永久凍土:2
夜の海に突然、古めかしい街が生えたような景色だ。浜も岸もなく、唐突に海から突き出た建物たちが軒を連ねている。月明かりに辛うじて見えるだけでも、その光景の異質さはよく見聞きしたものだ。
ロスティバルと呼ばれる半島の東側。その根本で、アドリア海の女王はまだ鎮座している。
かつてに栄華を誇ったヴェネツィア共和国も、イタリアという国もなくなって……それでも辛うじて、街の形だけは保っていた。
今が明るければ、水底にかつての歩行路を見つけられたはずだ。数百年に渡る温暖化が全てを飲み込んだ。
当時ならば、漆喰と石灰岩で塗り固めた土台が海の浸食を受けなかった。さらには高潮を防ぐための防波堤を築くモーゼプロジェクトが完了していた。
莫大な経済効果を生み出す場所であると同時に、幾多もの住人と観光客を抱える土地の平穏は保たれていたはずだった。
しかし進みすぎた時間と、現代のモズマ統治体という自治体の立地が、悪い展開を招いた。
防波堤を突き崩すだけで何十万、多ければ百万に届こうかという人数の難民を作れるのだ。どれほど人と金と食べ物があっても足りない戦争という状況で、それだけの難民を作って貴重な資源を避けるのだから、敵からすれば随分と手軽な戦果だろう。
なくなって久しかったはずの異常潮位が、かつてより見違えるほどの脅威となって襲いかかり……以来、元より進んでいた老朽化に浸食が合わさり、人が住める場所などなくなってしまった。
千年以上もの歴史を持っていた都市があっさりと海に沈んでから、まだ十年と経っていない。
夜の地中海を渡っていたら、来るべき時代を間違えてしまったかのような錯覚にさえ陥る。
何度来たとしてもこの違和感に慣れることはないと、イサークは嘆息した。
「……」
小型のコンテナに入っている。
それだけが、イサークが聞かされている目標物に関する情報だ。
テウルギアという巨大な体を使うには、些か不似合いな作戦に思える。
しかしその場所が水没都市ヴェネツィアとなれば、条件は〈ヴォジャノーイ〉のみに絞られてしまう。
生身の人間では小型とはコンテナを水中で運ぶには困難。どこが元からあった水路なのか沈んだ歩行路なのか判別できない以上、船舶さえまともに出せない。そしていつ倒壊するとも知れない朽ちた建物の数々。
それらを薙ぎ払って進める力を持ち、水面を……しかも水深に関係なく進める機構を持っている存在。騒音を撒き散らしながら進む空気浮揚艇か、このテウルギア以外にない。
イサークに回されてくる仕事といえば、そういった、状況や条件が複雑に入り組んでいるものばかり。むしろテウルギアという機動兵器らしい大きな戦闘に参加する方が稀だ。
レメゲトンが封印措置により機能のほとんどを失い……要である機能が失われたためだ。
氷結装甲。汲み上げた海水を噴霧して凍らせ、機体を覆う装甲として使う。何度砲撃に砕かれようと、海水が足元にあり続ける限り再生する、夢のような装甲。
……それを実現するには、噴霧した水分を機体に纏わせるための演算が必要不可欠だ。下手に海水をばら撒いて凍らせたところで、真っ白な空気と雪のような欠片を作るだけで始終してしまい、装甲と呼べるほどに高密度な氷の壁を造成することなど不可能だろう。もしくは不格好な氷塊になって流氷のように漂うしかできなくなるかだ。
風向きに風速、機体内外の温度、機体のどこから噴霧量を調整するか……人間ならば何人もの観測手が必要になる作業を、レメゲトンであるクレイオーンが一手に引き受けていた。
その装甲が封印措置によって失われた今となっては……氷結装甲に依存するために、通常あるはずの鋼鉄の装甲を極限まで削ぎ落とし、中には剥き出しとなっている駆動部さえあったこの機体を、どうにか薄い鉄板で補うしかない。
始めから強固な装甲を持たせてしまえば、機動の要となる空中浮遊さえ叶わなくなるからだ。
「さあ、行こうか」
他の艦船たちと肩を並べる機会は少なくとも、自分だけが果たせる仕事が用意されている。今のイサークにとって、それだけで充分な信頼の証であった。
コラ・ヴォイエンニー・アルセナル社という故郷を裏切り亡命してきた身でありながら、戦力として加えてもらえるだけでもありがたいのだ。使い古されているとはいえ専用の格納庫まで用意されて、仲間と慕ってくれる人たちもいる。それ以上の境遇など望めるものではないと、イサークは、受け入れていた。
……まず向かうべきは、コンテナのような大型の物体が置かれそうな場所。
ヴェネツィアは本来、車での通行ができないほどに道が狭い。コンテナを置ける場所というだけでも、場所が限られるものだ。
見当はいくつかある。本当より連なる橋のすぐ近くに大きな駐車場があった。もしくは広場もいくつか、形だけは残されているだろう。そのどれもが、海面の下に落ちているだろうが。
まずは最も遠い場所――地中海を渡ってきた〈ヴォジャノーイ〉にとって、それは北端である駐車場となる。
大きな魚のような形状をしたヴェネツィアを大きく迂回する必要はない。その中央には、大運河と呼ばれる巨大水路があるためだ。
そこを通り、北から南へ目標地点を漁り、確保して脱出、再び地中海を南下する。
南に着いたのに北から捜索するのは、この土地を把握するためでもある。
……道中に、仲間であった一人の男から聞かされた言葉。
“氷結装甲を使うテウルギア”
どんなものであれ運搬する任務において、戦闘が勃発するという事態は、極力避けなければならない。それが目標物を持っている時ならば尚更、不利を被る。
マッピングをしながら敵を見つけられれば僥倖。如何に敵から見つからないルートを辿るかを構築しやすくなり、如何にバレないまま抜け出せるかを考えられる。どこからどの形態で来るかわからない敵の視線に怯えながら進むよりも、随分と気が楽になる。
……しかしレーダーに写りこんだ、IFF未応答を示す赤い影に、目を剥いた。
「まさか……っ!」
一目散にこちらへ向かって直進する印に目を捉われる前に、機体を走らせる。
並大抵のテウルギアが不得意とする水上――今まで辿ってきた海路を逆行し、少しでも〈ヴォジャノーイ〉が有利になれる場所へと。
横目に見ていた印の動きに、疑問符が過ぎった。
――直線で、こちらに向かっていない?
老朽化と地盤海没で、いつ崩れるともわからない建造物の上を歩くことなど通常のテウルギアでは考えないだろう。その上を、スラスターの噴射で飛び越えてしまえばいい。
それならば、その軌道は一直線もしくは緩やかなカーブを描くはず……イサークが目にしているような、まるで建物の隙間を縫うようなジグザクの軌道を辿る必要など、ないはずだ。
その間にも、ヴェネツィア島群から距離を離し続ける〈ヴォジャノーイ〉のカメラアイが、その姿を捉え、画面に映し出した。
真っ暗な夜闇を、真っ二つに切り裂いて立ち上る水柱。その中から躍り出た、見たこともないテウルギアの姿に。
イサークは戦慄する。悪寒が背筋を駆け上り、そこから肌毛が逆立つ。
そのシルエットは、カヌー選手を思わせた。上半身こそ人間と共通する。テウルギアでもよく見るものだ。しかし下半身はそうではない。大きなボートをそのまま括りつけたように、前後へ長く伸びている。
水上での航行に特化しているのだと、頭を回すまでもなく理解した。
さながら居場所を誇示させるように月光を乱反射させた機体が、アンバランスに巨大な腕を広げる。
『見つけたぞ、イサああああぁぁぁぁーーーク!!』
スピーカー越しに、誰一人としていなくなった廃墟群へ、歓喜にさえ思える怒号がこだました。
最終更新:2021年11月15日 20:04