性用に型をとっているものとはいえ、もしネクタイでなくクロスタイだったならば、その手袋も合わせて、場内を歩き回る雑用たちとそう変わらない服装だ。
 主役とは思えない服装であることは、誰の目にも否めない。

 この会場も、集められた人も、並べられた料理も、フェオドラという女性が、SSCNという企業に……引いてはEAAグループの一翼を担うであろう輝かしい将来を記念して、開かれたものだ。
 企業SSCN――ソヴィエツキー・ソユーズ・チェレンコフ=ノルシュテイン……大陸の南部を占めるEAAグループの中でも、東部の大半を領土に収める企業連合体(アライアンス)。フェオドラはその中核企業の一つ、シャムシュロフ設計局より、東端に新設された企業を受け持つこととなった。

 この会場はその社長就任式を兼ねたものだ。
 ゆえ、新設された企業と、その企業の社長となる人物へ、同じアライアンスを組むSSCN内の役員たちが新たな関係性(コネクション)を伺う機会であり、またそうではないEAA内の企業も、SSCNという大企業へ漬け入る隙を見つける好機でもある。

 その通りであるならば、フェオドラは会場の壁に背を預けて、温いワインで喉を潤す暇すらないはずだろう。未だ場内で歓談し続ける者たちの輪に加わり、あるいはその中心で、花形とばかりに他愛ない言葉を千切っては投げ、投げられては投げ返してを繰り返しているはずだ。良好な関係を築き、企業の利欲に活かせる手駒を増やせるのなら、中身のない会話を彩るぐらい造作もないだろう。

 だがフェオドラはそうしなかった。SSCN内では古株であるシャムシュロフ設計局という巨大な後ろ盾に甘え、かまけているというわけではない。

 今フェオドラが感じている息苦しさは、眩しいシャンデリアに目が眩んだわけでも、温いワインに酩酊しているわけでも、覚めきった料理に胃もたれを起こしているわけでもない。
 他人そのもの……あるいは人間の集合体にこそ、忌避している。場内を睥睨して、そこここに見つける貼りつけたような笑顔など、フェオドラの冷めて固くなった頬では適わず、他人などという群れるばかりの存在を相手に、他愛ない言葉を搾り出すことそのものが到底成しえない芸当とさえ言える。

 ……だからこそ、一杯目である手のグラスから炭酸が抜けてしまう程度の時間で、場内にいる全員と名前ぐらいは交換を終えた。
 だが誰に対しても、フェオドラはその目を見上げることができないまま始終した。
 言葉を交わすことができない……瑣末事だと感じていながら、しかしフェオドラは会場の中心で会話に華を咲かせる一群れを、睨むように見つめ続け、その一人ひとりの名前を記憶するべく反芻する。名前程度でしかない言葉のやり取り。その中でフェオドラが目を見ることができなかったように……誰もが彼女の顔を直視できなかったことを、視界の隅から確認していた。

 雑用がトレーを持ち上げながら近づいてくるのが見える。彼らはそもそも顔を伺わないのが通例だ。空になったグラスを押しつけながらも、しかし誰一人でさえフェオドラと目を合わせた人物がいないことが、また首元を絞め上げるような所在のなさを痛感させられる。
 催促されるままにもう一杯を受け取り、今度こそ炭酸を舌に馴染ませながら、再び場内を見渡す。

 誰とも視線を合わせることはない。主役たる者が壁際にまで居ると知りながら、しかし挨拶を終えた者たちのほとんどが、硬い氷の如く冷たいフェオドラの言葉遣いに、再び近寄るなどという愚行をしない。
 それはフェオドラも知っていることだ。自ら突き放すような言葉遣いを選び、顔を見なかった。

 それはせめてもの威嚇なのだと、後付けの理屈で自分を誤魔化そうとするも、社長としてならば先達ばかり並み居るこの場において、むしろ小動物が精一杯に行った可愛いものと同程度でしかないとまで思考が回り……そんな愚かな発想を流さんとばかりにグラスを傾ける。

「ハイエナ共め」

 思わず零れた言葉が誰の耳にも入らないのは、声が小さかっただけでなく、談笑を交わす群衆の耳が輪の内側に向けられており、外側など気にかけている場合ではないことも少なくない要因だろう。

 パーティーの来客たちはそれぞれに思惑を抱えている。何も好機や機会を伺うのは、主役だけに向けられてはいない。普段こそ相見える機会のない者たちばかりに溢れている場内は、それこそ利益へ飢えている者からすれば、絶好の餌場となる。
 誰を自分の利益に還元するか。あるいは喰い物にできるのは誰か――笑みに細めた瞼の裏で品定めする醜い獣たちが、お互いの隙と懐を探り合うために繰り広げる、仮面の如く貼りつけた虚飾の馴れ合い……フェオドラには、言葉を交わす彼らがそんな存在にしか見えなかった。

 その折、目についた純白のドレスに、気づかなかったわけではない。
 むしろ適宜位置を確認して、彼女とだけは居合わせないように、そして視界にすら入れないよう動き回ってきたつもりだった。
 今しがた微笑む横顔にさえ、華麗な気品を滲ませる女性。

 エルフリーデ・アーレルスマイアー。
 SSCNと同じく、EAAを支える柱、基幹企業に名を連ねるカルタガリア兵工廠……その最重要とも呼べるだろう人物が、そこにいる。

「なぜ来た……?」

 カルタガリア兵工廠とSSCNは、表立って有効的な企業として振る舞い、積極的な公益を行っている。
 単にそれだけであるならば何も邪推を深める必要などないだろう。

 問題は、フリーデという人物の立ち位置だ。
 カルタガリア兵工廠の設立者一族という血統を持つだけではない。兵器テウルギアの操縦士たるテウルゴス……そのEAA内トップ3に位置する、EAAが誇るべき存在だ。それだけでなく、彼女を中継した企業間のやり取りは、決して少なくなどない。
 つまり、彼女からの覚えを手に入れた人間は、EAAのあらゆる企業へのコネクションを一斉に手に入れるに等しく、またEAA本社との距離すらもぐっと縮められる。
 命知らずのハイエナが群がるには格好にして最高の餌だろう。

 そんな存在が透き通る白銀の髪色で、可憐なうら若い女性の姿をしているともなれば、一声かけたいと群がる気持ちは同じ女性であるフェオドラでさえ理解が及び、同時にどんな人間であろうと彼女の横へ並べば自らの下賤さに悔いることだろう。

 ……こと、フェオドラのような、今日ようやく社長という役職を手に入れたばかりの人間であれば、尚更に。
 だからこそ、フリーデとだけは挨拶をしなかった。
 群がるハイエナにとってこれ以上ない極上の餌であるフリーデと、本来の餌である主役が並んだ瞬間に、逃げ場もないほど取り囲まれることは目に見えていた。

 だが理由はそれだけではない。他愛ない会話と笑み……それを事もなげに、それも一挙手一投足でさえ輝かしいほどたおやかに行う彼女へ、近づける勇気など持ち合わせていなかった。

「……っ」

 いつの間にかぎりぎりと音を立てていた奥歯に気づいて、一気にグラスを煽った。
 あまりにも突然な動きだったからだろう。目ざとい何人かがぎょっと目を開いて、突然に歩き出した彼女へ視線を送る。
 その視線に構う余裕などないまま手近なテーブルへグラスを置き、弛まぬ勢いのまま激突するかのようにドアを開け放って、会場を立ち去る。

 すぐさまドア前に構えていた護衛の雑用が声をかけようとするも、彼女の横顔を……その一部分を見て、伸ばしかけた手を引っ込める。それすらも今のフェオドラには見えていなかった。

 廊下を踏み潰さんばかりの力強さに任せ、音を立てながら突き進み、一つ角を曲がった途端に、疲労が肩の重さとなってどっと伸し掛かる。踏み出した足取りが途端に弱々しくなり、ふと気を抜けばもつれてしまいそうになる。
 思わず、パンツの内側で震えているだろう自分の足を見下ろしてしまう。

「どれほど、疲れているのだ私は……」

 叱咤するような言葉でさえ弱々しく、その言葉を放つためでさえ、壁に肩を預けてからでなければ崩れてしまいかねないとさえ思ってしまった。
 そのままぺたりと倒れてしまう前に、押し出すように踏みしめた足に重心を任せ、再び歩き始める。
最終更新:2018年10月30日 19:53