6話――深入りする馬鹿
「すげえな、それ」
ベッドの上、汗ばんだ上裸を隠す素振りもなく、サヴィーノの目は女体から離れなかった。
……だがその背中についてだけは、下心を抜きにしても注目を集めるだろう。
夥しく刻まれた紋身。十字架、シャークマウス、髑髏、剣、炎、魚……挙げればキリがないほどの紋様が、黒一色に塗り潰していた。もはや背中に肌色を探すことさえ難しい。宗教観など度外視した、あまりに無節操な集合体――それら全てで一つの禍々しい何かを幻視させる。
バーで見た無機質で淡白な言葉とは裏腹に、ラディという女は情熱的だった。愉しむためのゆったりした享楽ではない。獲物を胃へ運ばんと必死に口を開く獣のそれに近く、吠えるように、喰らいつくように求められた。
思わず呼応するように燃え上がって……すっかり鎮火した後だ。
ベッド脇に投げ捨てていたバスローブを拾ったラディが、縁に腰掛けて、羽織る。ぐっしょり濡れた背中も乳房もあっさりと隠されたのを、表情に見せずとも残念がった。
「一緒に仕事をしてきた奴ら」
バーで見た時と同じような声音に、思わずサヴィーノは吹き出してしまう。
女の顔と声が、呆気ないほどころころ変わってしまうことではない。その発言が何を指しているかだ。
「なら、俺のも描いてほしいな」
傭兵らしからぬ義理堅さは覚えていたが、仕事相手の紋章を背負うほどまでとは……。
だがくるりと振り返ったラディと目を合わせ、咄嗟に閉口してしまう。ほころんでいたはずの頬さえ、一瞬で凍りついた。
何もない顔だった。空っぽな瞳は何一つ主張せず、ただじっと見つめるだけだ。その僅かな時間で、黒い瞳に映る自分を、見つめ直していた。
だが、ラディが振り返ったことにこそ意味があった。
ようやく、黒一色であった意味を悟ったのだ。影というには重く濃い黒さだったが、嫌がるほどに潔癖症ではなかった。
例えば戦闘機乗りたちはこぞって、実力を誇示するべく撃墜数を機種に貼りつける。多ければ多いほどの実力者であり、死に損ねた幸運者だと周囲に見せびらかす。
テウルゴスやマゲイア乗りたちにも、似たような者はいる。胸部に、肩に、それぞれ見やすかろう位置に連ねるのだ。傭兵であればより一層、それだけで宣伝効果になり得る。
だがラディのそれは、自身でさえ見にくい背中だ。ましてや他人にそう見せられる場所でもない。
例え、夜を共にでもしない限りは……。
どおりで上手かったわけだ――ひとり咳払いをして、笑っていた声色をかき消す。
「忘れないように、ってか?」
「わかんない。むしろ忘れたいのかも」
ラディがベイプを唇に挟んで、顔を背ける。ほう、と気怠げな白い息が膨らんだ。
見えにくい場所とはいえ、わざわざ自分の体に刻みつける行為が、忘れるために……繋がりようもない理由に、首を傾げる。
「やっぱり、やってると痛いのよ。とっても」
「……? ああ」
「あんたはテウルギアだっけ? 得物は」
「そう。やかましいレメゲトンといっつも一緒だ」
突然に切り替えられた話題に、ごく当たり前のように返答した。女性が何を語ろうとしているのかわからない時は、とりあえず話を合わせるだけに尽きる……体に刷りこまれた経験のようなものだ。
次の瞬間、右腕が別の生き物のように跳ね上がったが、音を立てることもなくいなす。
ふ、と、笑うようなため息のような鼻息が、ラディからこぼれた。
「そっちのがいいかもね。一人であんな場所にいるもんじゃないよ」
「寂しいってか?」
ラディの求めている話題が見えてきた気がした。テウルゴスはレメゲトンとセットだ。対してマゲイアは、基本的には一人。男と女の関係でもよくある話だ、と勘ぐる。
視線を合わせないままの横顔に手を伸ばそうとしたが、右腕に掴まれ阻まれる。
「近いけど違う。
コクピットだから、当然私たちが傷つかないように造られているでしょ。
戦っている時、どれだけ被弾する音を聞いても、怖くないって瞬間がある――」
サヴィーノも同様に感じている。
テウルギア・マゲイアは戦地における、もう一つの肉体と言って差し支えないだろう。
生身ならば一瞬で絶命するような攻撃であっても、鋼鉄の巨大で頑強な鎧からすれば、かすり傷同然となる。四肢はおろか、頭部が喪失しても平然と動き回れるなど、人間ならばありえない。
ただ被弾する度、あるいは足や腕を動かすごとに、コクピット内に反響する音がある。動力の駆動音、関節のひしめき……人の小火器をコクピット近くに撃たれた時など、窓にあたる強い雨みたいだとさえ思っていた。
ぎし、と布が軋む音が、ラディの胸元からあった。強く握りしめているのだと。
「――そこを踏み越えた奴から死んでいく。そんな気がして、怖くなる。
コクピットに自分だけで、機体も自分が動かす。でも損傷したことがわかっても、痛くも痒くもない。
サヴィーノは長い間、戦い続けたこと、ある?」
「ああ。あるぜ。多くはねえが」
「ひとしきり終わって、自分の体の動かし方がわからなくなったことは?」
ラディの言いたいことが、ようやく理解できた。
慣れ、あるいは習熟と呼ばれるものだ。強大な機体、痛みを感じない機械に。それこそ自分の肉体と同じように動かし、それまでの自分ではできなかった技術をこなせる。
そして、ラディの言う長時間の行動は、その慣れを加速させる。もう一つの体に意識を這わせ、集中する過程で、余計なものは削ぎ落とされていく。
コクピット内で自分がどう動くかなど、その最たる一つだろう。武器を持っているのは自分の腕ではなく、その外側にある機械の腕だ。だから機械を動かすことに意識を割いて……生身の動かし方を忘れてしまう。
「……ねえな。俺は」
「コクピットも狭くて暗いしね。自分がどこにあるのか。どんな姿勢で、どこに力を入れているのかも、全然……。
そのまま奥歯を噛み潰すまでわからなかった。
仲間や同類がいつ死んだかなんて、全然気にならないぐらい」
「だから、痛み、か……」
「そう。ちゃんと私の体があるんだぞって、実感するために」
ラディが再び振り向いた時には、白い煙が視界を埋め尽くしていた。鼻腔を、メンソールの強い臭いが満たす。
殴りかかられるような勢いのまま、馬乗りになるラディを見上げた。下腹部のあたりに、汗ばんだ熱い肌がどっしりと乗る。
熱を帯びた眼差しに……さっきまでの情熱的な肉体に、合点がいく。自分が機械ではないと証明するために必要な実感と、五感を求めるための、無我夢中さ。
どおりで上手かったわけだ――改めて一笑に付し、サヴィーノは問いかける。
「もし俺が死んだら、背負ってくれるか? 他の奴らみたいに」
「あなたみたいな軽い男……今度こそ嫌だね」
白い歯と舌を見せながら、ラディが笑った。
最終更新:2020年05月17日 05:32