第2話:真珠色の泡沫 ――ページ3
ドアを通り抜けた瞬間に感じるのは、およそ室内とは思えないほどに髪をかきあげる空調の風と、シャツが重くなりそうなほどの湿気。
光を極端に減らした、円形の部屋だ。
周回する空気の流れが、噴霧された超微粒のスチームを中心へ集中させ、目に見えない円柱を形作っている。
その根本でぼんやりと浮かぶ人影を見つけて、ディサローノは手を上げる。
「あら、今は貴方なの」
『仕方ない。順番なんだとさ』
心底気怠そうに諸手を挙げた人影は、人間にしては腰ほどの高さしかない縮尺を見て、ようやく映像だと悟ることができる。
短く刈り上げられた金髪。角ばった頬と皺が覗く口元と目尻。スーツ姿ではあるものの、まるで意に介さず地べたで胡座をかくように座りこんでいる。ごつごつと筋張った手が、無精髭をぽりぽりとかいた。
――レメゲトン:カルヴァドス。
先程まで、ディサローノとランブイと会話していたバランタインと同じ、電脳空間にのみ存在する模擬人格の一つ――でさえなく、全く同一の存在だ。レメゲトンとして、所謂OS……データ上では一つのプログラムの集合体であるはずが、表出している人格は複数に分たれている。
言わば、多重人格のAI……そう形容するのが妥当だろう。
「揃ったな」
ドアが閉まり、ディサローノが手近な壁へ背を預けると同時に、霧の渦を挟んだ向かいから声が響く。
鋭く鍛え上げられた刃物のような危険さを凝縮した強面が、薄明かりに鈍く照らされれば、それこそ刃が走るようなピリピリとした緊張が肌を撫でる。
言い放ったヘンドリクス本人にそのつもりはなく、単に事務的というつもりであっても、だ。
「――仕事だ」その言葉と同じくして、カルヴァドスの居る円柱……空中投影映像上部に、バストアップされた一人の立体写真が投影される「依頼人は、SSCNお抱えの鍍金の女王だ」
フェオドラ・ジノーヴィエヴナ・シャムシュロファ。
『早速舌打ちってのは、腹の虫の居所でも悪いんかな。ディサローノは』
「気にしないで。続けて」
『こわいこわい』
カルヴァドスの軽口は普段から行われていることだが、ディサローノの声からは普段の余裕がない。
腕どころか足も組んだ姿勢ともなれば、意固地そのものの表れだと見られておかしくはない。
「……」
ちらと、別の位置に腰掛けていたシャトーがディサローノの顔を伺う。目が合ったわけでもなければ、軽々と言葉を交わせるほどに近い場所にいるわけでもない。
だが、ゆったりと周回する立体写真へ送る視線でさえ、断じて穏やかなものではない。
「そもそも信用できるの? この女」
『出された条件は破格さ』立体写真の下で、カルヴァドスがふらふらと起き上がり、薄く笑いながら指を立てていく『報酬は全額を信任の前払い。それもかなりの額。監視や僚機の案内はないが……』
「ますます怪しいじゃない」
傭兵などを釣り上げるならばよくある手段だ。先に巨大な金をチラつかせて目を惹き、無理な戦場へ放り込む。せいぜい囮役でマシな扱いだろう。盾役で妥当。悪ければ替え玉にされる。文句を言ったところで既に用済みとなった傭兵を助ける必要さえなく、そのまま捨てられる。個人が相手であれば額さえもコストとして支払っておく場合もないわけではない。
頭の中で、立体写真のフェオドラが、チップをひらひらとかざした時のニヤけ面と重なる。
死人を強引に増やしてマネーロンダリングをするような人間だ。巨大過ぎる後ろ盾を使い、カジノを差し押さえるために動き出しかねないとさえ思えてしまう。
ディサローノの瞼が訝しげに落ちたが、カルヴァドスが立てたもう一本の指に、目を見開くこととなる。
『……成果報告が不要、と来た』
成果の報告。それが戦闘に関わるものであろうとなかろうと、仕事と分類されるものには伴う。成功と失敗、あるいはその理由と詳細によっては今後の動向に関わる重大な部分だ。途中経過さえ報告として欲しがる依頼主だって少なくはない。
ルーレットの客もそうだ。白球の落ちるポケットと、結果として指差される盤面の数字は全く同じだ。同時に彼らがチップを置くのは盤面であり、ホイールやポケット、あるいはサーキットを回る白球など本来ならば全く関係ないと言って差し支えないだろう。
それでも彼らは一様に、転がり回る白球が落ちていく先を、固唾を飲みながら見守る。
過程でさえそれほどまで欲しがる人間が多いのだ。だから経過の報告をさせるために管轄の人間を派遣する依頼主も珍しくない。
それこそが監視や僚機の派遣だ。依頼主が管轄する人材が同伴すれば、その報告を請負人が行う必要がないのも頷ける。自分たちよりも彼ら報告をすれば、多少なりとも表現上の違いはあれども、およそ正確かつ読み易い報告が可能だからだ。
だが結果にさえ要がないのならば、それは何のための仕事だと言うのか?
報酬を全て前払いされた。信任という箔をつけた支払いということは、企業同士の契約だとしても、相当以上に友好的な関係でなければまず聞かない。仕事ぶりを信頼しているからこそ、失敗時の補償さえ不要として今後の関係を保つためのものだ。
この時点で、報酬をもらうだけもらい、内容さえ聞かず、何もしない日常を送ったところで、カジノ・ヴェンデッタには何ら支障のない契約が成立している。
どうぞサボタージュに甘んじてください……それほどムシの良い話が、そう安々と転がりこんでくるはずがない。
「ふざけてるわね」
「同感だ。何かしらの裏があると見るべきだろう」
『いい条件だろ。やらなくてもいい仕事』
差し込まれたヘンドリクスの言葉と合わせて、カルヴァドスがぬっと下唇を突き出す。
思わず前のめりになったディサローノよりも先に、部屋の中心へ歩を進めるシャトーが人差し指を振った。
「やらなくていい仕事なんてね、そもそも仕事として成立しないはずなの」
『相変わらず、人間の世の中は面倒臭いもんだな』
肩を落として座りこむカルヴァドスを見てか、シャトーも切り上げる。
最終更新:2018年12月28日 12:23