第1話:女王と女王 ――ページ4
「よもや。本当にルーレットを回しているのだな」
ディサローノへ向けられた言葉だろうが、周囲の人集りが口を噤んでいなければ聞き逃してしまうほど、か細く、口の先でくぐもるようなボソボソした声だった。
ジャケットを脱ごうという素振りもなく、フェオドラはディサローノの指した椅子へ腰を下ろす。背もたれに掛かり、挟まれた銀髪に跡がつくだろうことにさえ気を向けていない。
「これも私の仕事ですから」
努めた業務用の笑顔を貼りつけたまま、ラックから取り出したハンガーを戻す。
旧イラクという土地は海が近いが、基本は砂漠地帯だ。昼間であれば高温による熱気が溢れかえる中で、彼女は黒一色のスーツにコートまで羽織っている。テーブルの縁へ置いた手にさえ白い手袋が被さっている。
珈琲色の肌……あるいはその顔から引き剥がせないだろう、痛々しい桃色の火傷痕と切傷痕を隠すために、銀髪を無造作に伸ばしている、とさえ読める。
空調の行き届いた場内は、外ほどに熱いはずはない。それでもコートさえ脱ごうとしない。
つまりは、寒いから服を来ている……ではない。
小さいままでも、フェオドラは嘲笑うような低い声で語りかけてくる。
「オラクルボード十五位ともあろう人間が、こんな享楽にかまけて――」
「――仕事ですので」
思わず現れた、突き放すような冷たく硬い声音……剥き身の感情を出してしまったことに歯噛みし、頬を掻く素振りで隠す。
声の小ささ、そして未だに一度も合わない目線で、フェオドラという人物を多少なり見誤ったと遅れて自覚した。
声と目の置き方で、他人と向き合う自信が持てない人間だと思っていた……だが、他人を煽る程度の自信はあるらしい――それが自意識過剰によるものか、虚栄心かはまだ定められない。
改めて姿勢を正し、袖のカフスを直しながら、改めて笑顔と口調を作り直し、整える。
「それで、仕事中なら、もっと行くところがあると思いますが」
「生憎と私用だ」
フェオドラの腕と顔が、一緒に動いたのを見逃さない――腕を組んで、背中を反らすようにディサローノを見上げる。
対してディサローノが取るべき姿勢は、テーブルの縁へやや広げた手を置いて、前のめりになるよう見下ろすことだ。
「……へぇ。噂に名高い鍍金の女王さんも、遊んだりするのね」
腕を組む癖は、自分のプライドを守る人間に現れる。顔を上げる時に背中ごと動くのは職業柄だろう。相手は社長職だ。ディサローノの知るより他人を見下すことの多いポスト。他人との付き合いを重視する人間ならば真正面から向き合うことを自然と覚える。
……ならば肩を開いたリラックスと合わせての、視線に伴った心的な距離を詰める時の反応で、フェオドラという人間のプライドが読めるはずだ。
ちらりと一瞬だけ見て背けるならば、自信のない虚勢。正面に向き合えるなら、本当に自信がある証左。
「俗な名だ。曲がりなりにもEAAを代表する人間の使う戯言ではない」
そう返すフェオドラの視線はテーブルの盤面のみを見つめ、一瞬たりともディサローノへ向かうことなく終止した。
「ここは俗の塊みたいな場所よ。せめてシャツじゃなくてブラウスにした方がいいわ。貴女、浮いているもの」
「俗に染まりたくて来たのではない。洒落っ気のある持ち合わせもな」
差し出されたカジノ場内共通のチップを取りながら、乗り出した身を戻しながら、思案する。
……推測とは違う行動。ディサローノの直感が外れたこともそうだが、フェオドラが対策するかのように挙動を制限していることも考えられる。
社長という職位ならば、そういうことはある。一挙手一投足を完全に御しきれるよう自分を作った人間もいれば、常識の外に身を置いて理解できないような理由で癖を構築する人間もいる。
渡されたチップと同額となるよう、ルーレット用のチップをフェオドラの前に積み上げる。
「それで、ルーレットはご存知? 鍍金の女王さん?」
「見ればわかるさ」フェオドラの手が動く。ゆっくりと、一切の震えも見せないまま一枚を取って、顔の前で見せびらかすようにひらひらと動かす。口の端が不気味ににやけた「置けば良いのだろう?」
「その通りよ。私が宣言するまでなら、どこに何枚置いてもズラしても結構。
枠線に置けば、こっち側じゃなくても複数賭けられる。
配当は私の後ろの画面を見て頂戴。私の出した数字もそこに並んでいるわ」
それを言い終える頃には、ディサローノの手はハンドルを回し、白球を放っていた。
……フェオドラほどの人間が座っているのだ。人気の高いディサローノの台とはいえ、誰も同席しない人間など居ないだろう。
事実として、未だ距離を置いて出来上がった人集りは、彼女たちを見つめるばかりで、口を開くことさえできないでいる。その調子では歩き出すことなど、かなりの時間がかかりそうだ。
一方で、フェオドラの動きは単調そのものだ。
36……ルーレットに並ぶ数字では最も高いものへ、積み上がる塔の一つをズラし、それで終わりとばかりに頬杖をつく。
――頬杖。他人と対面しながらもそんなことができるのは、他人が見えていない証拠か、あるいはそもそも他人を見るつもりがない証左か。
「ずいぶんと羽振りがいいのね。一箇所でいいの?」
「これは、一枚でどれぐらいのNOVAに換金できる?」
問いかけなど聞こえていないかのように、フェオドラがチップ一枚を持ち上げて見せる。ストライプも入っていない、ただのチップだ。
質問に答えられなかった苛立ちなど覚えていたら、彼女を前にして怒りのボルテージなどすぐに振り切れてしまうだろう。
「私の台は高いわ――」受け流しながらも、ディサローノは具体的な数字で返答する「――他のお客さんも、皆それを何枚も盤面に乗せるの。私の台で、普通の人なら今後一ヶ月や、下手すれば人生だって変わる額を賭けていく」
NOVAとはEAAグループ領内で流通する通貨だ。
金が大きく絡むカジノの関係者でありながら、そのことを忘れがちになる。普段はチップと、チップの数字しか目にしていないからだ。
「ほう……」ようやく、フェオドラの素振りが変わった。頬杖はやめないままでも、首を傾げて、何かを考えるように指先でこめかみを撫で回す「確かに高い」
言葉に、何かを思案しているようにも見える。だがこめかみという位置は、考えていない人間がその素振りをするとしてもありえる場所だ。
内面を読もうと、決して合わない視線でまじまじとフェオドラを見つめる。
次の瞬間に、フェオドラの片手がコートの内側へ突っ込まれたことで、一瞬に肌の裏がざわめいた。
『逃げろディサローノ!』
インカム越しに叩きつけられるヘンドリクスの怒声と共に、壁際から様子を伺っていた警備員が走り始めているのが視界の端に伺える。
それに気づいてか、ようやく場内がどよめいて、二人と人集りの距離がさらに開かれた。
最終更新:2018年12月12日 09:57