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永久凍土:4


 敵の機体〈ドレカヴァク〉の片腕は落とした。人間のシルエットにしては異様に――歪なほど細い胴部に匹敵するほど太く巨大な前腕だった。巨大な鉤爪を先端に有し、その前腕に氷結装甲をまとわせることで、脅威的な打撃と防御を可能にする――兵器としての要であろう腕を、だ。

 だが、それだけだった。
 むしろ状況は悪化の一途を辿っている。

 間断なく叩き込まれる猛攻が、イサークに移動という選択肢さえ奪っていく。

「クソっ――!」

 急旋回。遠心力に振り回された機体が一際大きく軋んで、イサークの身体を容易く振り回す。

 さっきまでいたはずの水面が爆ぜ、水柱が聳え立つ。
 それを巻き起こしていたはずの〈ドレカヴァク〉の機体はすでに、眼前から消え失せている。

 また建物を蹴り上げて宙へ躍り出た〈ドレカヴァク〉を、テウルギア用の小銃(ハンドガン)の火線が虚しく追随した。
 手持ちの機銃がなくなった今、予備で装備していた小銃程度しか、まともな火器などない。

 〈ヴォジャノーイ〉が海上浮遊を実現するべく極限まで軽量化したために、犠牲となったのは装甲だけではない。片手に持たされた機銃。予備の拳銃。そして、両腕に初めから括りつけられたウォーターカッター。
 あまつさえその小銃ですら、小型故に弾薬量に乏しいものだ。先程の機銃のように弾をばら撒いていれば、あっという間に底をつく程度しか、残されていない。
 それも、当然だ。

 作戦の目標は、敵と戦闘をすることではない。
 とあるものを持ち帰るだけだ。

 海へ沈んでいないとすれば、どこにあるかの目星はついている。
 ――島でさえなくなり、海面から突き出た建築物の集合体となったヴェネツィアの、内陸にあった唯一の敷地。

 サン・マルコ広場。
 そこへの到達こそが最優先だ。

「保ってくれよ……〈ヴォジャノーイ〉!」

 また、小銃が赤く吼える。
 一直線に降り掛かってきた〈ドレカヴァク〉の機体で、火花が散った。
 再び、スラスターを噴射し、また機体は急旋回と後退を繰り返す。

 イサークは闇雲に逃げ惑ってるわけではない。
 必要最低限の回避行動を繰り返しながら、目的の到達に、少しずつだが進んでいる。
 あとどれほど、その動きを繰り返せばよいかなど考えるだけ無駄だ。
 上から横から、縦横無尽から迫り来る突進を掻い潜り続ける。機体の損耗を最小限に押さえ、弾薬を節約する。それがイサークが果たすべき消耗戦だ。

 〈ドレカヴァク〉のパイロットも、それほどの軌道を無限に続けられるはずがない。体力も集中力も――それ以上に、急軌道ばかり繰り返す機体に振り回される意識さえ、そう長く保つはずがない。

 すでに、水平線の向こうから日が顔を覗かせている。
 真夜中から、それほどの時間を繰り返してきたのだ。必ずどこかに隙は生まれる。

 瞬発力では勝ち目がないことは、動きの連続でわかりきっている。
 だがイサークの長年の経験が、〈ドレカヴァク〉の動きの特徴と、機体の特性を読み取っていた。

 下半身をカヌーのように変形させ海上を滑走できる。しかしそう長い間、海上に留まっていることもできないと。
 動きながらの変形機構だ。初めからそれのために作られた船のように頑丈ではない。ましてやテウルギアという巨体を支えられるほどの積載量を、細い船体で適えられるはずもない。

 例え敵機体の打倒ができずとも――勝機は、残されている。

「――っ!」

 イサークの確信はしかし、次の瞬間には泡沫と揺らぐ。

 回避行動が、間に合わなかった。
 すぐ目の前にまで肉薄した鉤爪が、装甲へめり込んだ。コクピットの内側、最も堅牢に作られた内殻を、肉にナイフを突き立てるような容易さで貫いた。ほんの眼前数センチの距離を通過していくのが見えた。

 あと少しでも顔を前に出していれば、今頃は首だけが海中へ転げ落ちていたことだろう。
 数時間ぶりに外気に晒されたコクピットの中へ、容赦なく陽光と海水が飛び込む。

 息を呑む間さえ、そこにはなかった。瞬く間に怖気で冷え切った背中と、強張った全身に意識の鞭を打つ。
 思わず自らの首元へ添えた手を操縦桿へ戻し、〈ドレカヴァク〉との位置を探る。横目にレーダーを見ようとして、それさえ失われたことを悟る。

 ――むき出しのコクピットから、目と耳を頼りにするしかない。
 幸いにも、目標の座標は覚えている。それまで、あとどれだけの距離が残されているかも。

 だが、圧倒的に――自らの見込みが甘かったことを痛感させられる。
 自分で思うよりも、イサークの肉体は疲弊し、消耗しきっていた。

「保たないのは、俺の方か……」

 回避が間に合うと踏んでいた動きを、それまでと同じように実行したつもりだった。しかし間に合わず、危うく命を刈り取られるところだったと。
 勝機があると思いこんでいた消耗戦に、負け始めているのだと。
 どっ、と疲れが押し寄せる。それまで数年間、信念だけで耐えしのいできた時間が、一気にイサークの肩へ伸し掛かってきたように。まるで一瞬のうちに、老いが進んでしまったかのように。

「……さて、」

 暁が、目の奥に痛々しく刺さる。再び加速した〈ドレカヴァク〉の、シルエットだけがぼんやりと見える。
 息を深く吸い込み、潮の臭いと酸素を全身に供給する。自分の意識と判断は間違っていないのだと再認識する。
 これまでと同じつもりの動きを繰り返したところで、結果は変わらないだろう。

 打開する手段が残されているとすれば、イサークの頭には、一つしか思い浮かばなかった。

「最後ぐらい、頼ってもいいか」

 海水に濡れたシートを叩いて、さする。
 イサークの顔に浮かんでいたのは、年齢以上に積み重ねた経験が浮かぶ、老い嗄れた、慈しみさえ覚える、どこか諦めたような、笑顔だった。

「――帰ってきてくれ(・・・・・・・)。クレイオーン」

『終わりだ、イサァァァアアアアク!!』

 振り上げられた鉤爪が、再びイサークの眼前へ迫る。
 当然、イサークは反応をした。すり減った精神で、眩い暁に全身を貫かんばかりに照らされながら……。
 それは今までの動きながら、攻撃を凌ぐことさえ困難であった動作だった。

 だがその瞬間だけは、違った。

『――は嫌。いや』

 白煙が、〈ヴォジャノーイ〉から噴出した。
 機体の各部から組み上げられた海水が撒き散らされ、装甲の表面に纏われ、刹那の間に白い氷となる。空気中のほとんどの熱を奪い、真っ白な氷が層を成し、〈ヴォジャノーイ〉の全体を覆う。
 吐いた息が白く、飛び込んできた冷気で肺さえ凍りつきそうになって、噎せてしまう。

『死ぬのは嫌。イヤ。死ぬのは――』

 だがイサークが顔を上げた時には、事は済んでいた。
 氷結装甲――〈ヴォジャノーイ〉が掲げた片腕に顕現したそれが……〈ドレカヴァク〉の腕ごと、一つの巨大な氷塊となって、静止していた。

 真っ白に染まったヘルメット越しにも、スラスターがかつてない出力で吹き出しているのがわかる。

『な、っ……にィッ!?』

『――死ぬのは、のは。嫌。イヤ死ぬ。嫌。死ぬの、嫌。死ぬイヤ。死ぬのは嫌――』

 初めて〈ドレカヴァク〉のテウルゴス――メレンチーの困惑が漏れる。
 〈ヴォジャノーイ〉がそれまでしなかった機能を示したことに対する驚愕か。あるいは、この辿々しく繰り返される、言葉もどきの濁流による瞠目か。

『――死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは、イヤ。イヤ。死ぬのは、死ぬ。死ぬ。嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬイヤ。死ぬのは嫌――』

 病的に、悲嘆の限りを耳朶に塗りたくられるような声。聞く者全ての生気という温度を奪うような、暗く冷たいところへ引き込もうとするように。
 バイザーにこべりついた、凍った結露を拭い去ったイサークは、再び操縦桿を握る。スーツどころか、コクピット内の至るところが白く凍っている。身体を動かす度にぱらぱらとこぼれ落ちていく。

『――死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌――』

 挙動を制限された〈ドレカヴァク〉――その胸部に、もう片方の腕を近づける。

「……そうだな、クレイオーン」

 身体から体温を抜き取られるのを感じながら……イサークは久方ぶりに聞く、クレイオーンの声に応える。

『――死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌――』

 残されたウォーターカッターを、敵の胸部めがけて起動した。甲高い音と共に、装甲を切り裂いた海水が、勢いをそのままに敵の機体へなだれ込む。
 そして、叩き込まれた氷結ガスが、そこにあった水分という水分を全て、氷に変換する――メキメキと金属を引き裂いて、隙間から赤い氷が顔を覗かせるのを、どうにかイサークは見届けることができた。

『――死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌――』

 だんだん、クレイオーンの声が遠くに聞こえていくのを感じた。
 まるで水底へ沈んでいくように……鋭かったはずの陽光が、仄かで柔らかく揺らめいていく。音という音が、低く重く微睡んで、溶けていく。

「クレイ、オー……ン」

 疲れ切った意識が、自分の手から離れていく。冷たく暗い水底の奥から伸ばされた手に身を委ねて、何も聞こえない場所、何も見えない場所へ沈んでいく。

 何一つ心配することのない、氷濤の中へ――……。
最終更新:2023年03月09日 01:14