小説 > 在田 > 久遠な(か)れコキュートス > 05

回想:2


 丁寧に焼き色がついた肉から香ばしい匂いが湯気の色を伴って立ち上っている。
 向き合う一人の男が、手慣れた様子でフォークを滑らせた。不器用に皿とぶつかって音を立てることもない。それほどに柔らかく仕立てられた肉なのか、それとも男の所作が整っているからなのか。
 どちらもだろうと思った時には、肉は男の口へ運び込まれていた。

「やはり肉は美味い。焼いてこそだ」

 満足気に頬を緩める男の無邪気さは、一種の可愛げさえ覚える。ピンと伸ばしたままの背筋も、仕立ての良い服装にも、育ちの良さが伺えた。

「イサーク殿。貴方の故郷では煮料理が多い印象だ。焼き物ばかりのこちらと舌が合わないことはあるだろうか」
「いや。肉の串焼きだってありましたさ。それに、こっちに来てから、俺も長いですから」

 男同士の会話は、些か以上に歪だった。飾らない敬意を自然に出す若い男と、不慣れにへりくだる中年の男。二人の間に多少の親近感だけがあっても、壁のように大きな軋轢を印象させる。
 歪な男同士がいる場所もそう、似つかわしくはない。ただのレストランとは呼び難い場所だった。

 二人で座るには長いテーブルも分厚く、シワも折り目も見えないクロスが敷かれている。
 青と白が、眩しいばかりの陽射しに美しく映える街だ。上から見れば、天井と窓枠に施された青を強く印象する。それを支える外壁は一様の純白。そして石畳で舗装された細い道。
 ふと横を向けばそれらチュニジアンブルーの街並みを見下ろしながら、遠目には、地中海の鮮やかで濃い青を見つけられる。
 乾いた風が後ろから通りかかり、日差し避けを揺らした。

 陽射しが顔にあたったせいか、それとも笑ったのか、男が目を細めた。陰がささる。

「そうだったな。もう五年は……経っているな」
「もう少しで十年はします」

 ようやく、イサークも肉を口にする。固くなりすぎないように焼かれていると思った。スパイスが相変わらず多すぎるとも。
 咀嚼するイサークにはどんな表情が浮かんでいるか、男――プラディープが横のグラスを舐める。氷と果物がたくさん入っている。最初に見た時は、その味を疑うことこそなかったが、異物感を覚えていたのを思い出す。

「イサーク殿、先日の演習でも、大変勉強になることが多かった。未だに近接戦での動き方に迷いがあった」
「充分以上ですよ。実戦なら、俺は近づくことさえできないでしょう」

 プラディープ……『地中海の射手』と呼び名がつけられた。アンバスヤーンにおいて、唯一無二のテウルゴスだ。類稀なる戦況把握と、射撃の腕。単に後衛から弾を浴びせるだけではない。必要な時に、的確に、叩き込まれる一発。それを瞬時に割り出し、間断なく挟み込める決断力。狙撃という戦い方を、正しく要撃と遊撃に発展させている。

「いや、実際に前線を張る者たちがいるからこそ、私は安心して撃てるのだ」

 戦場と呼ばれる環境において、同じ衝撃と速度の一発でも、敵方に与える威力というのは大きく変わる。敵にとっては恐ろしく、味方にとっては心強いことこの上ない。

「俺は、ずっとお世話になりっぱなしで……きっと、足を引っ張ってしまいます」

 いざそのような状況に放り込まれたら、特筆するべき武装に射程のあるものがないイサークは、突撃手として先陣を切るしかないだろう。しかし手薄な装甲では、そう長くは戦い続けられないことも、想像に難くない。

「過度な謙遜だ。世話になっているのはこちらの方だ、イサーク殿」

 そこで、プラディープの声音が低くなった。一度グラスを大きく煽って喉仏を上下させたあと、ぐっと身を乗り出す。

「長いこと我々に協力し、尽力してくれている。むしろ今の待遇と評価では不当だとさえ、私は思っている」
「……俺を、どうしたいとお思いです?」
「貴方とは、私は肩を並べて海を見たいと思っている」

 まるで女を口説くような台詞だが、それにしては甘さを微塵も感じない。
 少しだけ皮肉に、イサークは肩をすくめて、横から見える街並みの青と、その向こうの青を一瞥する。気持ちよすぎるほど彩度の高い青い空と、眩しすぎるほど濃度の高い青い海を――ちょうど今、そうしているじゃないかと。

「……」

 プラディープが眉をひそめて、握った両手をテーブルに置いた。向きを揃えて指を交差するのではなく、ちょうど直角に重ねている。テーブルに肘をついてはいけないと教えられた人間が自然に覚える所作だ。手の向きを揃えれば、自然と前のめりになりやすいからと。イサークの身につけていない癖だ。
 プラディープが何を思っているのか、具体的ではなくとも、大凡の察しはついていた。むしろその部分を話すつもりで、イサークを呼んだのだろう。

 冷めないうちにと肉を口に入れた。プラディープと同じ色のグラスを煽って、スパイスの味をジュースで嚥下する。

「俺は、もらいすぎていますよ。不当かもしれませんね」

 そう自分のことを思っているのは、偽りではなかった。敵企業を裏切っての亡命。それにしては手厚い待遇をもらっていると。そこに不自由さを感じたことなど一度もなかったと言っていいだろう。

「何か、君に返せるものはないのか?」
「俺なんかに、そんなに気を使わなくても……」
「出自もあるだろう。そこを君が気負っていることも」

 プラディープの目が、イサークを見据える。

「気を汚すだろうが、貴方がここを居場所と思ってくれているのか、不安なのだ」
「……とは?」
「私にとって、たとえ戦場に出ても、帰る場所とはこのアンバスヤーンなのだ。戦士としての忠信ではなく、一人の人間としても。今生で、終ぞ変わることはないだろう」

 イサークの中で、合点がいった。それと同時に、むしろ生まれ故郷の街並みの中心にいながら、居心地悪そうにしている彼の誠実さに、驚いた。故郷に誇りを持ち、守っていると、背負っているのだと傲慢でもなく思っているからこその責任感から、その気持ちは来ているのだと。

「俺には、大事にしなきゃいけない家族もいない。どこにでもあった普通の人間だったんです。何てことも、何も、ない。どうしようもないような」

 そこで、イサークも海を向いた。生まれ育った場所では見ることのなかっただろう、彩りに満ちた青と白を、その瞳に映す。

「……レメゲトンとは、なんか試験で会ったんですっけ?」
「そう。社内の登用試験を受け、ドラウパディーと出会った。イサーク殿は……」
「本当に、気づいたらって感じでしたよ。本当に突然。
 で、言われたんですよ。海を見たいって、世界中のありとあらゆる海をって」

 そう話しながら口元が緩んでいるのを、プラディープも気づいて、思うことがあったのだろう。だからこそ、口を挟むことはしなかった。

「俺たちテウルゴスって、テウルギアに、レメゲトンにとって一人だけの存在だって、聞いたんですよ」
「私も同感だ。かけがえのない――」
「だから、大事にしたいと思ったんですよ」

 ようやくイサークは向き直った。
 先程プラディープが吐いたように、女性を口説くような台詞を、全く甘くない言葉として。

「他に何もなかった人生だから、この、かけがえのない運命的な出会いってものを」
最終更新:2021年11月15日 19:58