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永久凍土:4


 敵の機体〈ドレカヴァク〉の片腕は落とした。人間のシルエットにしては異様に――歪なほど細い胴部に匹敵するほど太く巨大な前腕だった。巨大な鉤爪を先端に有し、その前腕に氷結装甲をまとわせることで、脅威的な打撃と防御を可能にする――兵器としての要であろう腕を、だ。

 だが、それだけだった。
 むしろ状況は悪化の一途を辿っている。

 何度目になるかもわからない急制動の連続――慣性に身体が振り回され、胃の中身が口と喉を往復している。
 ヴェネツィアという街は、網の目よりも細かな水路が張り巡らされている。いくら海面上昇で地図が変わろうとも、その歴史と構造は変わりようがない。
 建物と建物の間に張り巡らされた水路――それこそ縫いつけるように〈ヴォジャノーイ〉は駆け抜けていた。

 敵の動きを冷静に観察したゆえの、選択だ。水路を滑走する際には下半身をボートのように変形させる。氷結装甲は前腕にのみ形成されることがほとんどで、元々の図太い形状も相まってかなりの幅を取る。
 それは、細かな軌道を辿らざるを得ない建物の間で、まともな身動きを取れないことを意味している。
 どれほど破壊的な力を持っていようと、〈ヴォジャノーイ〉の軌道を阻むことは至難だと。

 それでも〈ヴォジャノーイ〉に――イサークに要求される操縦技術は相当以上だ。敵に追いつかれない速度を維持しながら、ぐねぐねと建物同士の隙間を突き進む。直角に曲がることも多い。万一衝突でもすれば動きが止まり、真上に隙を晒すこととなる。
 だが、その寸前をイサークは見極め、緻密極まりない操縦を幾度となく繰り返している……十年近い経験がなければ、適わなかっただろう老練された動きだった。

 だが応えるべき機体は、いつ壊れてもおかしくない。十年――どれほど部品を交換しようと逆らえない時間の流れが、全体から鋼鉄の軋みという悲鳴になって現れている。各部位が吐く不調の数々を挙げていけば、それこそ数え切れない。
 それら全てを感覚で覚え、イサーク一人の無意識にまで刷り込まれた操縦が、弛まぬ前進を可能にしているのだ。

「安心しろ」――そう、自分に語りかける。

「逃げ切れれば、俺たち(・・)の勝ちだ」肩を揺らし、ヘルメットのバイザーを粗い呼吸で白く曇らせた。

「そうだろ?」――目覚めることのない相棒へ語りかける。

 作戦の目標は、敵と戦闘をすることではない。
 とあるものを持ち帰るだけだ。

 海へ沈んでいないとすれば、どこにあるかの目星はついている。
 ――島でさえなくなり、海面から突き出た建築物の集合体となったヴェネツィアの、内陸にあった唯一の敷地。

 サン・マルコ広場。
 そこへの到達こそが最優先だ。

「保ってくれよ……〈ヴォジャノーイ〉!」

 文字通りの金切音に耳朶を打たれながら、ひたすら壁に挟まれた水路を走り抜ける。再びこみ上げてきた酸っぱい液体を飲みこんだ。操縦桿を握りしめる手に、力が籠もる。
 ……どれほどの間そうしていたのか、それを気にするぐらいになった時だった。

「見えた!」

 今度こそ、曲がった先が壁ではない開けた空間が映った。
 一気に加速へ踏み切る。スラスターの噴出が海面を叩いて飛沫を散らし、夜闇に煌めいた。
 発生した推進力に押し出された、イサークの肉体が座席にぐっと抑え込まれる。両脇の壁があっという間に通り過ぎ、視界はついに、月の光が満ちる空間で満たされる。

 その瞬間だった。

 衝撃が機体を揺らし、ベルトで固定されているイサークの身体がシェイクされる。衝突音が耳に入り、開かれたままの眼にはひび割れる画面もコクピット内を揺らす火花が映ったにも関わらず、それらを知覚することさえできなかった。一瞬の脳震盪を起こしていたにも等しい。
 自分が痛みに悶ているのかさえわからなくなっている間……何が起こったのかを頭で理解するよりも早く。

 イサークに意識を取り戻させたのは、口と鼻から肺へと飛びこんだ水だった。
 盛大に水泡を吐き出し、腕を振るう。水面を叩いて、その下にある地面を見つけて、上体を持ち上げる。足を動かせないイサークには幸いだったのは、その深さが頭一つ分もないことだ。

 大きく蒸せて水を吐き、ぜえぜえと肩で呼吸する。
 明滅する視界と、途切れ途切れの意識の中で、自分がどうなっているのかを……コクピットから投げ出されたことを、自覚していく。

 画面が放つ光ではない明かりが、瞳をしんと突き刺す。
 バイザーの割れたヘルメットを引き剥がして投げ捨て……イサークが次に見つけたのは、かろうじて原型を保っていた〈相棒〉の姿だった。

「っ――レ、イ……オーン!」

 咳混じりの絶叫は、しかし届かない。声が音となるよりも前に、再びの衝撃音が轟いたのだ。
 呆気なく、溶けるように〈ヴォジャノーイ〉が形を失う。
 踏み潰されたのだと、焦げた金属の臭いがする風を浴びながら、理解する。

 片方だけではない――両腕を失った〈ドレカヴァク〉が、そこにはいた。
 脇を向いてみれば、先程の水路に、イサークが通り過ぎたはずの場所に、巨大な片腕がひしゃげた形で落ちているのを見つける。

 〈ヴォジャノーイ〉があれと激突したのだと、一目でわかるようなことを、今のイサークは理解できなかった。

「……クレイオーン」

 息を取り戻して熱が籠もっていたはずのイサークの表情から、温度が抜け落ちていく。
 戦いの最中だったはずの、全身へ張り巡らせていたはずの力も、すっかり虚脱してしまった。

 ――〈ドレカヴァク〉が再び動き出した。機体を失い、相棒を失い、動く術のないイサークのいる所へ。

『イサーク』

 それまでの絶叫とは程遠いほど静かな……それでも怨嗟の思いだけは明瞭に失っていないとわかる声が、イサークの頭を通り抜ける。
 今のイサークは、ただ動いているものを見上げるしかできなかった。近づく足に焦点を合わせて、生気のない顔で、おもちゃのようにその動きを首で追う。

 ちょうど首が、真上を向いた。月光に照らされていたイサークは完全に影へ覆われ……ただ真上に来た巨大な足裏を……振り下ろされ、だんだんと近づくそれを、呆然と見上げるのみだった――……。

『この時を、待っていた』
最終更新:2023年03月08日 00:15