小説 > 在田 > 鍍金と白金 > 02

 やっとの思いで待合室についた時には、肩までも揺れており、呼吸さえちゃんとできているか自信が持てないほど憔悴しているのだと理解が追いつく。
 ドアを開けることさえ、力を籠めるではなくもたれかかるようにして体重をかけなければいけなかった。

 同じ建物とは思えないほど静かな空間が、彼女を迎え入れてくる。簡素なテーブルと椅子。ホテルよりもモーテルに近しく、眩しさにかまけた豪奢さはない。
 フェオドラ用に宛てがわれた個室……彼女以外の誰かがいるはずもなく、ソファにかけられた寝間着すら、脱ぎ捨てたまま皺だらけだ。強いて違うとすれば、締め切っているカーテンから漏れ出てくる陽光が、朝よりも強くなっていることだろうか。

 気怠いまでに生暖かい暖色に染め上げている個室を、ふらふらと歩き始める。そのままソファに横たわろうかとジャケットのボタンを外した時だった。
 軽快なノック音が耳に飛び込み、思わず肩を強張らせる。些細な音でさえ頭に響いてしまうのかと嘆息しながら、緩めつつあったタイを締め直す。

 誰がドアの前に立っているか、予想はすぐに着いた。会場へ連れ戻しに来た雑用だ。パーティの主役が退場するにはあまりにも早いタイミングであり、素っ気なさすぎた自覚はある。
 ノック音ですら残響する今のフェオドラの頭に、退場の拍手は殊更に耐え難いだろうと拒否するべく、ドアを開けた。

「……誰だ?」

 一見して、顔を曇らせた……今なららば誰が来ようとも顔を曇らせていたが、雑用にしては華美が過ぎる。
 確かにドレスとしての形ではあるが、光沢を抑えた黒さ、そしてスカート部を浮かせない細身さ、そして肌の露出は抑えている……場内にいて不自然ではないが、しかし主張をとことんまで控えた服装だと思えた。目を隠すサングラス。丸く纏まった金髪。
 招待された客の中にこんな顔がいただろうかと記憶を巡らせる。余程疲弊しきっていなければ、まだ思い出せるだろうはずだが……合致しない。

「フェオドラ様……で宜しいでしょうか?」

「私を見間違えるほど抜けているようには見えないがな」

 質問で返してきた無機質な声に、思わず疲れ切っているはずの自分を意識の遠くへ押しやる。
 顔を出せない程度に開いたドアからでも、その女性が半身をドアへ寄せるように隠していることは見える。サングラスの奥から、フェオドラの一挙手一投足を見過ごさんと見張られた視線には、危うくソファに座った後のでは気づかなかっただろう。

 だがドアを一枚隔てて、吐息さえかかりそうなほどの距離だ。真っ直ぐ顔を見つめてくる間、一瞬もたじろがない視線など、むしろ違和感さえ抱いてしまう――普通ならば無意識的に目を逸らそうとするのだと、経験が物語っているのだから。
 招待客には所持品の検査が入っているはずだ。もちろんそれはフェオドラでさえ免れていない。
 それでもフェオドラを警戒しながら尋ねるほど、信用できていない立ち位置……サングラスの奥にある視線は、決して明るいものではないと知りながらも、黒いガラスに映る自分のシルエットを覗くように、眉をひそめる。

「どこの企業だ? 何の用だ?」

「それは――」

 女性が答えるよりも早く――黒いドレスの裏からひょっこりと覗かせた姿に、思わずフェオドラは一歩、退いた。

 つい今しがたまで、女性に対して放っていた剣呑な言葉と、今すぐにでもドアを締めたいという主張などまるで聞いていなかったかのように、彼女は微笑みを浮かべて、あろうことか手を振った。
 軽やかであるのにしなやかな芯の強さを持つ白銀の髪。ドレープぐらいしか遊びがないにも関わらず、気高さを損なわないドレスに彩られた、どこまでも優しく浮かべられた笑顔。

「なっ……!」

「フリーデ様! まだ対象の――」

「どうせ武器になるものなんて持っていませんよ」

 慌ててフェオドラとの間に立ち入るべく腕を広げた女性と、その脇下まで屈んでみせた白銀の髪を持つ女性……ようやくフェオドラの中で、対していた黒いドレスの女性がどういう立場なのか、理解が追いついた。
 パーティに列席している人間は、当然一定の信頼を得ている上で招待している。それでも物騒なものがあれば神経質にならざるを得ない役職の人間ばかりが並ぶ場であり、またパーティという都合上、必要なものではない。

 だが、他企業からすれば重要人物を裸一貫で放り込めるほど安心できる場所でもないだろう。武器を持たせられないならば護衛をつける。当然の理屈であり、その点で見れば、他参加者よりも主張を控えに控えた服装であるのは合点が行く。
 あくまで来賓は、あどけない少女のような顔をして手を振ってくる、エルフリーデ・アーレルスマイアーその人なのだから。

「な……ん……っ」

 口をパクパクと開くものの、しかし声という声が吐き出せないまま、後ずさっていく歩のまま、思わずその場へ崩れ落ちた。
 ……フェオドラが最も近づきたくなかった人物。そして二度と会いたくないとさえ思っていた人物。

「なぜ、ここに」

「先程、目配せをいただいたので、ご挨拶のことかと存じまして。主賓ともなればさぞかしお忙しいのでしょう。そんな中で私なんかに気をかけてくださり、ありがとうございます」

 壁を頼りに立ち上がるフェオドラを見守るように、フリーデは目を細めながら恭しく礼をする。

 呼んだ覚えなどないと一蹴するには、愚行が過ぎた。どう勘違いしたのか……そもそもいつ察したのか、フェオドラが会場を立ち去る直前まで視線を送っていたことを、フリーデは気づいていた。
 立ち去る直前、とある人物まで視線を送る。顎まで動いていれば「着いてこい」というメッセージが出来上がる。視線が特殊な感情に塗れているものであればあるほどに。

 ……フェオドラが立ち上がるまでの一瞬、一言で、そのように事実を構築されてしまった。

「あれは……」口をついて出た言葉も、そこから先へは進まない。

「それに、こうでもしないと二人っきりでお話することも出来ませんし」

 失礼いたします、と続けて一歩を踏み出そうとしたフリーデの前に差し込まれたのは、護衛の腕だ。

「恐れ多くも、いくら提携とは言え、他企業の方とこのような場所では……」

 フェオドラには願ってもない助け舟となった言葉だったが、しかしフリーデの口元が護衛の耳にまで近寄り、何かを口ずさむ。
 くすっと微笑みを作るフリーデに対して、護衛も何かを察してか、やや苦そうに笑い返す。

「端末はありますね?」

「勿論」

「ではここでお待ちしております」

 弾むようなフリーデの短い言葉に、更に笑顔を苦いものへ変えながら、護衛の手はドアノブを握っていた。
 一瞬の間に、護衛の視線が再びフェオドラを一瞥する。下から上へ。疑うように。
 だがフェオドラが口を挟む前に、ドアは閉ざされてしまう。

 眼前にいる人物は、EAAの基幹企業、カルタガリア兵工廠が誇る才女。創始者一族の血を引き、EAA全体にまでその名を知らしめる、ランク3のテウルゴス。天才という言葉でさえ彼女を形容するには陳腐となってしまうだろう。白き才媛(ヴァイス・フロイライン)――曇りなき羨望の対象として輝き続ける、純真無垢な高嶺の花。

 やや低い位置からニッコリと見上げてくる顔にさえ、触れがたいほどの潔白さに満ちている。

「ごきげんよう。卒業式以来ですね」

「……ああ」

 直視すらできないほどの眩しさに、頭を抱えつつ、今度こそフェオドラはソファへ歩を進めた。

 卒業式……脳裏に浮かび上がる景色に、思わず瞼を強く閉ざし、どっと背を預けた。
 柔らかなソファの感触に浸る間もなく、まだ数年ほどしか経っていない学生の頃を思い出す。
最終更新:2018年10月30日 20:00