小説 > 在田 > 銀の炎へため息のように >

∅話:銀の炎へため息のように


 何もない。
 空気を漂う目に見えない塵芥さえ感じさせない……重力も浮遊もなく、ただただ息の詰まるような虚無だけ。
 その虚無を丹念に練り上げて、人の形にしたものが彼女だ。
 故に、何もない。

 溶けそうなほど色素の薄い金色の髪と、これまた霞んでしまいそうな白い肌と、注視しなければ色があるとさえ気づかないような、透き通った空を思わせる瞳が、彼女の肉体をかたどっていた。

 だがそれだけだ。異様でも奇彩でも、何でもない。少し見渡せば同じような部品を持つ者はいる。
 物心という幼い自我を獲得した場所は、そういうところだった。彼女と同じ部品を持つ人間がそこここに転がっており、また同様にそうではない部品を持つ者たちも溢れかえる。

 そして皆が一様に、泥を被っていた。
 乾いた砂の貼りつく肌を、泥まみれの布切れで隠すばかりの日々。濡れそぼった灰色の大地と同じ色を被って、息を押し殺して地面の臭いを嗅ぐだけの生活は、さながら自分たちを大地に還そうとするための儀式のようだった。

 彼女の中で一番古い記憶も、そこからだ。
 どこまでも続く灰色の大地を、ひたすら歩いていた。
 灰を被り、草一本さえ生えない真っ平らな地平が、いつまでも続く。そんな景色が、瞼の裏にベッタリと貼りついている。
 何を目指しているかなど、誰も口にしない。喋ることは愚か、言語というものさえ失われていた。
 疲れを感じることもない。ただ足を動かすだけ。

 しかし閑寂な日々だったわけではない。
 音と風があった。
 ごお、と重い音だ。莫大な力に押された金属の塊が、突き進む音だ。
 その空間にあった大気を押しのけて、その勢いのままに大地さえ引き裂いていた。
 その度に、誰かの軽い体は呆気なく空気中へ吹き飛ばされて、泥に突っ込んでいく。
 泥に拒まれて呻きながら身を捩らせる者、あるいは、そのまま泥に溶けていった者……半々ぐらいだっただろうか。

 そういう日々が続いていた。だから、そういうものなのだろうと思っていた。
 嬉々も恐々もない。音が聞こえれば大地に頬ずりをして、音が去れば顔を上げ、また足を動かす。それだけだ。

 思えばその時にはすでに、嬉しさや悲しみをもたらす感受性そのものが、虚無に染まっていた。
 泥に迎えられた者たちが、歩くのも起きるのもやめて還るように……肉体は残したまま、感情だけが泥に溶けていったのだろう。
 誰の思惑があるかなど想像することもなく、操られていると思考することもない。自分の意思も感情も泥に塗り潰され、言葉さえ知ることなく、ただ灰色の世界を歩くだけの日々。
 いつしか肉体までもを、自分のものではないとさえ思い始めていた。自分が何をしたいのかなどわからなかったが、しかし歩き続けることは誰かの意思からそうされているのだと悟った時があったはずだ。
 それはきっと、泥の奥底でくぐもっていた微かな心が、灰から覗かせた微かな感情の萌芽によるものだったのだろう。

 誰かが動かしている体の見ている夢こそが、この永遠にも感じられるほど間延びした風景なのだと。
 心も体も、自分のものではない。ただ泥と一緒に暮らす日々。
 故に、何もなかった。

 自分が纏う布切れの中に、それがあることさえ気づかなかった。
 それは、時折音を引き連れて現れる巨大なそれと、似た質感を持っていた。
 泥のように柔らかいわけでも、濡れているわけでもない。硬質で冷ややかで、灰色ではない銀色の輝きを持っていた。

 それは、何かであった。
 空虚で灰色な泥だけでしかない彼女にとって、それは厳然として主張を持つ何かであった。
 そして奇しくも、音を引き連れる巨体と、似たような光を放った。あるいは大きな力と同じもの。
 微細な風を感じてゆらめき、そして大地を感じて銀色に煌めく、熱いもの。

 ……何かを、得た瞬間だった。

「――――」

 紫煙を吐き出した彼女は、手中のそれを撫でる。
 ヘアライン加工で光沢を抑えられた、銀の、薄い長方形。ところどころに見える錆を拭う。

 ライター『MK-1301』
 未だに彼女は、その何かが何であるかを知らない。

 だが当時と違うのは確かだ。
 泥の中を歩き回っているわけではない。古びれた教会の祭壇脇に座り込んでいる。
 泥だらけの布切れではない、自分という体のシルエットに合わせた衣装を纏っている。
 隣にいながら自分と同じ行動しかせず、何も語らない者は、もういない。

 他者という存在を知り、いくつもの言葉を知った。
 音を引き連れる金属が、テウルギアと呼ばれるものであったこと。そして自分はその一つを狩るテウルゴスという存在になっている。

 彼女が見た何かは、唇と指の先に、橙色の炎を灯すためのものだった。
 ミシェル・クラン……そう名乗る彼女はしかし、彼女の名前など持っていない。ライターの名前を借りているだけ。
 名前一つすら……最初に得た何かを知ることがない限り、自分を定義することさえできない。その確信だけはあった。
 より正確には……それ以外の全ては彼女ではなかった。
 煙草という嗜好品。テウルゴスという肩書き。着ている服。居る場所。隣に並ぶ存在。話せる言語と知識。

 しかしそれは、彼女ではない。
 まだ感情も、あるいは肉体さえ、灰色の大地に溶けたままだった。
 初めから何もない彼女にとって、失うものなどない。失ったことさえないのだから。

 故に、何もない。
 何もないことこそが彼女であった。
 しかしあの時に得たはずの何かと再会できるという、予感にも似た錯覚は一向に拭えない。
 だから飽きることも懲りることもなく、彼女は煙草を唇に挟んで、火を灯す。

 そこに瞬く赤と青の焔に、記憶の銀色を重ねて眺める。

 胸の内側を灰色に染めていく煙の感触は、大地に頬ずりをする瞬間と似ていた。
 煙を吐き出す刹那に、大地へ埋もれてしまった何かが自分の口から還ってくるのではないか……そんな空想が脳裏を過ぎるも、しかしその瞬間は訪れない。
 マネキンのような静謐さを持つ彼女が見せる、人間らしい感情を連れた瞬間。

 ……人はそれを、ため息と言うのだろう。
最終更新:2019年12月18日 15:53