フェオドラの卒業した大学は、カルタガリアの機関だ。
嘆くべきか、政治を担える人材を育成できる機関は、SSCNの領土には存在しない。多種多様な民族ごとに生じる軋轢もそうだが、SSCNがEAAグループに加わることとなった歴史的経緯からして、SSCN内部に完結した育成機関を設立するには、EAAからの信頼を得ておらず、時期が早すぎると言えた。
だからこそ一企業を担える能力と野心を備えた人物は、充実した設備と制度を持つカルタガリアへと留学することになる。フェオドラもその例外ではない。
だがフェオドラとフリーデの年齢は、少しばかり離れている。それこそ学生ならば明確に……順当に進路を進んでいれば、入学と卒業で入れ違いできてしまうほどの差がある。
奇遇にも二人の入学と卒業は、同じ学年として行われた。
フリーデほど優秀な人物であれば、幼い頃よりその真価を発揮していただろう。故に飛び級などもありえたかもしれないが、フェオドラの知るところではない。
少なからずフェオドラは、本来予定されていたよりも二年遅れて、留学を果たした。
誰もを直視できず、また誰からも直視されない大きな理由……手袋とパンツスーツで全身を隠し、それでも顔にまで残る大きな切傷痕と火傷痕を刻まれ、療養を終えるまでの期間に費やされたのだ。
二度と触れたくない記憶でもあり、しかし顔にまで残ってしまった以上、常に付き纏う亡霊のような記憶だ。
「覚えていますか? あの講義の時に……」
「いや、覚えていない。講義のことはさっぱりだ」
お互いに、企業の一翼を担う立場であると同時に、テウルゴスという立場も兼ね備えている。
テウルギアに関してもEAA内で先進を往く大学機関の講義は、フェオドラも履修していた。そしてフリーデも。同じ科目で、同じ講義室に座ったことでさえ何度もあった。
だからフリーデの放つ言葉は確かに、覚えのあるものだ。
だが思い返すための労力も割かず、フェオドラは聞き流すどころか会話を断ち切ろうとさえ思いながら返答する。
記憶を巡らせれば、今にでも講義室の光景を思い返してしまう。
方や創始者一族が誇る才色兼備にして眉目秀麗。方や右肩下がりする異郷からノコノコ出てきた、ボロボロの傷だらけ。
比べるまでもないことは明白だ。フリーデの周囲には人だかりの活気に溢れ、そしてフェオドラは常に一人で過ごしてきた。
二年ごときで癒える傷ではないことは、自分でも理解しているつもりだった。だが何より、フェオドラ自身が周囲の誰をも拒絶しながら学生としての時間を過ごしてきたことが、一番の理由だとわかりきっている。悔やむ必要はない。後悔などそこに感じていないのだから。
「でしたら、学園祭の……」
「さあ。私の知るところではない」
フリーデの顔と声は毎日のようにネットへ掲載される。ある時は講演会、ある時は演説、ある時は会議、ある時は戦果……常にカルタガリア兵工廠の顔役として振る舞い続けている言葉と隙のない笑みは、常にネットから政界までをも賑わせる。
フェオドラでさえ、彼女の映像を何度となく見ているのだ。単に仕事だけしようとしても進まず、一手先を見据えるために最近の事情を知ろうとすれば、必ずと言っていいほどフリーデの関わるニュースとすれ違う。
同じ卒業式を迎えた者同士。だが画面の向こうにいるフリーデが語る言葉は常に企業の名を背負った公的な言葉ばかり。
フェオドラが聞き流してしまうほどに、私情を語り続ける女とは思っていなかった。
「申し訳ありません。私ばっかり話してしまって」
そう告げるフリーデへ、フェオドラは顔を向けていなかった。
小さなキッチンで、器具が立てるかちゃかちゃという音が聞こえる。
フリーデという存在が立つには似つかわしくない場所だとさえ、思った。
「つい……」
「……」思わず、歯噛みしてしまう。
確かに立場こそ、社長という名目をフリーデは背負っていない。だが下手な企業重役よりも相応しく、あるいはそれ以上に機関企業というものを背負っているフリーデに対して、フェオドラは、やっとの思いでようやくそのスタートラインへ、社長という役職を手に入れたばかり。
単純な嫉妬だ。フリーデという人間は優れ、そしてフェオドラは劣っている。むかむかと沸き立つ煮え湯のような感情が胸の奥を撫で回す。
だからこそ、問わずにはいられない疑念があった。
「――一体、何が目的だ?」
「目的、ですか?」
素知らぬ顔を向けてきたことに気づいていながら、向き合う度胸を持ち合わせていない。
ソファの肘掛けに頬杖をつき、目元を隠す。
「エルフリーデ・アーレルスマイアー……白き才媛とまで呼ばれる人間が、わざわざ私ごときのために、このような辺境にまで来る必要があるはずなどない。
もしあるならば、私に何を期待している? あるいは、カルタガリア兵工廠は何を狙っている?」
驚くように、フリーデが息を飲む音が聞こえた。
二人きりの部屋の中だ。単なる呼吸ならばともかく、そんな些細な音さえも互いの耳に届き、だからこそ神経質なまでに振る舞う必要があると、フェオドラは再確認する。
「ありませんよ、そんなこと。今回はプライベートなんです」声が、足音と共に近づくのを感じる。フェオドラの真向かい……一対のソファ、反対側のソファに、フリーデがゆったりと腰を下ろしたのがわかる「強いて、こうして誰かとお話がしたかった、ぐらいです」
「ならば……」目元を覆う自分の手に、力がこもってしまう。自分の額を強く握りしめ、沸き上がった怒りに飲まれないよう痛みで統御する「周りにいくらでも居るではないか。先のボディガードも、パーティの時もそうだ。貴女の周りには、常に誰かがいる」
フェオドラは、常に一人だった。事件を経て、一人でいる時間は明確に増えた。自分が増やした。周囲に誰もいないように、自分の利権を活かし、阻む者を退かせて、唯我独尊とばかりに出世の道を突き進んできたはずだ。パーティでも人だかりを作ってしまうような女とは住む世界が違う。大学時代でさえ――「講義室でもそうだったように……っ!」
口を滑らせたことを後悔し、下唇を噛む。
先程、会話を断ち切るために講義のことを覚えていないと発言した。それが嘘であると自分で明言したのだ。
拒絶の意思を、これ以上ないほど明確に伝えたことになってしまう。パーティの時も例外ではなく、私的な会話でさえ公的な立場へ影響を及ぼす。その自覚が欠けて、感情に任せてしまった自分の甘さを、噛み切ってしまうほど恨んだ。
「……」フリーデは、ふっと零れるような吐気と共に、湯気が昇るカップを口元まで運ぶ「彼女は彼女の仕事中ですから」
それが微笑みだとまで推測はできても、その内側でどんな勘定が渦巻いているかを、憶測することは適わない。
「仰る通り、私は確かに、毎日を業務に追われています」
「……」これ以上の下手な発言を自分で許せない。だからこそ閉口したまま、指の隙間からフリーデの口元だけを覗く。カップを包むように握る手が、そこにあった。
「でも、仕事での会話は、やっぱり仕事の話題になってしまうじゃありませんか」
「……当然だな」
何を今更言っているのだ? ――とさえ付け足したくなる気持ちを堪えた。
「なんだか、私の言葉なのに、私じゃなくなっていって、だんだん私がわからなくなる。そんな気がして」二人の間にあるテーブルに、カップが置かれる。微笑みに明るい口調が、たわむ「そう思ったら、寂しいなって思ったんです」
「寂しい?」
常に一人でいたフェオドラからすれば、とっくの昔に捨て去り、忘れ果てた感情だった。
一人で居続けることで満たされれば、そんな感情など抱く必要はない。寂しいなど、誰かから言われる言葉であり、自分が思うようなものではないと。そう思わない限り自分は満たされ、だからこそ進むべき道を突き進めると。
フリーデの言葉は、フリーデ自身のことを語っているだけに過ぎない。だが何故か、フェオドラの胸にまで……先程まで沸騰していた感情が、しんと冷めるような感覚があった。
見下ろしたテーブルの上に、フリーデの置いたカップがある。先程までフリーデが持っていたもの。そしてもう一つ、まだ湯気が昇っているものを見つけて、目を見開いた。
「どうぞ」フリーデの手が、もう片方のカップをフェオドラの方まで押し出す「お砂糖とミルクは、必要でしたか?」
「なぜ私の分まで用意した? 欲しいなど言った覚えはない」
目元を隠していた手が、頬杖が、いつの間にか外れていることにさえ気づけていなかった。
失言を挙げ沙汰にするならば、このタイミングで感情を打ち明けはしないだろう。コーヒーを勧めるなど会話を長引かせる一因であるのは明確なのに、それをするはずがない。
理由もそうだが、それ以上にフリーデの動機が読めない。
「でも、淹れたいなと思ったんです。お友達ですから」
「……友達?」
しばらく、フェオドラは単語の意味を理解できなかった。自分で言葉にして反芻し、その発音が異様に懐かしいものだと至り、そこまでしてようやく、友達という語句の意味を思い出す。普段ならば鼻で笑い飛ばす語句の一種だ。だが今は味わうように、口元と舌先で、その感触を反復していた……あまりにも久しい言葉を。
「一緒に飲みたいんです。テウルゴスやカルタガリアの顔としてではなくて……もっと個人的な、別の私を知っている人と」
「それが、友達か……」
フリーデの語る動機が、再び自分の胸に重い違和感となって蟠る。
一笑に付すつもりだった。虚勢を這っていようとも、普段通りを取り戻すためには、先ほどと同じように言葉を聞き流すことが一番だと。
しかし違和感が、頭にまで駆け巡ってしまう。必死に封じ込めていた記憶が滲み出る。
講義が始まる前の講義室。人だかりの中心点であるフリーデを、確かに、見つめていたことがある。住む世界さえ違うと思っていた。
だがフリーデは、その視線にさえ気づいていたのだろう……パーティの会場でもしていたことも、こうして気づかれていたように。
他愛ないふりのまま前屈みになり、カップへ手を伸ばす。
――手の甲に落ちるまで気づけなかった。それが自分の頬を伝い、顎から落ちた雫だと。
涙だと。
泣いていると。
フェオドラ・ジノーヴィエヴナ・シャムシュロヴァ……SSCN社内にその名を轟かせ、鍍金の女王とまで言わしめた冷酷無比な女が、友達などという安易な言葉に、涙を流していると。
慌てて俯き、涙を見せまいと拭う。
「どうされました?」
問いかけるフリーデの声音よりも、遥かにフェオドラの方が動転していた。何故この瞬間に、自分が泣いているのかさえ理解できないのだ。わけもわからないままに溢れ出る涙を、ただひたすらに拭うしかできないでいる。
ただ、フリーデの告げた友達という言葉だけが、頭に残響し続ける。それを自覚すればするほどに、胸を締めつけてくる、冷たい何かに息が詰まりそうになり、嗚咽が漏れる。
カップを握りしめる手が、血の流れに沿ってカップの熱を体へ取り入れていく。冷え切っていた心臓へと。
「友達……など、何の役に立つのだ? 何の利益をもたらす?」
突然の問いかけに、フリーデは一拍だけ黙り込んだ。だがそれまでにあった笑みをかき消し、決然と答えてみせる。
「役得や利益では、ありません」
「他愛ない会話など、何の意味がある?」
「ありません」
「寂しさなど些末事であろう? どうでもいいことだ」
「もしかしたら、そうかもしれませんね」
答えはフェオドラの望んでいた類に違いはなかった。そこに利益はない。役得はない。メリットはない。ならば必要ないと論理的に片付けることが可能だと実証されたに等しい。
だがそれでも涙は留まらず、嗚咽に震える。握ったままのカップが、カタカタと音を立ててしまう。
カップを握る手が、熱さを焼きつかんばかりに訴える中で、そっと被さる手に吃驚し、思わず顔を上げた。
涙で歪んだ視界に映り込む顔。眉尻を下げて困ったように表情を歪めてなお、それでも弛まない気品さ。
初めて、フェオドラはフリーデと目を合わせた。
なぜ泣いているかをわからないままでいるフェオドラの目にはまだ、フリーデという女性は眩しすぎた。
「……でも、今私の寂しさを誤魔化してくれるのは、あなただけです」
あたかも、彼女自身の思いを告げているような言葉だ。だがこれ以上ないほどに、今フェオドラが感じていた気持ちを、全くそのままなぞるように……胸で大きく開いた亀裂をちょうど埋めるように、ストンと収まる言葉だった。
荒れ果てていた感情の波がしんと静まり返り、しわくちゃの顔をもう一度背ける。鼻を啜り、最後にまた涙を拭う。
ようやく、フェオドラはフリーデと向き合った。目を合わせて、そっと微笑む姿と向き合う。
「……私も生憎、パーティがうるさく思っていたところだ。ここでゆっくりするのも、悪くないのだろう」
そう告げて、互いに、カップを唇へ寄せる。波々と注がれたコーヒーの熱と苦味を味わって、その一時を過ごすために。
最終更新:2018年10月30日 20:07