第1話:女王と女王 ――ページ1
カジノという施設は、ホテルや複合施設のフロアを借りて経営することが多い。
だがカジノ・ヴェンデッタに限ってはそうではなく、カジノという施設のみで一つの複合施設に匹敵する規模の建物を構えている。あまつさえ、世界の三分の一を手にした企業:アルタミラノ総合農業社グループ――EAAにおいては、動向を左右する政治的な主格を担う基幹には至らぬものの、主要参画企業という立場まで確立した。
ただの賭場には相応しくないほど、余りある財力と権力を抱える組織だが、良好な立地が、その利益をもたらす要因ともなっている。
EAA領土の中心点――西暦の時代ならばバグダッドと呼ばれていた土地に、カジノ・ヴェンデッタはある。
国家という境界は消え失せ、グループ内であれば活発に行われる取引。それに伴って人の往来も激しい場所だ。それぞれの住民たちにとって、普段で通うことの多い場所というものは、実際の距離よりも近く感じさせる。
だからこそだろう。日が傾きかけたばかりに関わらず、ホールには数多の来客で賑わっている。ジャケットを羽織ってトランプゲームに興じる者、ドレスを纏ってゲームを眺める者、煤けた作業着に包まってスロットマシンを見つめる者、あるいはボロボロの一張羅で高額チップを握りしめる者……雑多な人種が、それぞれに異なった目的でカジノを訪れている。ゲームを愉しみに。誰かを見つけるために。一発逆転を叶えるために。酒や珈琲を嗜みに。
場内は決して静かではない。筐体ゲームの音も当然だが、広大なホールともなれば当然のように行き交う言葉がそうだ。遮るためにも、騒々しくなりすぎない程度に、大きめの音楽で満たされている。
多種多様を極めるゲームを練り歩き、興じる人々それぞれさえも様々な経歴を歩んできた者たちであると、身なりから推測ができる。
巨大さ故にカジノという枠を越え、カフェとバーまで設え、数多の人生を経た人たちが一同に会する場所が、ここなのだ。
わざと一つのみに作られた入場口の前に席を置くシャトーは、手元の画面に映る監視カメラの映像を見て、ふとそんなことを思う。
『疲れているのか?』
「それは私じゃなくて、そっちのお坊ちゃんじゃない?」
不意をつくような低い声に、思えず息をこぼしてしまった。
ヘンドリクス――受付に座る自分とは違い、監視室のモニターから見下ろしていたのだろう。
片耳には、耳栓ほどの大きさしかないインカムが入っている。顎骨をなぞって顎下にマイクを貼り、喧騒の中でもごく小さな発声で会話ができる……それこそ、傍目には口を開いているかさえわからないほどであっても。
『否定できないから困るな』
出来損ないの笑みを浮かべる強面を思い浮かべて……面白さのあまりに歪んでしまう口元を、急いで普段の微笑に戻しながら、開かれた入場口を見つめる。
受付役とは、客が入って最初に見る顔だ。だからこそ無用な警戒心を買われないために、インカムがあることも、裏と会話をしているという事実さえ勘付かれないよう振る舞う必要がある。
笑顔の温度感を一定に保ち、泰然自若の対応を貫く……客層があまりに広く、またそれぞれの思惑にさえ振れ幅が大きい上で、常に歪まない強靭さこそが、顔役には求められる。
……そう、たとえどんな人間が来たとしても。
次に入り口をくぐった人間は、風貌からして異質そのものだ。
褐色の肌は、元よりこの土地では当然だ。銀色の髪は染める者もいれば、また暇を持て余す老獪としてもあり得る。獰猛さを隠そうともしない不遜な面持ちは、愉しみを目的に訪れない者たちが一様に抱えているプライドに等しい。EAAグループと敵対するCDグループも近しい位置であり、東には巨大軍事工業を抱える企業があるのだから、顔に傷のついている人間は珍しくない。女性がスーツ姿であるならば、業務中の抜け出しもありえるだろう。
だが、たった一人がそれら全てを体現していることは珍しい。それどころか、あまりに特徴的な左頬の火傷と右頬の切傷はある種のシンボルとさえ認知されていた。
受付の奥から、新たな客人を一瞥した者たちが、思わず口をあんぐりと開く。最初は誰彼構わず声をかける遊び人が。次にゲームに冷め始めていた者たちが……ゲームを観覧していたとある女性が、驚きのあまりにグラスを滑り落とす。
乾いた破砕音の引き連れた静寂が、フロア全体にまで響き渡る。
その中心点に居ながらも、彼女は誰とも視線を合わせないまま歩を進める。真っ直ぐ、受付へ向けて。
本来ならカジノなどという場所から、一番程遠い位置の人間だろうと、誰もが思っていた。
――誰かの戦慄が、震えた声となって迸る。
「め、鍍金の女王……!」
それは彼女を表現する言葉として、最も怨嗟を籠めた名前であり、政界に耳をそばだてる者ならば、必然と入ってくる名前の一つだ。
莫大なEAAグループが収める領地でも、東部の一帯を占める軍事企業連合――ソヴィエツキー・ソユーズ・チェレンコフ=ノルシュテインに名を轟かせる女傑。何者をも押し退けて歩を進める傍若無人。鍍金の如く塗り固めた鉄面皮。しかし潜むのは金よりも頑強な欲望……故に、鍍金の女王。
睨むより鋭く、蔑むより冷ややかな細い瞼の奥で、眼がぎょろりと動いた。その方角にいた誰も彼もが目を背け、たじろぎ、退く。
射竦める、とはまさにこのことを言うのだろう。
だが彼女の歩みは留まることなく、受付役まで向かってくる。
『フェオドラ・ジノーヴィエヴナ・シャムシュロファ。SSCN、シャムシュロフ設計局長のご子息だ。最近、子会社の社長になったとか』
ようやく聞こえたヘンドリクスの声へ、いつにないほど安堵感を覚えてしまうのは、周囲に渦巻く沈黙に押し潰されかけていたからだろう。
だんだんと大きくなる姿を見ながら、しかしシャトーは笑顔を弛ませない。思わず緊張に表情さえ強張りかけても、その顔に汗一つさえ浮かべない。
「……ようこそ、カジノ・ヴェンデッタへ」
思わず強張る顎から、力を抜くことを意識しながら、確かめるように言葉を紡ぐ。
危うく喉の渇きで、上擦った声を出しかねてしまいかねなかった……ただ客人一人を迎えるだけだというのに、周囲が作り上げる沈黙に飲まれてしまいかねなかった。
いや、ただ歩くという行動だけでそれを作り出しているフェオドラ自体が異質なのだと、頭では理解できている。
だが乾ききった唾と同じく、それを飲みこむことは些か以上に困難だ。
受付まで来る間、未だ一度も目が合わないのは、フェオドラが自分を人間とさえ思っていないからではないか? ――そんな猜疑が浮かんで、消えた。何しろシャトー自身が、彼女と目を合わせようとしていることさえ、本能のどこかで拒んでいる。
その顔面に刻みこまれた、あまりにも痛々しい傷跡だけが理由ではない。
顔だけ向けながら、目を合わせないまま……フェオドラが口を開く。
「本当に、こんな場所にいるのか」
独り言とも質問とも聞き取れる言葉。眼前にシャトーという受付嬢がいるにも関わらず、眼だけは場内を睥睨している。
「何方か、お探しですか?」
息を飲んでから吐き出したシャトーの問いかけに、フェオドラは顔を下げる。顔を合わせるために見下ろす、ですらない。単に物音が聞こえたから確認に見た……その程度でしかない行動だ。
その冷淡さで今にも止まってしまいそうな呼吸へ、表情で悟られないよう意識を通わせる。
そして――見た。
瞼の奥。ガラス玉のような眼。ぽっかりと開かれた深淵のような瞳。
なぜ、これが、人の形をしているのか――肌に沸き立つ寒気を、シャトーは堪える。
「……いるのだろう。巴旦杏の女が」
最終更新:2018年12月10日 08:46