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ボレロ:3


 こうしかない。これしかない――そう、彼は言った。
 とても信じられないと思って、ひっそりと震えていた。そして今も。

 また鏡張りの壁を震わせるような声で、コーチが一人の名前を告げたところだった。
 それを聞いた僕の顔もきっと、今の皆と同じように、荒くなった呼吸で肩を揺らしていて、ほっぺたも赤くなっているんだろう。それが緊張なのか疲れなのかわからなくなるぐらいに、体の芯はまだ熱いままだった。

 たった一人の選考を合格できたのは、彼だった。
 考えるまでもなく当然の結果だと言われれば、その通りだったと思う。
 たぶん他の皆も、同じことを思ったんだろう。部屋の空気がどこか、ふっと緩んで、暖かくなった。
 いつかの帰り際に見た彼の練習だけでも、他の人たちとは群を抜いていた。

 そして試験の演技も――すごかった。
 何がどうすごかったのかといえば……それは、僕にはわからなかった。ジャンプもスピンもステップも、僕のできるもの。課題項目も同じように押さえている。
 でも何かが違った。やはり僕には掴もうとしても掴みきれない大きな何かが、彼の奥から溢れんばかりに輝いている。そう見えたんだ。

 しんと静まり返っている氷上も同じで、上から垂れ流される音楽も同じものだったというのに、他の誰でもない、彼だけが、リンクの隅々まで存在感を行き渡らせていた。だから演技の一つ一つが、見る人たちの目を集めて夢中にさせる。
 だからその結果は納得できた。試験の間、他の人から始まって他の人で終わるまで、スケートリンクは彼のための舞台だった。

 何が彼を、そこまでにさせるのか。どうやったらあんな演技ができるのか。息を呑んで誰もが凝視するような、そんなステージにできるのか。
 こうしかないから、ああなった。これしかないから、あれができた。
 才能って言葉で片付けるには、何かが違った。でもその違いを、僕は見つけられない。

 解散の号令で、皆が踵を返して部屋を出ていく。僕を不思議そうに一瞥して通り過ぎていく顔もあった。
 でも、僕は立ち止まっていた。前を向いても横を向いても、僕の顔と後頭部とを一緒に見る。
 まだ大人じゃないといっても、あまりにも情けないほど弱々しい顔をしているなと、思った。

「どうした。結果に不満が?」

 普段より少しばかり軽くなっても、上から押し潰されそうなほどに重い声は、変わっていない。
 コーチの目はどこか別のところを見ていた。僕の目じゃなくて鏡にある僕の後頭部なのか、それともコーチ自身なのか、それともまた別の誰かを見ているようだった。

「僕は、どうしていれば合格できましたか?」

 コーチが眉を上げて、顎に手を当て、顔を持ち上げるように首を傾げる。そうして片目だけで、僕をじっと見つめる。まるで猛禽が獲物を見つけるような、鋭い目だった。

「彼の演技を、君はどう思った?」
「すごいって、思いました」
「何が?」
「それは……」

 声が小さくなってもごもごして、指が勝手に、手汗をもんだ。答えを摘んでこねくりだそうとして……でも出てこない。
 コーチの言葉が、数秒と経っていないのに差しこまれる。

「それが、表現力だ。目覚ましいほどだ。プロにも劣らない。あれならば、ジュニアでの活躍も期待できる」
「表現、力……」
「舞台を一緒に見た君なら、わかるだろう。彼なら、観客の期待に応えられる演技をする」

 これで終わりとばかりに足を動かし始めたコーチの目は、もう僕を向いていない。やっぱり別の方向……鏡の向こうを、見ている。

「表現力って、なんですか。どんな技術ですか」

 今度は僕が差しこむ番だと思った。コーチが、僕を通り過ぎた出口の前で立ち止まった。
 でも振り向いてくれるわけではなかった。

「実のところ、技術点ならば君がこのアカデミーで最も優秀だ。他の皆より一番練習に励んでいるのを、私は知っている。だから君は、今後どんな問題もしっかり乗り越えてくれるだろう」
「じゃあ、僕は……」
「しかし彼の表現力はそれ以上だった。アカデミーで一番の技術を持つ君を、すごいと思わせたのだ」
「でも」
「そう思わせるもの。観客を圧倒し、魅了するもの。技術の裏打ちを超える感動……。
 言葉でどれだけ言っても意味がないような、何か。それが表現力だ」

 まるで空を掴むような言葉だった。意味不明だと思えるような、上っ面だけの――言葉ではないことは、彼の演技を見た僕には、わかった。
 何か、だ。目には見えないけど目に見て伝わる何かが、あそこと彼にはあった。間違いなく。

「……君と彼とで、最後まで悩んだのは本当だ。君は本当に頑張った」

 それで本当に最後だとばかりに、コーチはドアノブを押して、部屋から出ていく。
 今度こそ鏡と見つめ合う。真っ直ぐ向き合った状態で整列する僕だけの列。
 その先頭で僕を睨み返してくる顔が、今にも泣きじゃくりそうになっている。それもすぐに、目に溜まったものでぼやけた。

 ぼやけた視界の向こうで、僕だけの列から、誰かが顔を覗きこんでくる気がした。
 彼だ――他にも仲のいいクラスメイトたちはたくさんいるのに、なぜか彼だという確信があった。
 袖で目を拭った時には、鏡の向こうには、僕以外には誰もいない。

「……」

 もう鏡も見たくなくなった。木張りの床を精一杯に睨みつけて、ぼたぼた落ちていく水滴を踏み潰した。
 誰も彼も、彼ばかり見つめる。僕さえ彼に目を奪われた。今も。

「彼さえ……」

 表現力なんて、これっぽっちもわからない。僕の方が上手に滑っているんだと知ったところで、何も変わらない。これからどれだけ上手くなっても、彼はもうとっくに、もっと高い地平で踊っているんだと思い知らされただけだった。何をやっても、そこには届かないんだとわかって、悔しかった。もうひっくり返ることのない立ち位置で、どれだけ足掻いたところで、無意味だと。
 ――どうしていれば、何があれば、他にどんなことがあれば、こうはならなかったのか。

 しゃくりあげた息が、不細工な声になった。

「あいつさえ……!」
最終更新:2022年05月13日 03:08