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永久凍土:1


 夜波を切る。
 陽射しを受けていたなら宝石のように輝く地中海が、今だけは黒ずんだ泥にさえ似ている。
 冷たい潮風は嵐のごとく打ちつける。いつの間にか、錆色を覗かせる鉄板たちの金切り声が、今にも大合唱を始めようかとうずうずしている高揚感をぎらぎらと垣間見せる。

 冗談ではないと、イサークは舵を切った。
 イサークの駆る鉄の塊――巨大兵器テウルギア〈ヴォジャノーイ〉は、それほどの興奮に耐えられるほど、若くはない。
 今でこそ単機で、月光を浴びながら駆けることができている。一年後に同じことができているかどうかは危ういだろう。

 ――俺と同じだ。

 逃げようのない憐憫を称えた口元。しかし衝撃で、ぐっと噛み殺された。
 急制動。海面に降ろされた錨が、機体の軌道に間に合わない。海という巨大な手が、下から〈ヴォジャノーイ〉を引っ張っている。
 鋼鉄が悲鳴をあげた。老朽化が進んだ鋼鉄の塊が、久々にやってきた無謀な動きに打ち震えている。綻びによる痛みさえ、喜んでいるようだ。

『長旅ご苦労さん。さてさて俺たちの特攻隊長殿……作戦は、忘れちゃいないな?』
「久々ですよ、そう呼ばれたのは」

 遥か後方。とっくに〈ヴォジャノーイ〉と共にイサークが追い越した艦艇群の一つ。
 そこに、声の主である男はいた。

『畏まるのはよしてくれよ。なんだかんだ、もう長いんだ』

 声がふっと軽くなる。男の表情が綻び、恥ずかしそうにこめかみのあたりを中指でかく姿も、目に浮かぶ。
 初めて会った時は艦艇の中を走り回っていたような男が、今となっては艦橋の中央に立つ責任者の一人だ。
 時間が過ぎるのは早い。いや、あの頃からその素養はすでに持ち合わせていたのだとも思える。

「あっという間に追い越された」
『いや、一気にまくられました』

 二人の声が、立ち振る舞いとしての立場が、逆転する。

『情けない限りです。こんな場所に呼び出すなんて』
「久々に風を切りたかったんだ。俺も、こいつ(・・・)も」風など微塵も入ってこないコクピット内の、シートをぽんと軽く叩く。
『こいつ……ね』
「俺は忘れられていなかったんだって、少し嬉しいぐらいだ」
『俺たちの歴戦の相棒を、忘れる奴なんかここには一人もいないですよ』

 かっこつけた言葉を口にする時、この男は子供のように屈託なく笑うものだった。
 また口元に笑みを浮かべて、今度は咳払いと共に締める。

「それで俺は、間に合わせればいいんだっけか」
『そう。目標物の奪取もしくは破壊。俺たちEAA連合艦隊とコラ社との、競争だ』

 コラ・ヴォイエンニー・アルセナル。
 かつての、イサークの居場所。しかし今となってはイサークを知る者などいないだろう。
 イサークもそのつもりだ。

『連中、ここに来て新型を入れてきた。観測データは後で確認してほしいが……〈ヴォジャノーイ〉と同じく、氷結装甲を使う』

 コクピット内の液晶に、送信された画像データと付随文書を浮かべる。
 その液晶も、元々収まっていた枠を組み替えて強引に設置したツギハギだ。大きな振動の度にばたばたと揺れ、ノイズが走るようになった。固定部分は割れてしまい揺れを収めることはできなくなったが、しかしまだ使える。

「あったのか、これ(・・)の他にも」
『では、後を頼みます。間に合わなかった俺たちの分を』
「わかった。心配いらないさ。俺はどうやら、まだ特攻隊長のままらしいからな。嫁さんにも、お子さんにもしっかり言っておく。お前さんの部下にも……」

 イサークの言葉の途中から、スピーカーからはノイズばかり聞こえていた。
 それでも伝えるべきことをきっちり言葉にした。
 目元を拭った。すでに涙は枯れ果て、視界がぼやけることさえない。それでも動きだけは体が覚えていた。一種の癖になるほど、何度も何度も繰り返してきた動作。
 操縦桿を握りこむ。〈ヴォジャノーイ〉の加速が、体をグッとシートへ押しこめる。

「行こう。クレイオーン」

 返答が来なくなってから、どれほどだろうか。少なくとも、彼に会う前から、ずっとそうだった。
 もはや独り言と言われてもおかしくないそれは、それでも独り言ではない。

 ずっと繰り返してきたはずの、言葉だった。
最終更新:2021年10月29日 20:36