小説 > 在田 > 三人の馬鹿な男たち > 07

7話――馬鹿は夢を見る


 目を開けてすぐ見えたのは、右腕の指先だった。
 ちょうど目を潰さんとしているように――あるいは、見ているぞというハンドサインに。

「そんなに変な夢だったか?」
『知らないわよ。アンタの見てる夢なんか』

 耳を介さず、脳に直接聞こえる女の声。
 その感覚にも、とうに慣れてしまった。人間ではない者との会話など日常茶飯事だ。声の持ち主であるヴィットーリアは、レメゲトンという人間的な行動をする疑似人格であり、実体を持たないプログラムだ。
 女性のものに聞こえる声も、いつの段階かで宛てがわれたものに過ぎない。生身を持たない以上、男女という性別の概念で括ることなどできない存在だ。

 だが彼女の振る舞いは、女性そのものだとサヴィーノは想定している――常に、想像以上に、と。

「まあ、知らなくていいさ」
『あっそ』

 電子疑似人格が、夢を見るのか? そもそも眠ることがあるのだろうか。物理的なシャットダウンはあるだろう。その時にはバックグラウンドで電子回路が動くことなどない。人間で言えば仮死状態にさえ近いはずだ。
 ならば人間であるサヴィーノが寝ている時、右腕に繋がったままのヴィットーリアは、シャットダウンされていない彼女は、何をしているのか。

 サヴィーノの見ている夢を、彼女も同じように見ることができるのか……?
 今に至るまで、聞き出せたことはない。

『あいつはいいの? もう行っちゃう時間だと思うけど』
「いいさ。送らなきゃいけないような奴じゃない」

 暑苦しく胡散臭い男の顔を、思い出してしまった。わざわざ実体を持ち、自らを男だと定義してそれらしく振る舞うレメゲトンもいたんだったなと、頬の代わりに、鼻に貼られたガーゼと包帯を撫でる。

「それに、奴はしぶとく生きるだろ。愛する女もいるし、まあ顔も悪くはなかった――俺ほどじゃねえが」
『心配して損した』

 裸の上体を起こして……見慣れた自分の部屋であることを確認する。簡素な家具は、使いこまれることさえないまま、雑多な小物置きになっている。床にもいくつか散らばっていた。
 欠伸を一つして、また億劫そうに声をかける。

「久々に思い出したぜ。あの時のこと」
『……いつ?』

 興味なさそうにあしらったかと思えば、しかしぶっきらぼうに尋ねてくる。ヴィットーリアはいつになく不機嫌そうに見えた。
 そう故意的に見せているなと、寝ぼけ眼をこすりながらでもわかる。

「俺が新人の時さ。俺とお前の、馴れ初めってやつ」
『覚えてない』
「初出撃だぜ? ちゃんと挨拶もしたじゃねえか」
『そうだったかもね』
「……」

 相槌だけは返してくれるものの、しかしそれだけだ。会話を続けようとしない。続けさせようとする余地がない。何が原因なのかは、想像に難くないが。

「訓練で必死にやってても、やっぱ初めてってもんは緊張した」

 どう言葉をかいつまもうか、サヴィーノは記憶を張り巡らせる。

 例えば、どこにでもあるような戦争映画の光景だ。
 過度の緊張と重圧で、ガチガチに強張った肉体が震えている。新兵はそれに耐えきれず、握りしめている銃から手を離せない。まともに当たらないとわかっていても、引き金を一度絞ったら、そのまま弾切れまでずっと撃ちっぱなし。不器用な絶叫もセットになることが多い。
 その直後、新兵は呆気なく撃たれてしまい、部隊が恐怖のどん底に落とされる演出として役立ってしまう。

 ……サヴィーノの場合は、握っていたものは銃ではなく操縦桿であり、場所は塹壕や土嚢の影ではなくコクピットであり、撃たれることなく生き延びてしまった、というだけの話だ。

 陳腐化されてしまうほどに普遍的だからこそ、誰もが通る道だったと、後になって自嘲的に悟ったことまで思い出してしまう。

「終わって、帰ってからもずっと、操縦桿から手が離せなかったんだよ。確か。
 そりゃ同期もそうだった。ハッチを開けてもらって、ぐでぐでの体を引っ張り出されたって奴もいた。
 でも俺は動いたんだよ」

 サヴィーノが見たのは、右腕だった。
 指先を開いて閉じて、手の平と甲をひっくり返す――すでに見慣れた機械の塊。
 若い頃から……それこそ人生の半分以上を共に過ごしてきた、生身よりも馴染んだ金属性炭素(メタリックカーボン)の腕。

 記憶と夢の中で、右腕は動いていた。がたがたと凍えるように震える体と違って、さも当然とばかりに動いていた。
 ヴィットーリアが代わりに動かしていたのかもしれない。あるいは単純に、神経と電子の回路では、受け取る信号の種類が違うという話かもしれない。だがそこまで覚えてなく、覚えていたところで判然とするほど明瞭な意識もなかっただろう。

「ありがとうな。ヴィットーリア。お前がいたから、俺はちゃんと生きて帰れた」
『……何の話?』

 ラディという女は、痛みと恐怖の話をしていた。コクピットの中で、感じるべき恐怖を、得るべき痛みを感じないようになったら――恐怖を克服すれば、死ぬと。
 しかしそうでなくとも、死の瞬間は訪れる。恐怖に捕らわれてまともな判断能力を失えば当然。そして、先日のラディがそうだったように、不意を突かれれば言わずもがなだ。

 そしてもう一つ――ラディがしていた話があった。
 もう一人という存在だ。
 ジョニーという男には愛する女が、テウルゴスがいる。ジルベルトという男には、愛する女が、テウルギアそのものがある。

 サヴィーノはまだ、愛する相手を持てない。
 一晩を共にする相手がいくらいても、一晩限りの関係だからできることであり、愛する相手としての勇気は持てないままだ。

「なんだかんだ、俺の背中を預けられるのは、やっぱりお前しかいねえ……って話さ」
『……あっそ。お好きにどぉーぞ』

 変わらない態度に見せかけながら、しかし不機嫌さという冷たい壁が、にわかに弛緩するのを読み取る。
 ふと、話題を切り出した。

「なあ。お前も、義体、欲しいか?」
『なに、藪から棒に? 今更なにしようっての?』

 鼻の下を、指の腹で擦る。痛みに顔をびくつかせながらも、不器用に笑いかけた。

「いや、さ……義体があれば、ヴィットーリアともデキんのかなって」

 右腕の鉄拳が、今度こそ間違いなく、顔面にめりこんだ。
最終更新:2020年05月17日 05:38