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永久凍土:3


『お前さえ、いなければぁぁあああっ!!』

 禍々しいまでに怨嗟の籠められた声が轟いた。口から火を吹くような――という程度ではない、一種の爆発かと思えるほどの衝撃波となって、廃れてしまい腐れていく街を駆け巡り、張り巡らされた海面の隅々を叩きつける。

 当然、相対するテウルギア〈ヴォジャノーイ〉に乗り込むイサークの体も例外ではない。
 〈ヴォジャノーイ〉の両手に括りつけられた機銃はとっくに喧しく銃声を響かせていた。それさえかき消せるほどの勢いが、海面もろとも、どす黒く焦がされた寒さを伴って、イサークの体を打ちつけるかのようだった。

 その衝撃波の源――テウルギア〈ドレカヴァク〉に乗るメレンチー・ヤグディンの正体も、彼を駆る執念の炎も、知らないというのに。

 火花のように飛散する銃弾が〈ドレカヴァク〉へ叩きつけられる。金属の衝突による甲高い音は、鳴らなかった。機体の胴ほどにもなる長大な両腕――それを包む氷の塊が、弾道が装甲板へ至るのを阻む。
 もはや腕よりも、巨大な氷の柱と表現する方が相応しいそれの機構は、イサークにも見覚えがある。

「あいつが……」

 氷結装甲。海水を氷に変えて自身に纏わせる。海がある限り無限に消えることのない、夢物語のような装甲。敵の機体がそれを使っていると、確かに聞かされていた。
 ヴェネツィアを大きく分断する大運河(カナル・グランデ)を、二機のテウルギアは駆け抜けていた。〈ヴォジャノーイ〉は大きな円盤にも似た下半身の浮揚機構で海面を滑るように。そして〈ドレカヴァク〉は、多種多様(・・・・)に。

『イサああああぁぁぁぁーーーク!!』

 今〈ドレカヴァク〉は、運河に面する建造物の壁を横から蹴り上げた。それまでの速力を受けきれず瓦礫へ姿を変える建物を照らすスラスターの噴射炎も、そこにあった。単なる三角跳びという軌道だが、他のテウルギアでは類を見ないほどの速度へ至っている。人間のそれではなく、四足動物の後ろ足や鳥のそれのように、後ろへ膝が曲がるのだ。
 二足での歩行より跳躍にのみ適した関節の形状が為せる技だ。

「な……っ!」

 跳躍の勢いとスタスターによる推進力を乗せて、真っ直ぐに落下(・・)してくる〈ドレカヴァク〉に、イサークは驚愕する。
 そのまま〈ヴォジャノーイ〉へ衝突しても、海面に機体が叩きつけられる可能性を考えていない、捨て身に等しい挙動だ。

 意識が画面の向こうに肉薄する〈ドレカヴァク〉へ注がれていても、ほぼ無意識化での回避行動へ、腕は動いていた。スラスターの出力を上げ、真横へ飛び込むような動き。
 急速な慣性の作用がコクピット内の肉体を激しく揺らし、食いしばった歯茎から血が滲んだ。全身を締め付けるベルトが、意識を現実に縫い留める。

 もう少し遅れていれば、イサークは〈ヴォジャノーイ〉と共に轢き潰されていただろう――氷の柱と化した巨大な腕が、白い冷気を伴って力任せに振るわれた。
 片方の機銃が、あっさりとひしゃげて吹き飛び、バラバラの破片が海面に散る。それを掴んでいた手首部分ももぎ取られてしまったと知る前に、イサークの目は通り過ぎた敵の機体を追いかけ、残された機銃の照準を走らせる。

 海面に叩きつけられたはずの〈ドレカヴァク〉はしかし、軽快に海面を滑った(・・・・・・)
 二本の鳥足が折り畳まれて、アンバランスに長く伸びた装甲板だと思っていた二枚の鋼鉄が変質する――悠然と波を立てて、海面を滑走するボートの形に。

 氷の柱が水面に突き立てられると同時、〈ドレカヴァク〉の腕から白い冷気が噴出した。
 ミシン目のように波を走り飛沫を立てていた銃弾の軌跡が、途端に、海面にヒビを立てる。
 海面にぶつかる勢いを波に変え、その波を凍らせて――即席の壁として機能させたのだ。

 氷の波が海中へ没するよりも早く。イサークは次の動きを始めていた。
 氷結装甲が使えない〈ヴォジャノーイ〉に、敵の攻撃を受ける可能性がある選択肢など許されない。ましてや今のような氷塊に叩きつけられてしまえば、海に浮かべるよう極めて軽量に作られた〈ヴォジャノーイ〉の貧弱な装甲では、一瞬さえ耐えられようもない。一刻も早く距離を取り、使える兵装がないかと記憶を巡らせる。

 ……だが〈ドレカヴァク〉――メレンチーの瞬発力は、イサークを凌駕していた。

 白い冷気により海面を壁に作り変えるのと同時に、間髪入れずスラスターを再度噴射していたのだ。落下したときとは逆方向――カヌーを漕ぐ人のシルエットに似たボート型へを変形させて、腕を海面に突き立てて急制動と転進を行い、冷気の噴射と氷壁の構築が、その姿を隠していた。
 あまりにも急激な方向転換と、極端すぎるスラスターの乱用……新品同然の機体が、すでに各部を損傷させている。自らの挙動で潰れてしまうかもわからない急制動にも関わらず、メレンチーは瞳に執念の炎を宿らせ、見るもの全てを凍りつくような寒気を纏う。

 機体を始めから使い潰すつもりか……あまつさえ、自分の身さえ厭わないほどの力を、滾らせて。

「イサぁぁぁああああーーーーーク!!』

「化け物か、こいつ……!」

 イサークは瞠目していた。自分を通り過ぎて海へ飛びこんでいったテウルギアが、次の瞬間にはまたこちらへ接近しているのだ。まだただのモーターボートやサーフボードなど、人の重心移動で制御できるものならば理解が追いつく。しかしその芸当を起こしているのは一つの建築物に等しい巨大さと質量を誇る巨大人形兵器であり、作用する力の大きさが違いすぎる。

 唯一の幸運は、まだ引き金を絞りっぱなしだった機銃の弾薬が切れていなかったことだろう。白い靄から飛び出てきた氷の柱――その先端である、鉤爪のような指が、いくつかの火花を散らして折れた。
 それでも突進してくる氷塊の勢いを殺せたわけではない。瞬く間に機銃ごと、残された前腕が潰された。腕の内外問わず張り巡らされたパイプやチューブが千切れてあらゆる液体をまく。肩関節までも勢いを殺しきれなかった損壊が走った、コクピット内に警告音がけたたましく鳴りわたる。

 機体同士の激しい接触――互いの装甲板による摩擦が、耳をつんざく悲鳴のような音を立てる。
 衝突の勢いを殺しきれなかった〈ヴォジャノーイ〉が、大運河の脇へ――レンガ造りの建物へ背中を押し付けられた。砂塵と共に瓦礫が互いの装甲板を跳ね転がった。

 再び振動するコクピット内で、イサークの目はしかし、敵の弱点を探すために動き回っていた。
 手首の潰された腕部にまだ兵装は残されていた。それこそぶつかり合うほどの近接戦闘でしか役に立つことのない、刃を持たない刃。
 噴水のように海水が吐き出された。噴出口が絞られ、その圧力を極限まで高め……数秒と経たない間に、それは鋼鉄さえ切り裂ける威力を持つ、ウォーターカッターとしての機能を発揮する。

 敵が突き出したままの、あまりにも大きすぎる腕を支える、肩へ目掛けて。
 真っ白な飛沫が飛び散った。〈ドレカヴァク〉が引き連れる冷気に当てられ、飛沫の一粒一粒が極小の氷へ変貌して、装甲板を走り回る。
 敵がそれに気づいて距離を開けようとする前に、〈ヴォジャノーイ〉のスラスター噴射が始まり、挙動を制限する。

 そして、噴出孔から、海水ではないもう一つが吐き出された。
 絶対零度のガス――それまで〈ドレカヴァク〉が海水を腕に纏わせ、海面を凍らせていたものと全く同じ――氷結武装の一つだ。
 ウォーターカッターで表面を切り裂きながらも内部に侵入した水分の全てを、ガスで一気に凍らせる。

 ……程なくして、真っ直ぐに突き出されたままの腕がバランスを損ない、だらりと落ちた――勢いを殺せる回路などとっくにショートしていたのだろう。そのまま肩関節ごともげた腕が、海中に没する。

『イサーク……貴様ぁっ!』

「あんたのことは、俺は知らないんだが……随分と、嫌ってくれているじゃないか」

 ようやく軽口を叩く隙間ができたと、冷や汗ながらに口の端を歪める。思えば懐かしい言語を口にしていた。十年ほど使っていなかったはずなのに、しかし流暢に出てくるものだと、イサークは自分に関心さえしていた。

「悪いけどな、俺なんか恨んだところで、何にもないぞ。何にもな」
最終更新:2022年05月13日 03:12