小説 > 在田 > 三人の馬鹿な男たち > 01

1話――一人目の馬鹿は色男


 温度は低くなく、むしろ湿度を抱えて暖かい。だが静かでこじんまりしているせいか、肌を撫でる空気が、少し寒くなる。
 つい今の今まで鳴り響いていた喧騒たちから遠退いたせいだろう。鼓動が内耳をなぞる感触に、ぶるりと震えた。昂っていたボルテージのままに揺れる脈動が、まだ鼓膜を震わせている。
 それほどまでに我ながら興奮し、波に同調して騒ぎ立てていたと思い至る。だがまだ平静を保っているのだと無駄な保身に安堵する。

 そんなことをわざわざ考えている自らの子供っぽさにふと笑った。
 そして一人で勝手に浮かべてしまった笑みを誤魔化すように、歓声に酷使した喉の調子を整えるべく、咳払いする。

 笑顔の位置は、ひどく高い……巨漢と呼ぶに相応しく、大きく・広く・長く・太い体躯。
 ごく普通のドアでさえ、潜り抜けるための所作をとった。高さを確認して、縦に長い足を折り畳むだけではなく、横にも広い肩を、すり抜けるように捻った。巨体ゆえに、何度となくドアにぶつかってきた人間だからこその挙動だ。
 わずかに躍り出た腕の一本さえ、子供の胴体ほどはあるだろう。軽々と持ち上げ、その肩に座らせる姿さえ想像に難くない。

 巨大なの図体に似合わない、男のもう一つの特徴は、浮かべている笑顔が子供のようであることだ。
 若々しさを超えて少年じみた無邪気さを思わせる澄んだ瞳と、優しげなカーブを描く眉尻。頑強そうな巨体に見合わない甘い印象の顔。一見して、齢四十を越える男の顔などとは夢にも思わない。

 太ももにぴっちりと張り付くデニムのファスナーを降ろす器用な右腕も、義手であると気づくまでに時間を要する。見目こそ金属質であるものの、彼の図太いシルエットを決して崩すことなく、あまりにも自然に在る。
 肉体に括りつけられた機械を、長い時間と努力を費やして身体の一部に会得している証左だ。

 生っ白い陶器の前に立って、無意識に上のあたりを眺める。
 タイル貼りされた壁と、コンクリートがむき出しの天井の境目を見つめながら、目に浮かぶ景色は少し前のゲームだった。

『生理現象って面倒よね。何してても、どこ行っても付き纏うんだから』

『しょうがねえだろ。人はそういうカラダなの』

 内耳よりも更に内側――どこからかもわからない悪態じみた女の声に、それとなく頭の中で返事をする。

『難儀ね。アタシは嫌よ。カラダなんて邪魔なもの』

『水を差されるのが嫌になるほど、気に入ってたってか?』

 声は心底、退屈そうに冷めきっている。男とは大違いだ。

『んなわけないじゃん。結局は的あてでしょ』

 ぶるりと巨体が震えた後で、機械の右手でファスナーを上げる。
 手洗い台まで進む間にも、女の悪態は止まらなかった。

 外見年齢が同じほど――つまりは男より一、二回りは若いだろう青年の好奇心と野心の目。三本のダーツを握り込んだ拳同士を交わす。中央(ブル)に突き刺さる爽快感。負けて尚、清々しそうに口を歪める無邪気な顔。
 男はそういう瞬間を見るのが好きだった。平和主義、お人好しとさえ言っていいだろう。

『んで、いつになったら終わんの』

『気が済むまで』

『絶対終わんないじゃないそれ。アンタどんだけ投げてんのよ』

『俺が投げたくて投げてんじゃない。あいつらが挑んでくるのが悪い』

 女の声の通り、数字を競い合う的あてゲームでしかない。若い頃からずっと興じてきたゲームであり、突き合わせる顔ぶれこそ毎日のように変わるがしかし、その笑顔の種類は変わらない。
 一回きりしか見ない顔さえ何度もあった。名前さえ知らない連中だ。今どうしているかなど、彼の知るところではない。

『応えてるアンタの問題でしょ。疲れないの?』

『生憎な。生身の腕なら疲れたかもしれないが』

 いくつもの人間と拳を交わし、数字を競い続ける。一切の衰えさえ見せない機械の腕は、むしろ類稀なる才能とさえ思わせた。だからずっと興じていられる。
 若い頃からずっと、若い連中と楽しめるのだ。自分がどれほど歳を重ねようとも。
 それはそのまま、男の人生の生き写しのようでさえあった。

 鏡の前で前髪の角度を調整して、ニカリと笑みを作った。部屋よりも白い歯が、無駄に眩しい。
 二十をすぎた年頃に見られる無邪気さのまばゆき。
 若さだけの連中を負かした時に見る、新鮮な清々しさだけが抜け落ちていた。

『あっそ。じゃ、アタシがやればいいのね?』

『もうちょい遊ばせてくれよ』

『結局アンタの問題じゃないの』

「……バレたか」

 それまで音声として出てこなかったはずの会話。
 口をついて出てきた男の言葉に、音もなく反応したのは、紛れもない彼の右腕だった。
 別の生き物となったかのごとく大きく跳ね上がったと思えば、拳が顔面へ飛びかかる。
 男の動きも慣れたものだった。首の動きだけでするりと避ける。

「わかったわかった。あと三ゲームだけだ、ヴィットーリア。終わったらお前との時間にする」

『っ、そういうわけじゃ』

 途端にバツが悪そうに濁った女の声は、一拍の空白を置いて、自棄を起こす。
 頭の横を通り過ぎた義手が男の耳朶を掴んで、キツめにつねった。

『明日の作戦に支障が出るのが心配なだけよ。サヴィーノ、アンタもいつまでも若くないんだし』

『言ってくれるねぇ』

 刺さるような耳の痛みなど意に介さないのか、男は陽気な笑みを浮かべたままで、右腕に頬をこすった。

「俺ほどのイケメンに、心配なんていらないさ」
最終更新:2020年03月20日 08:35