小説 > 在田 > 久遠な(か)れコキュートス > 03

回想:1


 ざりざりとアスファルトを薄く覆う砂が擦れる。ゆったりと脱力した歩みが、近づいてくる。

「やっぱり、ここにいたんすね」

 若い男の声が、背中から投げかけられた。安物のライターが小さく灯って、煙草の先端へ移る。浅く早い息と共に白い息が吹き出て、頭の上を通過した。
 イサークは返事をするでもなく、死んだように身じろぎ一つ返さない。

「いいんすか、せっかくの会ですけど」
「……もう少し涼んだらかな」

 重たそうに、イサークは答えた。車椅子の上に座ったまま、一点を見上げたまま。

「最初の挨拶しか出てねえじゃんすか」

 暖かい潮風に晒され、赤い錆がそこここに散らばる壁に、青年はもたれかかった。開けられたまま、随分と前に動かなくなったまま放置されたシャッターの脇。錆に虫食われた壁に通された、これまた錆だらけの針金に吊るされた缶の縁で、煙草を弾ませる。

「もしかして苦手っしたああいうの? ずっと我慢してたんすか。というか今日だけ肝臓の調子が悪いんすか」
「そんな感じさ」

 もう太陽も水平線に沈んでいる。束の間の、夕闇に辛うじて残された赤い陽だけが、二人のシルエットを捉えている。昼間はまだ活気がある古びた倉庫もすでに人の姿を失くし、照明は落とされてしまっている。
 イサークと、煙草を咥え直した一人だけだ。

「手厳しいっすね。俺も明日には内地行きですよ内地。もうちょっと仲良くしてくれたって……」
「すまんな」
「つうかそんな俺が嫌いだったんすか」

 笑いかけるように、青年が大きく吹き出す。
 二回り以上は年の差があろうというのに、青年の声は不遜そのものだった。垢抜けない態度とも言うべきか、その裏表のなさが彼の素直さにも繋がっている。憎めない、というより、憎みきれない人間性に救われていることを、彼は知っているのだろうか。
 翌朝には出立し転勤となる青年が、新しい職場で大いに誤解されるだろうと、少しだけ心配になる。

「俺は散々世話になった身ぃすけど、これは嫌いっしたよ」

 気楽で雑談じみた青年の声が、イサークと同じものを向いた。ずっと見上げたままのイサークと同じように顔を上げたせいか、声の通りが良くなった。

 錆と薄い鉄板に覆われた空間に、よく響いた。
 しかしそこは空っぽではない。その中央――ボロけた倉庫に押し込められるように、機械の塊は身を縮こまらせている。

 機動兵器テウルギア――〈ヴォジャノーイ〉。
 人間にしたって華奢に見える上半身と、大きく裾を広げたスカートのような下半身。照明が灯っていれば、白を基調にした非光沢の装甲が、角ばった箇所ほど禿げ上がり、面は何度も叩き直され磨き上げられて独特なてかりを放っているのが見えただろう。

「ウチの〈アルジュナ〉をやるもんだって、入りたての頃は思ってたんすけどね。浮遊型(フロート)の下半身なんて他じゃまだ聞いたことないすよ」
「そうだろうな」

 テウルギアという巨大機動兵器は、基本的に――いや俗的には人型のシルエットとして認識されている。鋼鉄で組み上げられた巨人。
 企業歴現代より以前の時代では、兵器として非効率と言われた造形。多過ぎる可動部位。縦に積み上がり安定しない重量と重心。それでも装甲を括りつけなければならない。さらにはその全てを制御できる電算装置。パッと思いつくだけでも費用対効果が見込めないことがわかりきっている。はずだった。
 全てをクリアできたからこそ、テウルギアという総称が生まれるほどに普及したわけだが――。

 そんな重量と不安定さを抱える物体が海上を動き回るのは、荒唐無稽さに輪をかけるだろう。
 そこまでをクリアした機体こそ、〈ヴォジャノーイ〉が創られた経緯であり、目的であり、そして成功例であった。
 下半身から伸びた錨付きのパイプが海水を汲み上げ、下半身の中で水素へ還元され一気に放出されることで、機体を持ち上げる。

「こいつの整備はフィルターに溜まった塩の掃除から始まるんすよ。他のテウルギアじゃ考えらんねえすって」

 淡水と海水では混じっている種類が違いすぎる。主に〈ヴォジャノーイ〉が駆けてきた地中海でも例外ではない。むしろ赤道に近い海であるからこそ、塩だけではないバクテリアも夥しい量となる。

「んでどうせ全身水まみれなんだから、バルブの水抜きもするんすよ」

 〈ヴォジャノーイ〉というテウルギアは、海上を浮いて航行するために、重量という問題が他よりも大きく関わってくる。
 表面に、他兵器が当然に備えているような立派な装甲など持っていない。むしろ気圧と気温の急激な変化で、形を歪めないよう形状を押し留めておくための保護・緩衝材という側面が強いだろう。

「最初のガスよりマシになったっすけど、液体窒素のタンクなんて何回穴が開いてたかわかんねえっすよ」

 このテウルギアは敵弾をしのぐために海水を駆使する。機体のあちこちに仕掛けたパイプから、スプリンクラーのように海水を噴霧し、それらを氷結させることで装甲の代わりにする。
 どれほどの被弾を受けても、足元にある海水から再び装甲を複製すればいい。海水ほど際限なく使えるものもないだろう。

「そっからようやく、普通のマゲイアみたいな整備ができると思えば……規格が違うんすよ」

 笑っているのか呆れているのか、それとも怒っているのか、複雑な思い出話を、震えた声で青年はまくしたてる。
 彼らの所属する組織――統治企業アンバスヤーンは、地中海の南側に位置する。企業歴より昔――西暦の時代であれば、チュニジアという国名であったはずだ。
 アンバスヤーンは、さらに大きな企業母体:EAAグループに所属している。

 しかし、この〈ヴォジャノーイ〉……さらには、その駆り手であるイサーク・プルシェンコの生まれは、そうではない。
 遥か北方。別の企業母体:CDグループの、コラ・ヴォイエンニー・アルセナルに籍を持っていた。

「そもそもっすよ。元々北極海で使う設計思想のこいつに、地中海なんて暑い海なんて対応しきれねえっすよ、そりゃ」

 設計段階で主な活動範囲の想定はされているはずだ。北極海と地中海では、バクテリアはおろか塩分濃度さえ違う。成分だけでなく、水質そのものさえ異なっている。
 北極海ほどの寒冷海域であれば、ガスタンクを直接噴霧するだけで海水を凍らせるだけに間に合わせられるはずだった。

 しかしより精製も運搬も保管も難しい液体窒素へ変更されたのも、海域と気温が関係する。歪みを抑制する程度であった装甲板そのものを叩き直すまでに気温差が激しくなるのも当然だ。

「だから俺らは、専門スタッフすよ専門」
「苦労、かけたな」
「本当すよ」そりゃもう……。

 脱力しきった愚痴を吐いて、ずるずると背中を引きずりながらしゃがみこんだ青年が、吸いきった煙草を缶に放り込んだ。

「俺は、来ないほうがよかったか?」

 ぽつりとこぼしたイサークの言葉に、青年は不意を突かれたのか、少しの間があった。
 イサークは、アルセナル社より亡命をした過去を持つ。〈ヴォジャノーイ〉と共に、味方の艦隊を裏切って……遥か南へ降りてきた人間だった。

 〈ヴォジャノーイ〉というテウルギアがそこで解体されなかったのは、テウルギアという兵器が普及した理由に繋がる。
 専用OS:レメゲトンが、電算装置含め、機体のあらゆる統制を可能にしたのだ。物理法則には抗えなくとも、それを補ってあまりあるほどに。
 そしてレメゲトンは電子的疑似人格という側面を持つ。性別の概念さえ定かではないが、彼ら彼女らに任せられたたった一人の人間こそが、テウルゴスと呼ばれるテウルギアの操縦士となる。他に代替の効かない、ただ一人の存在だ。
 イサークは〈ヴォジャノーイ〉と袂を分かつことはできなかった。

「俺たち整備スタッフはっすね。毎日毎日愚痴ばっかっすよ俺みたいに。今の俺なんて、たぶんコラ社のマシンの方がうまく整備できる自信ありっすよ。おかげで〈アルジュナ〉なんて触ったこともないまんま、一人前として内地行きっす。
 ……でもま、これはこれで楽しかったっすよ」

 二本目の煙草を、火を付けるでもなく唇の間でぴこぴこ揺らしながら、青年は、苦そうに笑った。
 イサークには、見なくてもわかった。

 整備スタッフたちの愚痴はそれこそ毎日のように聞かされている。当の本人たちから、今のように。あんなものを触らせやがって、と。鼻頭に汗をびっしり浮かべ、作業着も頬も重油まみれにしながら。それでも彼らは愚痴の終わりには、そうやって笑うのだ。

「イサークさんが来てくれて、よかったと思ってますよ。きっと俺だけですけど。
 なんだかんだ、オヤっさんとイサークさんに、たくさん面倒見てもらいましたし」

 口に咥えていた二本目の煙草に火を灯した。

「戻ると良いすね。ええと――」
「クレイオーン……」

 青年の思考を読み取ったわけではない。
 クレイオーンとは〈ヴォジャノーイ〉のレメゲトンの名だ。イサークの相棒でもある。
 電子疑似人格であるレメゲトンには、個体ごとの性格というものがある。テウルゴスとの会話を可能にし、一部のテウルゴスたちはアンドロイドのように、義体を使わせている者もいると聞いたことがあった。

 レメゲトンは、その性格で以てテウゴスたちの心理状況を推し量る。戦闘時に蓄積される数値換算できるものだけではない、テウルゴスのメンタルを読み取って、機体へのフィードバックとする。
 人間が自分の体を動かすように、痛みに耐えながら筋肉の伸縮を行い、定量化できないものを意思と称して肉体を操るように。
 そのために、感受性とも呼べるレメゲトンの疑似人格という機能は、不可欠となる。それこそがテウルゴスを他に用意できない理由もである。人が、他人を理解するために膨大な時間を要するように。

「俺は一度も、ご挨拶したことないんすけど」

 長らく〈ヴォジャノーイ〉は、致命的なハンデを抱えたまま稼動を続けてきた。
 特徴的が過ぎる武装や機体の内部構造についてではない。テウルギアという機動兵器において、致命的な欠陥にも繋がる状態(・・)だ。
 封印処理。
 レメゲトンの感受性たる性格を強制的に停止させ、純粋なOSとして、または集積データを元に最適値を割り出すAIとして、のみに稼動をさせる。
 その処置をすれば、テウルゴスとレメゲトンとの、性格が合わなかったという時さえ強引に動かせるだろう。

「もう、いいんじゃないすか」
「……」

 ぽつりとこぼした青年の声に、イサークの背中がわずかに強張った。
 イサークとクレイオーンは、喧嘩を起こしたわけではない。その時間的猶予さえなかったとすら言えるだろう。

 ――十年近く前にも遡る、過去のこと。亡命の時。
 まだテウルゴスになりたてだったイサークと、レメゲトンとしての活動を始めたばかりのクレイオーン。
 その時のイサークには何もわからないままに、そしてクレイオーンに襲いかかった、全くの未知。

 レメゲトンに性格があれば、そこには人格があり、精神がある――テウルギアに物理的な攻撃をした痕跡が何もないまま……クレイオーンは精神だけを、あっさりと壊されてしまった。人間さえそうそう遭遇することのない感受性の臨界へ、あっという間に。

「そりゃなにがあったのか、俺は知らないすけど……でも、とっくに、イサークさんが〈ヴォジャノーイ〉に乗っている間って、俺たちんとこにいる方が長いすよね。
 レメゲトンより、俺らの方が、長いすよ」

「そうだな」

 立ち上がった青年が、長いため息をついた。

「俺も、もう新米の坊主じゃないすよ。来月には子供だってできます。そんだけ長かったんすよ。
 ずっと待っているだけじゃないすか。それでいいんすか。もっと……」
「俺には、他に何もないからな」
「……そっすか」

 青年の腰の横で、いつの間にか固く握られていた拳が、震えながら開かれる。
 振り向きざまに、イサークはそれを見つめていた。

「ありがとうな。本当に長かった。俺も来たばっかりの時は、言葉も通じなかったんだ。だいぶ、君には世話になったよ」
「俺も、世話になりました。また、そんじゃ」
「ああ、また」

 青年が煙草を缶に投げ入れ、足早に去っていく。
 ひとしきり見送って……再びイサークは、目の前を向き直した。
 沈黙する歪な巨人――〈ヴォジャノーイ〉の奥に閉じこめられたままのクレイオーンを。

「待ち続けるさ。いつまでも」
最終更新:2021年11月15日 19:55