ボレロ:2
更衣室を出たのは、僕が最後だった。他の人たちも僕と同じように、練習に区切りをつけて帰ってしまった後。
練習につぐ練習の日々だ。どれだけ重ねても、自分の思い描いたような動きに、体がついていかない。それは技の精度なのか、技と技を繋ぐ構えのなのか……それの見分けがつかないぐらいに、どこからどこまでも駄目なまんまだと思いながら、それでもと少し残っていた。
でも、変わらないものが、ある瞬間突然に変わるわけじゃない。
演技のどれもこれもが、そうだ。できた瞬間があって、その時に自分はどんな体の感触だったのかを忘れてしまったら、また一からやり直しになる。演技や表現なんてレベルには到底たどり着けない。どこまでもどこまでも、できているかもしれないという疑心暗鬼さの繰り返し。
氷の上を歩くような不安定さ。転んだり、ひびが入ったり……たまに、上手に滑れたような軽やかな感触を覚えたり。
その感触をまた同じように繰り返せるほど、僕は僕の体を器用に動かせていない。
練習着もシューズも詰めこんだバッグは、来る時よりも重くなったような気がする。度重なるジャンプやステップの練習で、踵からふくらはぎまでしびれが溜まった足で、へとへとになった体を引きずるように……滑り方と歩き方がまぜこぜになってよろめた足を持ち上げる。
鍵を取りに行こうとした時だった。スケートブレードが、氷を切る音。
乾いた氷を狂いのない一定の速度で――大きな弧を描いて、なだらかに外周をなぞる――次の足から、動き方が変わった。氷を蹴り上げる。滑りの邪魔にならない一瞬で、斜めに後ろ足を差し入れて、重心低く構えた体を押し出す。加速のリズム。
来る、と思った時には、着地点の氷をかきちらしていた。重さをまるで感じない音。完成された綺麗な着地。
頭の中で、僕のそれよりも明らかに綺麗な動きだとわかっているのに……僕は吸い寄せられていた。
最低限に落とされているライトの下でも、そのリンクは輝いて見えた。そういう演出かのように。
いるはずのない観客たちが視線を注ぐ――今僕がそうしているように。他に誰もいないはずの場内で、大勢が息を飲む瞬間さえ錯覚した。
次に聞こえたのはステップの音だ。交互に足を、表裏を入れ替え……でも体が進む向きと速さに、見るからな減速が見つけられない。あまりに一定のリズム……だんだんと広げられた腕の、指先に見える脱力さ、バランスを保っているために上げているはずの腕が、翼の羽ばたきに見えた。
飛んだ。いつの間にか体を抱きしめている腕。絡めた足。綺麗な一本の線になって、着地を同時に、その全部が大きく開いた。着地の衝撃を受けるために、大きく膝と腰を落としたはずだった。それよりも目についたのは、パッと大きく開かれた姿勢の、華やかさだ。
聞こえるはずのない拍手が聞こえた。まだ大きくないけど、驚きと期待の籠もった歓声も。
そうなってようやく踊っているのが誰かに気づいた。
彼だ。アカデミーで最も好成績を収めている男。いつも僕の上にいる男。技術では僕とほとんど変わりないと言われているのに、それでも僕よりも美しく踊る、彼だ。
間断なく刻まれたステップの後に、滑ってきた円の軌跡がぐっと黄金比を描くように小さくなった。スピンの体制。
鳴るはずのないシンバルが轟いて、僕の背中を叩いた。
終盤。演目が……曲が終わろうとしている。
ボレロ。同じフレーズを繰り返し、その度に楽器を追加して、その度に強く音を響かせる。
最後に彼が、大きく体を突き上げた。回転も滑りも止まって、しんと静まり返った。
「すごい……!」
なんで拍手と歓声が聞こえないんだろうと顔を上げて……誰もいない客席と一部の消えているライトを見つけてようやく、この時間が、今までの演技の全部が、彼の、ただの練習だったと思い出す。
圧倒的な表現力を見せつけられたと――たまたま居合わせただけなのに、まざまざと思い知らされたと――そう思うことさえなかった。純粋にすごい演技だったと。妬みなんてなく、憧れだけで見つめていた。さながらプロのそれを見に来たかのように、どこか僕は、満足げさえ覚えていた。
何の気なく……これから飲み物でも飲もうかというような気楽さで、彼はリンクから戻ろうとして、僕を見つけた。
何かを言葉にしなければと、何度か喉につっかえる。
「っ……まだ、残っていたんだ」
「もう終わるよ。そろそろ上限だから」
彼はベンチに座り込んで、シューズの紐に指をかけた。
体に必要以上の負荷をかけてはいけないと、僕たちは練習量に上限が課されている。氷の上で滑ることは、普通に走るよりも速いし、そう簡単には止まれない。そんな状態で飛んだり転んだり回ったりを繰り返すのが、練習だ。下手に長時間続けても、上手くなる前に体を痛めてしまう。そうならないための上限時間だった。
僕たちは等しく、上限時間内で練習をしている。年齢や経験だって、僕と彼はそんなに変わらない。実際、技術面では同じだと聞いている。アカデミーの中では、僕だって技術点は高い方だ。それでも自分の技術がちゃんとしているものかさえ怪しいのに。
彼は違っていた。何かがあった。演技の瞬間、彼と氷と場内の空気が、僕の知っているものとは違う何かに、変わっていた。
何かが違っていた。隅々まで見ていたのに見つけられない、何か……。
僕と同じように、紐を解くのに手こずっている彼に、ようやく僕は、ちゃんと自分の作った言葉を渡すことができた。
「何を、表現しようとしていたの? すごい演技だった」
「ありがとう」片方を脱いだ彼が顔を上げた。見下ろしている僕をまじまじと、好奇心の塊みたいな笑顔で「何があったと思う?」
意地悪のような質問だった。でも意地悪みたいな意図がある質問に見えなかった。
「わから……ない。でもなんか、すごかった」
「そっか」
もう一度彼は屈んで、もう片方に着手する。そんな頭頂部を、いくらでも語りかけられる時間があるのに、聞きたい気持ちも山程あるのに、そのどれも腹の底から掴みだすことができないまま、不器用に取りこぼしてしまう。
ごとん、と音を立てるシューズが、腹の中の、そんな音と重なった。
「僕もわからないんだ」
「……え?」
ふと、ぽつりと溢れた声を、拾い損ねるところだった。
また彼が顔を上げる。一足のシューズを紐で結んで、手首からぶら下げている。
「僕の演技が、何を演技しているのか」
「なにそれ」
「本当だよ」
「わからないのに?」あんなに素晴らしい演技ができたのかと、僕は右上を見た。左上。左。最後に彼へ「何が、君をそうしているの?」
演技しているものが何なのかわからないままやっているのに、僕は圧倒されていた。感動もしていた。
ならせめて、演技じゃなくても、その奥に……今しがた、僕が掴み損ねた気持ちのガラクタたちみたいな、積み重なっているものがあるんじゃないかと思った。
何でも良かった。僕が言葉にできなかったこれを、彼なら少しでも掴めているかもしれないと。そういう憧れと、期待があった。
「どうだろう……」今度は、彼が目を回す番だった。左上、右上、右下、一つ一つを確かめるように、小首を傾げて、そして僕を向く「こうしかないから、なのかな」
何を返答したのか、僕でもわかっていなかった。もしかしたら相槌さえしていなかったかもしれない。
彼はきっと、嘘をついているわけじゃない。でも彼の表現しようとしているものは、彼でもわかっていない。その根っこも、きっと彼は……。
「僕には、これしかないからさ」
次の瞬間、彼はとても無邪気に笑っていた「カッコつけちゃったね」と。
最終更新:2021年11月15日 19:55