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ボレロ:1


「ボレロだ」

 とても低い声が、いっぱいにした。鏡張りの壁が、揺れている、と思った。何人も整列しているのに、一斉に踏み潰されるのかと、そんな重い音だ。
 ちょうど一つ分、列より高いところにある頭が、胸元の紙を見つめながらだった。
 面と向かって言われているわけでもないのに、足元からがくがくと力の抜けてしまいそうな。

「このアカデミーより出す演目はボレロに決まった」

 コーチの声だ。よれることなくきっちりと身固めたコーチが喋っているんだと、それを聞くために僕たちが並んでいるんだとわかっていたはずなのに。言葉が頭に入ってくるまで、時間がかかった。

「理解しているだろうが、三ヶ月後までにショートプログラムを完成させる。ソロだ」

 ソロ……思わず前を見てしまった。
 彼がいる。
 こんなにも無機的な重圧感を聞いているはずなのに、普段と変わらない、涼しげで、どこか薄く笑っているような、透き通った何も考えていない顔。
 いつもの顔で、彼はじっとコーチを向いている。

「プロリーグの主演目前の、開会式で行う。観客たちの目はプロを期待しているだろうが、しかしプロと同じステージで踊れるまたとない機会だ。一ヶ月後に試験を行う。希望者は明日より特別プログラムを用意する。希望者は本日中に連絡をするように」

 あまりに急すぎる。
 でも心は決まっていた。憧れの舞台だ。他にやりたいことなんてない。眩しく光るスケートリンクで、あのボレロを踊れる機会。
 それこそプロになれればあるだろうけれど、今の僕には滅多にない話だ。

 ボレロ――誰もが知るバレエの名曲。そして、アカデミーがやっているフィギュアスケートの代名詞にさえなった音楽。
 最初は本当に小さな小太鼓の音から始まって、最初のパートも次のパートも、ずっと同じメロディーを繰り返す。その度に別の楽器が加わって、最後には壮大なエンディングを迎える。
 ボレロ……名だたるスケーターが、バレエダンサーたちが踊ってきた名曲。単調でも積み重なっていく音色の重奏に、ただただ圧倒される。
 そして演目の解釈が、とても多種多様なことでも知られている。これという決まったイメージやストーリーがない音楽。

 ずっと踊ってみたかった。繰り返すだけのメロディーに、どれほどの展開を入れるのか……この瞬間にジャンプを、スピンを……最後には一斉にライトを上げてもらい、中央に見上げて立つ僕を見下ろすスポットだけにする、それとも両手を大きく広げて飛び立つ翼にしようか……考えたことだって、二度三度どころじゃない。

 でも、ふと思ってしまった。
 彼ならどう踊るのだろう。
 アカデミーで一番プロに近い男。いつも僕の上の成績を出す彼は、どんな踊りを見せてくれるのだろう。

 以前にコーチから言われたことがある。技術は同程度だと。体幹に関しては僕が勝っていると。
 それでも決定的に、彼の表現力が強すぎる。僕に足りないという言葉じゃなくて、彼が強すぎる、と。
 だから気になった。表現力。イメージを具現化する力。音楽に載せて観客たちに伝える、何か――感情の塊のようなもの。彼には大きく備わりすぎている、と。
 そんな彼なら、どんなボレロを踊るのだろうと。

 たった一人しか、開会式で踊ることができないのに。僕が踊りたくてしょうがなかった、夢の舞台のはずなのに。
 それでも僕は、特別プログラムに申し込んだ。

 彼も、そうだった。
最終更新:2021年10月29日 20:38