2話――二人目の馬鹿は気障野郎
満たされていたはずの歓声は、しかし失われていた。
打って変わって、かろうじて耳が拾う音は遠巻きからのざわめき。
見目が変わらない空間の、あまりの豹変ぶりに、むしろ驚きを隠せないのはヴィットーリアの方だった。
『誰? そいつら』
『俺だって知りたいね』
つい先刻まで、わらわらと人が押し入っていたベンチにあったのは、悠々とくつろぐ二つの人影だけ。
今となってはその空間だけが異質な空気を纏っている……いや周囲の空間こそが色めきを変えたのだろう。
名前も知らない、初めて見る相手に向ける目に、好奇心よりも疑心が勝っているなど、ダーツバーで見ることなどなかった。
「よう。邪魔してるぜ」
片方――男が顔をあげる。ひょろりと長い細身を、暑苦しいまでにレザーで着包んでいる。せめて冬用だろうコーデュロイのハットを軽く持ち上げた顔は、決して性格の良さそうなものではない、皮肉げな笑顔だ。
ダーツを楽しもう、という類には見えない。ダーツボードを憂げに眺めるばかりで、ダーツどころか、グラスさえ手にしていない。
「どちらさんで」
ベンチを前に、腰に手を置くサヴィーノの目は、興味なさげに隣へ動いていた。
もう片方は女だった。引き締まった肢体は、健康的と呼ぶには荒々しい筋が目立つ。電子タバコを摘まむ手の甲に浮かぶ血管の影ができるほどには、鍛え上げた肉体を持っているようだ。
「なに。単なる挨拶さ。明日の作戦をご一緒するんだ。顔合わせぐらい良いだろ」
ぷかぷかと女の口からこぼれる煙を他所に、レザーの男はサヴィーノをちらと見上げたかと思えば、目深にハットを被った。
立ち上がった男の目が、少しだけ高いところから見下ろしてくる。自らも巨体だと自覚しているサヴィーノからすれば、その笑顔と切り出した内容も相まって、あまり穏やかな顔はできなかった。
しかしすぐに、差し出された右腕が枝のようだと思って、それを思い改まる。もし取っ組み合いになった時に、勝てそうか否かで判断してしまう程度には、ガラの悪い男だという自覚はあった。
「ジョニー・ザ・流浪人。今はそんな名前さ」
「サヴィーノ・サンツィオ。わざわざご足労いただいたんだ。知ってるだろ?」
右手で握り返しながらも、男の名乗り方で、ますます穏やかではないことを悟る。
“今は”……つまりは名前をコロコロ変えるゆえの名乗り方だ。名前など本来ならば変える必要もないはずだが、男は違うらしい。そんなことを隠すつもりもないほど、男の常識観念は普通のものとはかけ離れてしまっているらしいことまでも。
『明日作戦なのに遊んでるアンタが悪いんじゃない?』
ヴィットーリアの声を黙殺する。明日を気にかけるには、まだ夜は始まったばかりだと言いたいが……それ以前に、隠すつもりのないキナ臭さと居るには、サヴィーノが足繁く通うダーツバーは場違いに明るすぎた。
周囲の反応も合点がいく。そんな臭いがする人間になど、普通ならば近寄りたくもない。
そんなことなど目にも入っていないのだろう。ジョニーと名乗る男は肩をすくめる。
「書類だけだ。だがツラを拝んでみないことには、わからねぇこともあるってもんさ。だろ?」
「こんなとこまで? わざわざ?」今度はサヴィーノが両手を持ち上げる番だった「ご苦労なこった」
飄々と継がれる軽口の一つ一つがひどく胡乱で、胡散臭い。どこから本心を語っているのか、どこまでが本音なのかさっぱり読めない。
推し量るようにじっと見つめたまま逸らされない目を、じっと見つめ返す。
「……その人、さっきまで“ザ・遊び人”なんて言っていたけど」
思わず差し出された声に、サヴィーノだけでなくジョニーさえも同じ方向を向いた。
白い息が吐き出されて、天井に揺らいでいくまでの沈黙。
どこを見るでもなく、こちらの方に顔を向けていることだけわかる女の表情も、それこそ何を考えているかわからない。
ふとサヴィーノへ突き出された、筋張った手を握り返すまでにさえ、時間を要した。
素っ気ない声で、電子タバコでジョニーを指す。
「ラディ・蘭=ランドウェル。そっちの気障と同じ、雇われてこっちに来た」
「ラ、ラ……ラ?」
職業柄、聞き慣れない名前や発音形態は少ないが、しかし眉が歪んでしまう。女の名乗りとあれば、ことさら聞き逃さないはずだったサヴィーノが、意図しない失態に歯噛みする。
一方で、せっかくの自己紹介を聞き取られないことまで慣れているのか、頬一つ動かさないまま、ラディと名乗る女が続ける。
「住所不定でね。親も故郷もバラバラなの」
それ以上を答えるつもりもないのか、電子タバコを咥えた。
だが、求めていた答えとしては過不足なかった。
西暦が終わり、企業歴という新たな暦を迎えて二世紀と半に至ろうかという頃。地中海に包まれた半島ロスティバルを収めるのは、国家ではなく、モズマ統治体という企業。
顔に似合わず、そして体格に似合って……サヴィーノの職は、モズマ統治体における軍事。人型の巨大兵器テウルギアを駆る、テウルゴスと呼ばれる人材だ。
当然、小さくない土地を治める組織が抱える、軍事部門ともなれば、サヴィーノだけではない相当数が所属している。それこそ十全たるほど、わざわざ他方から人材を呼ぶ必要などないほどに。
しかしジョニーとラディが雇われるとなれば、また別の事情が関係しているのだと想像がつく。
モズマ統治体の主導で行われない“作戦”が、時折あるのだ。
そしてもう一つ――西暦より続き、国家とは違う人の拠り所としての概念――宗教もまた、企業として名を連ねている。
ヴェルディ・セリモーニ・ファミリアーリ……明日行われる職務の依頼元は、その、冠婚葬祭を主催し取り仕切る企業だ。
同じ半島に拠点を持つ企業であっても、土地を持つ機構と、土地に依存しない組織ではその趣旨さえ変貌する。
世界地図を三色に塗り分ける、さらに大きな
三大企業による政治的側面だ。
北欧を支配するクリストファー・ダイナミクス。西アジアから中東を席巻するアレクトリス。そしてモズマ統治体が収まる、地中海周辺地域のEAA。
そしてVCFは、その三色いずれにも染まっていない企業という立場を主張する。
企業歴以前の経歴……その宗教の設立経緯からして、土地を支配することを嫌う背景を持つ組織体。
しかし本拠地は存在する以上、仕事の依頼先として懇意にするべき地元の得意先はこれまた好条件だ。だが三色いずれにも染まらないことを主張するためには、体よく他の二色を揃えることも求められる。
“雇われてきた住所不定”とはつまり、その色の側面を取り揃える際には都合も体も良い。
反対に、そういったところにつけいって程良く金をかっさらうのも、決まった雇用主を持たない傭兵のやり口だ。
乾いた唇を舐めたサヴィーノは改めて、控えめな照明にうっすらと浮かぶラディをじっくりと見つめる。
この地域では見られない濃い肌色。
「……なるほど、な」
警戒で強張らせていた肩を、深い息とともに振りほどいた。
次いで酒から覚め始めた脳で、知る限りの、明日の作戦という情報を瞼の裏に引っ張り出して……どうやらこの二人は、想像以上に律儀だと思い至る。
「ほんと、ご苦労なこった。たかだか警備だろ?」
季節の祝祭の、だ。ほとんどが地元で行われる、にぎやかだがそれだけの祭りでしかない。
『警護よ。間違えんじゃないの』
ヴィットーリアの指摘を封殺する。
テウルギアという一軒の家をゆうに上回る巨大な鋼鉄の塊は、そこにいるだけで異様な存在感を放つ。
兵器ともなれば、ただの民衆が感じる威圧は相当のものだろう。
「護衛って聞いた」
「おかしいな。俺は見張り番ってな」
ラディとジョニーの返答。
……つまりは祝祭の間、その地域に異常がないかを見守る仕事だ。民衆がはしゃぎすぎないようにするための威圧感は、そこに突っ立っているだけで巨大人形兵器が与えさせられる。
中に座る人間としての作業は、画面とレーダーをずっと睨みつけるだけだ。
『どれもこれも似たようなもんでしょ』
『似たようなもんだ』
呆れ返るヴィットーリアに、それとなく返事したサヴィーノは、腕を弾ませた勢いで、表情を柔らかく作り変える。
「まあどれでもいい。いきなりだったもんで警戒しちまった。すまんな。
お詫びってわけじゃないが、一杯奢るよ。どうだ?」
謝罪のつもりではないことは本当だった。
ただコクピットでずっと座り込むだけの仕事。定時連絡程度しかコミュニケーションを取ることのないだろう相手が、わざわざ挨拶に来た。
それも、雇い主も仕事仲間もコロコロ変えることが生業でさえある傭兵が、だ。
最低限のやり取りと仕事だけ済ませれば、後はどこで会えるかもわからない連中へ、わざわざ顔合わせにきた。
むしろ驚きさえ覚えていた。世に蔓延る傭兵という連中にも、人情味のある奴らがいるもんだ、と。
そこで歓迎の一つもできないほど、器は小さくない自負があった。
「じゃ、明日に響かない程度で」と変わらないトーンのラディ。
「すまんな。下戸なんだ」と手を振るジョニー。
「なんだ、面白くない……」
小さなテーブルに、あげたはずの手を置いたサヴィーノの目は、素っ気なく振る舞っているラディの体をじっくりと推し量っていた。
『まさか声かけるってんじゃないでしょうね?』
「まさか本当に顔合わせだけで来たってのか?」
下心を見抜いたヴィットーリアの牽制と、サヴィーノの煮え始めた誘惑は同時だった。
すかさず、顔面めがけて打ち出された右の鉄拳を回避する。ヴィットーリアの操るそれは、しかし傍目からすれば、単なる自傷行為もどきだ。
「いや、一つ聞きたいことがあってね――」
言いかけて顔をしかめるラディに対して、それとなく動作不良だと言い訳する。
「――〈歩く大聖堂〉のテウルゴスとは、知り合い?」
とあるテウルギアの俗称だ。
冠婚葬祭を取り仕切るVCFは軍事力を保有しないとしているが、たった一機だけテウルギアを保有している、その機体のことだ。
正式な名前はあると聞いたことがあっても、あまりに長すぎてサヴィーノは記憶していない。
何度か目にしたことがある。祭典の度にどこかへ姿を見せはする機体だが、兵器とはむしろ無縁のことばかりで名を馳せる機体だ。
盛大な結婚式とあらば大量の米粒をばらまき――
世界規模のスポーツ大会で、聖火を携え町中を走り――
高名なテウルゴスの殉職に際して、十字架を宙に書き――
はるか極東。アレクトリスに属する超・高級デザイン興業リュミエール・クロノワールが手掛けた機体に、ありとあらゆる宗教画を取り込んだ意匠をこれでもかと施された、世界にまたとないテウルギア。
左右のカメラアイさえわざわざ違う色にするほどのこだわりようだ。
リュミエール製の他テウルギアと比類しても、あまりにも作り込まれた外装ゆえに、下手な教会どころか、大聖堂にさえ匹敵するほどの予算が積まれただろう豪勢さから……歩く大聖堂。
テウルギアは、誰もが乗って扱える代物ではない。レメゲトンに認証されて初めて、テウルゴスとしての資格を得る。
一つのテウルギアに一人のテウルゴスが――殉しない限り、基本的には変わるはずのない原則がある。
つまり〈歩く大聖堂〉には固有のテウルゴスがいる。
「ああ、“棺の花婿”か……」
サヴィーノも、何度かその顔を見たことはある。同じロスティバルで暮らしていれば、何度かすれ違うことはある。
それも片手の指に収まる程度でしかないが、ただの一回だけであっても、決して忘れることはないだろう。
服装は、教会の神父とは思えない。むしろ結婚式に参加する新郎のそれだ。
そこらにあるようなものではないとひと目にわかる、光沢ある真っ白な生地で編まれたスーツ。
自身が一企業の副社長を務めるならば、相応しい身の隠し方さえ求められるはずが、その一切を知らないとばかりに、町中で平然と買い物をするのだ。
常に、誰かとの会話を、オペラじみた声量と張りの声で撒き散らしながら。
厳重なセキュリティなど周囲に見えない……敵対関係の少なくないモズマ統治体の上層部とは想像もつかないほどに庶民的な振る舞い。
話しかけようとすればいくらでも応えてくれるだろう、柔和がすぎる人の良さが見える顔。
目的はともかく、そんな話を小耳に挟んだものならば、地元民の誰もが言葉の一つや二つを交わしたことがあるだろうと推察してもおかしくはない。
「……生憎だが、俺は顔見知り以下だな」
肩をすくめつつも、ぐっと距離を近づけてみる。
どこを見ているかも、何に興味しているかもわからない女性だ。適度以上に近づいてみて、警戒心を抱かれるかどうかの反応を確かめてみる。
……近づいたサヴィーノの顔を見上げたものの、かといって顔色が変わるわけでもない。
警戒するほどの相手ではないと思われているのか……。
「明日にでも聞けるんじゃねえかと思うけど、時間作れなさそうなら俺が聞いとこうか?」
すかさず携帯端末を取り出した。連絡先の交換そのものに意味があるのではない。連絡先を交換したという事実が、心の壁を一つ取り払うのだ。
「じゃ、明日聞けなかったら」
何一つ抵抗する素振りなく、ラディは応じた。
……大した要件じゃないからと拒まれるかと思えば、そうではない。本当に大したことのない要件なのだろう。
そして思っていた以上に、拒まれていないのだと確信する。
交換を終えるまでを興味なさげに眺めていたジョニーと目を合わせ、その気なしに聞いてみる。
「あんたもあるか? 言伝とか」
「いや。俺はねぇよ。顔合わせだけさ」
「ザ・遊び人が?」
「だからさ。俺は義理堅いんだ。信用してくれていいぜ」
携帯端末をしまいながらも、思わず軽口が出た。ひらひらと手を振ったジョニーは皮肉なしの笑みを浮かべている。
「夜街を女一人じゃおっかねぇからな。エスコートさ」
「デキる男だな」
「そう。デキるのさ、俺は。というかデキている」
本当ならばそこを黙っておくのが紳士的だ、とは言わなかったが。
一拍――デキているの意味がわからなくて戸惑ったが、小指を立ててみる。首肯されるどころか、指輪のはまった薬指まで見せられた。
……まじまじと顔を見上げながら、顎をかいてしまう。
『この暑苦しい奴が? うっそでしょ見る目ないの!?』
思っていたことを、そのまんまなぞったヴィットーリアの驚きに、むしろサヴィーノが驚いた。
「そんなに驚くことか?」
「ああいや……」
まさか口から出ていないだろうなと疑いながら、顔を横に振って取り繕う。
それは一つの、サヴィーノの本音であり、改まったジョニーに対する印象だ。
「俺と同じニオイがプンプンしてな。あんたから」
「俺も同じさ。お前、優しくしなきゃ耐えられねぇってお人好しのツラだ。臭ぇぜ」
互いに臭いと罵倒しておきながら、しかし二人して浮かべているのは薄い笑顔だ。悪意で語られるものではなく、動物が臭いを嗅ぎ合う行為に近い。
「遊び人で流浪人なのにか?」
「収まるトコに収まったのさ。ばらまくのをやめただけ」
「俺にゃわかんねえ神経だ」
「簡単にわかられたくねぇな」
くつくつと笑い声をくぐもらせた後に、ジョニーが改めて拳を差し出す。
サヴィーノも等しく喉奥にこらえていたまま、こつんとぶつけた。
「お前とはうっかりしてると仲良くなっちまいそうだ」
「そうなる前に帰ったほうがいい。煙たがられんなよ」
「臭がられんのは御免だぜ。靴下だけでいい」
また二人してくつくつと笑う……のを見てか、ヴィットーリアがキモいやらキショいやら悪態をつくのを無視する。
だが、間にさしこまれた水蒸気のキツい臭いで、我に返る。
ラディが、下から見上げてくる。意外にも頬を少し膨らませて。
「で、私の酒はまだなの?」
すっかりクサい会話で夢中になり、忘れていた注文を取り次ぐべく顔を上げた。
ふらふらと手を振るジョニーの背中が、人混みの間を縫いながらも、出口へ消えていく。
ジョニーのエスコートは、今、サヴィーノへ受け継がれた。ラディと安全に送り届け、明日の職務を迎える必要がある。
二人分の酒を注文しながら、しかしサヴィーノの思考はより野性へ傾いていく――安全もなにも、夜を一緒に明かせばいい、と。
……そして翌朝を、サヴィーノはラディと共にホテルで迎えた。
最終更新:2020年03月20日 08:45