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第3話:宿命は廻る(ルーレット・サーキット) ――ページ4


 外れてしまった第一と第二のボタンを、ヨレてしまったネクタイで強引に締めつけた。
 その上に被さるシャツの襟でさえ伸びきってしまったが、前を開けていたジャケットを羽織り直し、隠した。

 さっきまで襟を握りしめていた手は、今もシャトーの胸のあたりで、震えながら空を握りしめている。
 それまでの張り詰めていた悠揚の笑みまで霧散して、力なく口を開いているシャトーと、向き合った。

「わかって、どうするの?」

 ずっと脳裏に付き纏って離れない涙の光景。

「わかった時に決める」

 何とも曖昧な答えだと自分でもわかりきっていて、それでも他に思いつく言葉も思いもなかった。
 その涙の理由は何か? どこにあったのか? いつまでも胸の奥で燻ぶって、何も先に進まないことが苛立たしい。

 ディサローノに直接聞けるものならしたい。だが頭の片隅で、自分でわからないといけないことだと蟠り、何処へどう手を伸ばせばいいのかさえわかっていないのに釘を打つ自分もいた。

「このままじゃ駄目なんだ。駄目だってことだけわかっているんだ」

 ディサローノという人間の背中がどこまでも大きなものに見える。はるか遠くを信じられない速さで駆け抜けていきながら、大きな壁として立ちはだかっている。しかしその壁にさえたどり着くことさえできない自分の、もつれ続ける足が憎い。

「だから変えなきゃ。何をどうするのかわかんねぇけど、でも……」

 また、ディサローノの目尻に浮かぶ涙滴が見えた。初めて目にした一瞬が、何度となく胸の裏を引っ掻き回す。
 どこまでも遠いと思っていた壁に、届くかもしれないと思った一瞬。好機と思ってしまったことに後悔した自分。

 気づけば踏み出していた足は、決して逃げるためではないと、決死の覚悟で勇んだ一歩目だと、自分に言い聞かせた。

「何かがわかればそれでいいんだ。ディサローノの、何かが」

「……秘密って言葉ぐらい知ってるでしょ?」シャトーの、震えていた指からふっと力が抜けていくのを見た。だらりと両手をぶら下げたかと思えば気怠そうに肩を落とし、椅子へ座り直して、嘆息する。浮かんだ冷笑の隙間で、薄く閉じかけた眼から嫌悪感を滲ませている「あまりにもデリカシーがなくて呆れたけど、安心したわ」

「……っ」

 頭のてっぺんまで上り詰めていた覚悟と思考が、冷水を浴びせられたように流れ落ちた。
 遅れて、意志を足蹴にされたことに気づいて、熱く肩が震えるままに出たもう一歩を、しかし自制に踏み留まる。そうでなければ小首を傾げるシャトーから、恐怖を感じ取ってしまったからかもしれない。

「それじゃ、結局わからないままじゃんか」

「君の気概は認めるけどね」からかうような視線はすぐに反れて、背中にあるディスプレイとレーダーの様子を確認した後、組んだ足の、膝上に自分の両手を置いた「わかりたいとかわからないとか……そこまでしないといけない理由が必要だとも思えないんだよね」

「だけど……」
「わかるってことが、そもそも無理なの」

 食い下がろうと顔を乗り出すも、間断なく突きつけた人差し指に臆した。
 伸ばした人差し指が宙を泳いだかと思えば、上を向いた状態で留まる。シャトーの視点さえも同じ方向を向いていた。

「例えば……ディサローノはEAAのオラクルボード15位。その意味はわかる?」

 突然にシャトーの口から出た問いかけ。浮かび上がる疑問符を声に載せながらも、ドランブイは答えた。

「EAAで15番目に強いテウルゴスだろ。……なんだ? ディサローノが強いことぐらいわかってる(・・・・・)さ」
「君が、これから話そうとしている内容がわかってないこと(・・・・・・・・)がわかった」

 ドランブイに二の句を許さない言葉だった。何を言い返そうとも、シャトーが話題を続けない限り答えを示されない以上、閉口するしかない。
 再び手を膝上に戻して、続けた。

「今世界を牛耳るCD社とアレクトリス社……そっちも含めて、多少前後はあるかもだけど、15位なら、世界最強の五十人になるかしらね」

 特筆して驚くような内容ではない。単純な数字の話だ。そこにディサローノが位置していることこそ脅威的だが、それが成立できるほどの実力を備えていることは、身を以て実感している。
 グループ全体が誇る武力の一端を担っていると言っていいほどの位置づけ。
 世界最強の五十人……五十人ぐらいになら、ディサローノは本当に食い込めて当然だ。それぐらいのことを思ってしまう。

 だからこそ、ドランブイ程度では足元にも及ばないほどの実力を持っているだろうことさえも。

「でもね、ディサローノは私たちのカジノのスピナーでもあるの……というか、それが本業だしね――」

 ルーレットのスピナーとしてもカジノ有数の稼ぎ頭だ。彼女なくして、ヴェンデッタ・ウニオーネはグループの利権を担う主要参画企業などという地位にまで至れるはずなどなかっただろう。

 豪胆で柔和。脅威的な決断力と、どこまでも手を抜かない真摯さ。
 実力も実績も、性格も態度も、カジノの裏側で経理をするだけで手一杯で、テウルギアさえ、ディサローノが出撃しない時の埋め合わせ要員であり、それすらも満足にこなせないドランブイとは大違いだと――そう判断されていると思い込んでいた。

「――つまりね、ディサローノは、ルーレットのスピナーをやっている片手間程度(・・・・・)で、世界最強の五十人に選ばれちゃってるの」

 ほんと、嫉妬しちゃう才能の塊よね……そう自嘲気味に息を吐いたシャトーと目を合わせた刹那で、はにかんだように見えたのはドランブイの気のせいだろうか。

 カジノで最も若いドランブイからすれば他の誰もが歳上だ。子供扱いを望んでいるつもりはなくとも、何をするにも未熟さがついて回る。ドランブイがどれほど躍起になっても、ディサローノと比べられてしまう。
 口を開いて、ようやくシャトーへ反論する。

「だったら、どっちか優先すれば、もっと上を目指せるってことだろ?」

 カジノの地位を導き、グループの重要な一端にさえ上り詰めているはずの彼女が、なぜいつまでもルーレット台から離れないのかが理解できない。

「それこそテウルゴスとしてEAAの直属とか、SSCNとかの軍属になれば……」
「ねえドランブイ。もしそうなったとして、その後のディサローノ(・・・・・・・・・・)を、君は知りたいって思ってる?」

 ヴェンデッタから、それを収めるEAAという巨大企業へ転属するという点で、栄転と呼べる。同時に、ディサローノがそれを望めばすぐにできるだろう人間であることもわかりきっている。あるいは基幹企業……それもEAA最大級の軍事力を誇るSSCNへ映れば、ランキング15位という箔だけでも、相応以上のポストを用意してもらえるだろうことは想像に難くない。

 ルーレットが好きだという個人的な感情があるかもしれないにせよ、なぜディサローノがそれを望まないのかが不思議にさえ思っている。

「別に、それぐらい……」
「――本気で?」

 遮ってまで放たれた声に、思わず口を噤んだ。
 それまでとは一変した重々しい緊張が、ドランブイを貫かんばかりに鋭く射竦める。

 ……シャトーという人間は、普段からディサローノとよく話している場面を見る。それほどに仲が良いのだと判断するのは簡単だが、だからこそ、ドランブイと同じことをシャトーが考えていてもおかしくないはずだ。
 あれほどの才能と実力に恵まれた人間が、なぜ未だにカジノで、ルーレットなどをして遊んでいるのか、と。

 ドランブイからすれば、ディサローノは仲が取り立てて良い人間というわけではない。別の場所で、能力を存分に発揮して活躍できるなら、それこそディサローノにとっては好都合なのではないかと。わざわざドランブイなどという足を引っ張る存在を気にかける必要もないと。
 だがシャトーはそれを否定する。

「本気で、そうなった後を見たい?
 『私たちと肩を並べてルーレットをしていた彼女が、本当に世界最強だった』なんて笑えない事実と、
 『本気になった彼女ですら、最強になれないほど恐ろしい連中がいる世界』なんて怖い真実。
 ねえドランブイ、どっちが見たくて、そう言ってるの?」

「……」

 歯噛みして、ドランブイは考えを巡らせる。
 それこそ際限を見たことがないディサローノの能力……その限界が見えないからこそ、ドランブイが臆している部分は確かにある。
 どこまでが彼女の本気で、どこまでが手抜きなのか。それを見定めることができなければ、見極めることも不可能となる。

 だがシャトーの言葉は、それとは違う視点の言葉だ。

「私だったらどっちも恐ろしくて、知りたいなんて思えない」

 ……最初にわかりたいと言ったのはドランブイだ。今の言葉こそ、ドランブイの言葉を一蹴し、わかるのが無理だと言い切ってみせた根拠なのだと思い至る。
 ディサローノは底知れぬ能力を持っているからこそ、それを隠すための化けの皮を被っている。

「私ね、ディサローノとは良い友達でいたい。わかるとかわからないとか、そういうことじゃないの」

 じっと床を見つめるシャトーの口元から、嗚咽のような力ない言葉がポロポロとこぼれ落ちていく。
 顔色は見えない。だがその姿が、痛々しいものに見えてしまった……涙こそないものの、泣いていると。

「秘密ぐらい、誰にだってあるの。そうじゃなくたって、誰にも彼にも同じように振る舞えるわけじゃない。むしろ君はすごいよ。ディサローノにそこまで言わせたんだから」

 顔を上げたシャトーの視線が、胸を締めつけた。

「それを切り替える程度の仮面なんて、誰でも持っているものでしょ?」
最終更新:2019年01月30日 10:49