小説 > 在田 > 銀の炎へため息のように > 99


 今日はメイド服の日ということらしい。
 私が寝床にしている技仙公司領に、そういった記念日があるわけではない。

 寝床の管理元であるヴェルディ・セリモーニ・ファミリアーリにもそんな記念日はないそうだ。
 アルレがそう言ったのだ。

 仕事がなければ、することなどない。
 いつものように目を覚まし、いつもと同じく煙草を吸って、いつものように部屋へ入れば、アルレがいつものようにご飯を作っている。

 オヨンチメグが起きているのは、四割程度だろう。
 今日は起きている日だった。そしてその服を着て、私が部屋へ入るなりくるくると回りだした。
 浮かべた笑顔の端で、並んでいる歯の並びに欠けが見える。先日抜いた乳歯の部分が、まだ生えてきていないのだ。

「どう? ミシェル! メイドさん!」
『んー! お似合いよオヨンチメグ!』

 アルレの声は低い。普段から私が耳にしている声の中では、男性、それも比較的体が大きいと分類されるだろう人間の放つ声をしている。対して喋り方そのものは、女性的なそれに近い。近い、というのは抑揚あるいはイントネーションの置き方が女性に親しいだけで、女性の方がもう少し淡白に話すからだろう。
 ウィンクだろうか『(^_-)』の文字列を、顔に該当するドットディスプレイに浮かべて、五指が揃ったマニュピレータの、親指部分を立てている。
 似合っているかどうか、というのは感覚・感性に由来するものだろう。如何せん、そういった類いには疎い自分にはわかりかねるが、おそらく成人用だろう袖や裾の余り方をしていることは、似合っているの定義では図りかねる。
 普段より高い声のトーンで、電光掲示板のようなアルレの顔がこちらを向く。

『ねっミシェル、あなたもそう思わない?』
「そうか」

 似合っているかどうかという観点では答えられない。そして子供であるオヨンチメグが着ている大人サイズの服で、尺が余っているかどうかは尋ねられていない。結局私の返答でさえ、いつもと同じものだった。
 私が椅子に座る時には、アルレの顔はオヨンチメグを向き直していた。

『それじゃ、お着替えしましょうねー』
「もっと着ちゃ、駄目え?」

 白い腰布をひらひらと掴みあげるオヨンチメグに対して、つま先が隠れる丈のスカートをつまむアルレ。

『とってもとーっても可愛いけどね。スカートを踏んだら転んじゃうわ』
「……はーい」

 オヨンチメグの声が、低く下がった。残念そうに、と言うのだろう。
 一方で私は、宅に置かれていた料理を口に入れていた。

 傍らに置かれていた普段着に着替えたオヨンチメグに対し、アルレは白黒のそれを抱えて、宅に近づいてくる。
 ヴェルディ・セリモーニ・ファミリアーリから支給された特注の修道女の服に隠されていても、アルレの体は非常に大きく、屋内では屈みながら歩行するのが常だ。そして大半が金属と硬質プラスチックで構成された義体では、椅子へ座れば重さで壊してしまう。

 だからこそ向かい合っても立ち上がったままのアルレが、その服を広げて見せた。
 服そのものの構造が単純ではないのか、主にフリルが目立つ白い布を取り落としていた。

『それじゃミシェル。今日のあなたの服ね。久しぶりに、教会内のお掃除しましょ?』

 先程のオヨンチメグと同じく、足で小刻みしながらその場で回った。建物の老朽化とアルレの自重のせいか、床がぎしぎしと軋んだ。

『私のシスター服とお似合いだし、メイドさんだからね! ちゃんと家事をしてね!』
「……そうか。わかった」

 修道女と家政婦がお似合いかどうかはわかりかねるが、割合はともかく、白と黒という配色は一致している。

 やはり子供の体温は高いのだなと、着替えながら感じていた。


 地平線を覆うほどの黄色が、目にしみる。
 眩く注がれる陽光をこぼさないよう、花弁が大きく開かれていた。
 一つ一つは手の平ほどでさえないほどの、小さなものであっても。

 独特な臭いが、つんと鼻頭を摘んだ。
 凪いだ風に載った匂いだとわかった時には、一斉に小首を傾げた黄色たちが、茎の淡い緑色を見せる。

 駆け抜けていく背中はまだ幼い。にも関わらずみるみるうちに小さくなっていく。
 笑い声も、風に流されて霧散してしまうかのように、か細くなった。

 それを追いかける背中は、極めて大きい。
 人にしても大きすぎる図体を、すっぽり覆うような黒いシスター服が駆け抜けている様は、カビと埃の臭いに塗れた薄暗い教会を掃除する時よりも、買い物袋を抱えて人混みから頭一つ抜き出ている時よりも、目が眩むほどの黄色に際立って見え、睫毛の先で火花が散る。

 ふと視線を下ろした……足元で首を揺らす花弁の隙間で、黒っぽい小さな異物が蠢いている。

 やることがなかった。
 できることはいくらでもある。

 花を根から抜き取ることもできただろう。その小さな虫を手で払うこともできる。
 オヨンチメグを追いかけるアルレッキーノを、追いかけることも。

 だがやることと言えば、ぼうっと眺めるだけだ。

 無自覚のうちに、煙草の箱が顎の近くにあった。唇の先に加えて、半分ほど姿を見せていたそれを、しかし抜ききる前に離す。
 指で押し戻して、シャツのポケットへ仕舞った。
 臭気を撒き散らすことに関しては、ここに密集するアブラナも、煙草も変わりはないだろう。

 だが、オヨンチメグが普段より、煙草を臭いというのに対して、ここでそれを言わないことに気づいたのだ。
 だからどう、ということはない。やることはない。

 ミシェルの脳裏に浮かんでいたオヨンチメグの顔は、遠く黄色の中に埋もれて、ほとんど見えなくなっている。

「ミシェルー」

 手を振っているのだと気づくまでに、時間を要するほどだ。
 その声までも黄色く染め上げられたように、耳にしみる。

 ミシェルの、もう片方の手に握りしめていたMK-1301が、鈍く陽光を反射している。
 しかし空の蒼や、燃え盛るような黄色を写し込めるほど、その銀色は澄んでいなかった。
 MK-1301もポケットに突っ込んで、歩きだす。


 服に油が移ったと気づいたのは、しばらく後になってからだ。
 シミになっちゃうわね、と嘆いていたアルレッキーノもしかし、シスター服を脱ごうとはしないまま、寝転がっている。
 機械だけで形作られた人のようなシルエット。人などと比べて数倍はある重量が、菜の花たちを背中で潰していた。

 つい先程までは見えるはずのなかった影が、妙に長く伸びているのか、それともシスター服が影よりも黒く陰っているのか、ひどく黒ずんでいた。
 しかし、そこだけ黄色が損なわれてしまったと印象しない……いや、できないだろう。

 既に日は地平線と接して、空の色も変わっている。
 黄色であった足元の景色さえ、空と同じく橙と紺のグラデーションに飲まれていた。
 アブラナの色が変わってしまうほど強い色。鮮やかだが仄暗い黄昏。

 口の端で揺れる煙草から、今度こそ細い煙が伸びる。

『楽しかったわね。ミシェル』
「そうか」

 穏やかそうな野太い声が、くねくねと揺れていた。
 対してミシェルの返答は素っ気なく、感情の色を一切見せない。

 元より色素の薄い髪と肌、シャツも主張の少ない色だった。傍目にはミシェルこそ、景観に埋もれてしまっているだろう。
 黄昏の色に、全身を塗り潰されて。
 口元で揺れる静かな灯と、所在なく頼りない紫煙だけが、暗がりな夕陽に反抗していた。

『ここのところ、忙しかったものね』
「頻度は増えていない。だが一つあたりの作戦が長引いている」

 たまには構ってあげなくちゃね、と、土を退けた機械の手が、その胴部に寄せられた。
 決して柔らかくないどころか、ベッドより地面よりも硬いだろう金属の塊の上に、オヨンチメグの姿が浮かぶ。
 細く柔らかい髪の一本一本さえ、夕陽を明るく煌めかせながら、風に凪いでいた。

 寝息を立てるオヨンチメグの頭に、ゆっくりと近づいた手が、髪に触れるか触れないかという曖昧な距離で、止まる。
 あまりにも物騒すぎたと、暗影に染まった機械の手が、風に揺れる茎よりもぎこちなく震えている。

 それを尻目に見て、ミシェルは再び煙を吐いた。
 寝そべるアルレッキーノの、立てた膝に尻を置いていた。

『次は短く終わればいいのにね』
「そうか」
『戦争、長引くのかしらね』
「……」

 答えなかった。答えられるはずがなかった。
 世界を三つに切り分けた陣営。それぞれに与する企業。そこに所属する組織。在籍する人間。
 ミシェルには知りえないほど多くの人間がそこには携わっている。ミシェルもアルレッキーノも、一端の一部分でしかない。
 小指の爪よりも小さく細い、花に蹲る虫……その程度だろう。
 風が吹けば、茎ごと大きく揺らいでしまう。振り落とされるか、飛ばされるか。
 人でさえこのアブラナ畑の端から端までを見渡すことができていない。
 虫ぐらいの視点しかないとわかれば、見ようと思うことさえ愚かしい。

『早く終わればいいのにね』
「アルレ、それでは職務放棄だ」
『いいじゃない』

 ミシェルを向いたのか……アルレッキーノの顔にあたる、頭部のガラス面が、反射に煌めいた。

『帰れないかもしれない、遠い場所になんて、行きたくないわ』

 世界のあらゆる場所で起こる戦闘に、これからも機動兵器テウルギアがあり続ける限り、そこにはテウルゴスと呼ばれる人間たちがいて、運命を共にするレメゲトンの存在がある。

 レメゲトン。テウルギアを動かすためには、そのOSであり模擬人格は必要不可欠となる。
 巨大な人型兵器を動かすためにこそ、レメゲトンが存在していると言っても過言ではない。
 そのレメゲトンであるアルレッキーノの言葉は、存在意義から大きく逸脱し、あるいは矛盾していた。

「そうか」

 素っ気なく、ミシェルは返答する。
 煙草を咥えた唇をキュッと絞めて、手を伸ばす。
 不器用に揺れたまま、髪に触れられない機械の手を、そっと押して、小さな頭に添える。

「ここに敵はいない。これから帰る、路にも」

 白い煙が、開かれた口から溢れ出た。
 しかし声には、少しだけ黄昏が滲みている。

「また来よう。そのための時間を用意しよう」
『……』

 機械のもう一つの手が、暗がりから起き上がり、そっと添えられたミシェルの細筋を撫でた。
最終更新:2019年07月14日 09:39