小説 > 在田 > 鍍金と白金 > 04


 開かれた扉をくぐる前から、しっとりとした匂いが鼻孔を満たしていた。
 決して狭くはないものの、窓も少ない廊下を進んでいたフェオドラがまず覚えたのは、外に出て風を浴びるような開放感だ。

「これは……」

 一歩踏み出したところから、見渡す限りの白が視界の下半分を埋め尽くしていた。
 白百合(カサブランカ)
 花など無縁の、薄い空気と吹き荒ぶ雪に包まれた岩山の隙間を這うように、部下たちを足蹴に一年を過ごしてきたフェオドラでさえ、知らない花ではなかった。
 それが、一面に広がっている。

「これほどの屋内庭園を設えるとは、流石はアーレルスマイアー……いや、流石は白き才媛(ヴァイス・フロイライン)といったところか」
 仰々しい素振りであっても、皮肉でもなんでもなく、称賛のつもりで出た言葉だった。

 丹念に手入れされたのだろう。光を発しているのかとさえ錯覚するほどに眩い白さから背けようと見上げる先に、細い鉄の梁が見えた。
 ドーム状の、ガラス張りの空間。これを設計し作るだけでも一苦労だろうに、そこで花を育て管理しきれる人件費・光熱費の余裕がある。

 現代――企業歴二三五年――世界の三分の一を占めるEAAグループの、エネルギー事業の主幹を担う大企業カルタガリアの領土に生まれ、育ち、そして若くして企業の顔役にまでのぼり詰めた、まさしく才媛。

 同グループでもSSCNという軍閥の、シャムシュロフ設計局という一角の、更に末端――組織図だけではない、地理的にも人の寄りつかないような場所に、ようやく子会社を手に入れたばかりのフェオドラからすれば、天と地ほどの差だ。
 腹の底で渦を巻く感情は、羨望というには、ガラス越しに見える星空よりも暗い。しかし嫉妬と呼ぶには、真っ黒なスーツの生地を撫でるよりもさらりと乾いた感触。

 そんな内情を知るはずもない――白いドレスの背中が、フェオドラを振り返った。
 困ったように眉尻を下げた微笑みが、胸を絞る。目線を合わせずとも、その表情には覚えがある。

 皮肉どころか悪態でさえあったと、ようやく考えが至る。何か言葉を挟もうと思ったときには、すでに彼女の口が開かれていた。

「ずっと、ここにいたいと思う時があります」

 そうはいかないことが多いですが、と回れ右をして、再び空間の中央へ歩き出す。白百合の隙間。肩幅ほどしかない道を。
 どこか楽しそうに肩を揺らすエルフリーデ・アーレルスマイアーは、両脇の花弁を撫で、その手触りと香りを楽しむように、ゆったりと距離を離していく。

「忙しい中で、私のために時間を作ってくださり、ありがとうございます。フェオドラさん」
「それこそお互い様だ」

 立場や肩書の違いはあれど、二人には多くの共通項がある――女性であること。一般に顔と名前が知れ渡っていること。二十代半ばという年齢にそぐわないほどの責任を背負う立場を持っていること――
 ――巨大人型兵器:テウルギアを駆る、テウルゴスであること。

 フェオドラの視線は、再び逸れた。下――自分スーツの黒と、夜空の黒。それを挟まなければ、広がる百合の白と、彼女のドレスの白の眩しさに、瞳を灼かれそうだった。

「先日も出撃をしたと伺っている」

 まばたきの一瞬に、コクピットを思い出す。分厚い内壁。動力部・駆動部・関節部・配管配線、幾重にも折り重なる鋼鉄の数々――それらがひと塊となって、あらゆる障害から断絶し、防護してくれる安堵。
 そして戦車に勝るとも劣らない強大な力をこともなげに振るう巨人として、自分が顕現できる全能感。
 事務作業のデスクよりいささか固くとも、堅牢なシートに身を委ねることは、嫌いではない。

「仕事に付き纏われる身の上だ。むしろ私などに構わず、羽を休ませればよかった」
「いえ、そんな――」

「3位ともなれば、多少は渋られてもいいものだろうに」(つくづく)――。
 出かかった言葉を飲みこまんと、下唇を噛んだ。

 ランク3位。EAAグループの中で与えられた、フリーデの実力と地位を示す数字だ。全く同じテウルギアを駆っているわけではない。むしろ主旨のかけ離れているもの。同じ土俵で比べることは適わないだろう。
 それでも、フェオドラにはないものを、眼前の女性は持っている。自分より若く、気品に溢れ、教養を備え、人心を得て、美貌を持ち、名誉を誇り……。

 つくづく――己の惨めさをこれでもかと掘り返される、と。

 追いかけるように踏み出した足取りはしかし、足元の白百合一本、花弁の一枚ですらも触れ難い神聖さを讃えているのではないかと怖くなって、たどたどしい。
 苦い感情を抑えきれないままに、言葉を並べる。泥のような冷たくぐずぐずな感情をなすりつけ、縋りつくような必死ささえ垣間見えた。

「あるだろう? 誰とも会わない、会いたくない日が。誰の目も気にしたくない日が。時間を無為に捨てて、濃いコーヒーを舐めて、読書にふける……そんな時間が」
「さあ、どうでしょう」

 フリーデは、今度は振り返らない。とぼけるようでも濁すようでもない、乾いた返事だった。
 一滴の汚れさえ纏わせない。清廉さの塊はしかし、フェオドラには拒絶と感じてしまうほどに眩しい。
 それでもどこか、何か一つでもあるのではないかと、爪を立てるように力をこめた。

「誰からも見られない場所ぐらい、貴女も持っているだろう。自分の部屋の一つだって」
「寝室なら確かにあります。着替えもドレッサーも」

 フリーデが立ち止まったそこは、ちょうど空間の真ん中だった。
 ようやく、フェオドラは気づいた。
 空間の中央。半球状のドームの、頂点から、二本のロープがぶら下がっていた。フリーデの肩よりは余裕があろうかという間隔。

 フリーデが腰をおろしたことでようやく、その正体に理解が及ぶ。
 吊り椅子だ。座面は細く、背もたれもないのでは、とても休まる座り心地ではないだろう。ただ一時だけ、体重を預けるためだけの造りだ。
 ロープが床にまで届いて結ばれているため、遊具(ブランコ)でもない。

「そうだ。ベッドにずっと転がっていたいことも――」

 言葉は続かなかった。吊り椅子から顔をあげたフリーデと、目が合った。普段の癖から瞬時にそらす。まともに見つめ合えば、すぐに飲まれる。その恐怖が首筋に付き纏う。
 だが一瞬だけで、ぬかるんだ想いの全てなど無為にされて、取っ掛かりを探し求めていた爪から力が抜ける。

 穏やかな笑みがあった。真っ直ぐにフェオドラを見つめ、次はさらに上へ向けられた。

「でもここの方が、ずっと落ち着けますよ。
 私の我儘で作った……きっと、ここが私の部屋(・・・・・・・)なんです」

「……部屋?」

 素っ頓狂に上擦った声をあげて、周囲を確認してしまう。
 足元には百合の純白。踏み場など花壇の隙間に辛うじてあるのみだ。外周をぐるりと取り囲む薄っぺらで透明なガラスは、そのまま真上にまで続いている。

「ここが、部屋だと?」

 頼りない椅子一つでは、寝ることも力を抜くことも適わない。道具を置き私物を仕舞う家具もない。垂直にそそり立ち、景色も音も断絶してくれる壁という壁もない。

「きっとおかしいですよね」

 自嘲なのか冗談のつもりか、はにかむ口元を見ても、全く合点などいかない。
 確かにテウルギアのコクピットほど、狭かったり頑丈である必要はないだろう。
 これといった趣味がない。化粧品に気を配るほど自身の見目に期待もない。だから物は増えようもない。それを仕舞う家具も同様だ。

「……おかしいな。そうとも」

 だがフェオドラが最も驚いていることは、私物がないことではなかった。
 寝室はあると、フリーデは言っていた。そこに私物もあるだろう。そここそが、フェオドラの想像していた自室。安全を約束され安心しきれる場所。
 そこよりも……何もなく、頼りないガラス張りの空間である方が落ち着くと言うフリーデこそが、理解出来かなった。
 色とりどり多種多様な花さえなく、ただ白百合が咲くだけの温室。内外を問わず、視界の開けすぎた場所。
 こんな場所の、どこにプライベートが存在するのか。ここにいたいと思えるだけの安心があるのか。
 眉間にしわを寄せながら疑うように見つめるが……むしろ同じ人間であるとさえ見なせなくなっていく。

「まるで、鳥籠ではないか」

 釣り椅子に腰かけるフリーデが、飼い慣らされた小型の陸鳥類を想起させた。
 籠の網に餌入れと水のボトルを設えられる以外は、飼い主の都合にのみ籠から引っ張り出され、あるいは仕舞われる。
 主体的な外界との繋がりなど許されない。全ては飼い主次第で決定される。

「確かに、似ているかもしれませんね」

 くすりと無邪気に笑ったフリーデの頭には、そんな比喩など夢にも思っていないだろう。縮尺が狂っているが形が似ている、程度のものでしかない。
 今の拠点からさえ一刻も早く抜け出そうと、躍起になっているフェオドラからすれば笑えない冗談だ。
 誰にも侵されることのない、完全な安心。それこそがフェオドラの願望だ。何人たりとも姿を拝ませることなく、誰もを視界から除外し、どんな手段を尽くされようと無為に帰せる、彼女のためだけの楽園。どれほど努力を積み重ねても、未だ遠くに思えてしまう理想の場所だ。
 目の前にいる女は、それを手にすることができる、世界でも一握り……一摘みいるかどうかの類稀な存在だ。
 それほどの人間が望んだものが、自分を全て差し出すことを前提にした、あまりに開けっ広げな、ただの虚空など……。

「……」

 下唇を噛み締めながら、今度こそ踏み出す。
 数刻前まで怖かったはずの、眩しかったはずの白百合を膝で蹴飛ばした。痛さも後悔も、あるはずなどない。花弁を散らそうと、フリーデが眉一つ動かさないことまで、わかりきっていた。
 途端に、広かったはずの空間が……高いはずだった天蓋が、狭苦しいものに思えてしまう。先程まで歩いてきた廊下の方が厳かで重々しく……そちらにすら安心を覚えてしまう。
 遥か遠くに感じていた、吊り椅子までの距離も。

 きょとんと、座ったまま見上げてくるフリーデへ、問いかける。
 取っ掛かりを求めて爪を立てるような軟弱なものではない。真っ平らで白けた分厚い壁を、叩き割らんと檄を籠めた渾身。

「私が、ここを気に入ると思ったか」

 眉に、戸惑いの色を見せるフリーデ。一度だけフェオドラの通った道を辿り、何かを見つけたように、再び目線を合わせようとする。
 今度は衝動のままに、目を合わせる。

「そうだったら、嬉しかったんですが……」
「ならば、期待には応えられん」

 フェオドラの手がロープを握る。細い腕とはいえ、憤りに強張ったせいだろう。フリーデごと椅子が揺れた。
 構わず、座ったままのフリーデを見下ろす。

「貴女には似合うだろうが、私など到底、花とは釣り合わない。白など尚更だ」

 背中に回してあった、ぼさぼさの銀髪がこぼれる。一房、二房……真下へ落ちて、フリーデの肩に額に頬に、くすんだ銀が触れる。
 真っ暗な夜空でも、真っ白な花畑でもない。視界を埋めるのは自らの髪と、見上げてくる顔だけだ。
 傷一つない白磁の肌。淀みなく透きとおった瞳。無垢ささえ称える小さな口元――顔の部品一つ一つですら、フェオドラには羨ましく妬ましい。

「ここは私には、眩しすぎて適わん」

 だが湧き立つ感情は、黒くない。
 やっと――と、吸い入れた息が、胸を撫で下ろしてくれる感触。腹の中で蟠っていた濁りが、ゆっくりと底へ沈んでいく安堵。そのくせ肩が軽く、浮き上がるような高揚。

「また来ることがあれば、今度は、ここの花を汚してやろう」

 何を思い、考え、返そうとしているのか――真っ直ぐに見上げてくる瞳の奥に問いかけるだけ無駄だろう。
 他人と目を合わせるなどいつぶりだろうか。後頭部の奥に押しやったわずかばかりの恐怖が、うなじのあたりをびりびりとなぞる。

「真っ黒にだ。それなら私にも似合おう?
 フリーデ(・・・・)、貴女が嫌だと(むせ)(おのの)いて逃げ出したくなるような色にするとも」

 構わず、語り告げた。
 終わっても、じっと自らの髪と、その真ん中にいる真っ白な顔を見つめ続ける。
 こんなにも長くいられるのは、金輪際ないだろう。普段のフェオドラならば、爆発でも起こったかのように視線を逃していたはずだ。周囲を睥睨し、機微の一つも見逃さず、徹底して彼我の距離を保ち、断じて侵されないように努めるはずだ。
 それを思いつけないほどの力に、突き動かされている……ただ真っ直ぐ、フリーデを見つめ続けていられるだけの衝動。

 ――ゆえ、気づけなかった。
 視界の外。銀よりも灰色の方が相応しいだろう自らの髪――その外側。
 ロープを掴む手を、フリーデの細い指が包んだことに。
 痩せぎすでかさついたフェオドラの細さとは違う――柔らかく繊細に織られた滑らかな肌。その内にある確かな芯と、体温。

「――っ」

 驚きのあまりに引き剥がした。強引に振り上げたせいか、勢いを殺せなかった足腰がよろめいて、二歩、三歩と後ずさる。
 振り乱した髪を、後ろにやる余裕さえも吹き飛んでしまった。
 煙のように視界を遮る灰色の中で、先程の余裕もなく、フェオドラの視線は右往左往する。

 白百合。夜空。ガラスの反射光。二本のロープ。
 座ったままの、白いドレス。くすくすと笑い声をこぼすフリーデ。
 目を細めて、口角を上げる彼女のそれは……今度こそ、フェオドラには眩しかった。

「じゃあ……期待、しますね」
最終更新:2021年03月07日 19:25