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永久凍土:4


 敵の機体〈ドレカヴァク〉の片腕は落とした。人間のシルエットにしては異様に――歪なほど細い胴部に匹敵するほど太く巨大な前腕だった。巨大な鉤爪を先端に有し、その前腕に氷結装甲をまとわせることで、脅威的な打撃と防御を可能にする――兵器としての要であろう腕を、だ。

 だが、それだけだった。
 むしろ状況は悪化の一途を辿っている。

 後ろへ振り向き様に、テウルギア用の小銃(ハンドガン)を放った。まともに照準を定める余裕さえないままに引き金を引き絞ったのだ。たちまちに前へ向き直したイサークにとって、その弾がどこへ飛んでいったかなど、すでに意識の外へ振り落とされていた。

「大丈夫……大丈夫だ」

 粘っこい冷や汗が、こめかみを伝う。
 数え切れないほどに繰り返された急加速を、再び行う。その度にイサークの身体がシートへ押し付けられ、意識に黒がチラつく。ブラックアウト寸前になるほどの加速度を繰り返しても、意識だけは決して手放さない。
 その度に、老朽化を極めた機体が悲鳴を上げている。金属たちのひしめきが、ガラスの擦れるような耳をツンざう音となって頭の裏をかき撫でる。
 いつ壊れるとも知れない綱渡りを、何度も繰り返してきた。これ以上の激しい動きを要求するわけにはいかない。

 傍目に〈ヴォジャノーイ〉がただ逃げ惑っているだけのようにも見えるだろう。だが、望んでいた状況へ持ち込めたと、イサークは自覚していた。
 初めから予備で装備していた程度の小銃に、敵機を損傷できるほどの攻撃力など期待していない。
 敵機が――〈ドレカヴァク〉がこちらへ近づけないようにできればいい。そのための牽制としてさえ機能していれば。
 それも、当然だ。

 作戦の目標は、敵と戦闘をすることではない。
 とあるものを持ち帰るだけだ。

 海へ沈んでいないとすれば、どこにあるかの目星はついている。
 ――島でさえなくなり、海面から突き出た建築物の集合体となったヴェネツィアの、内陸にあった唯一の敷地。

 サン・マルコ広場。
 そこへの到達こそが最優先だ。

 だからこそイサークは、下手に細い道へ進むことは途中経路を無駄に伸ばすだけの自滅行為だと判断した――真正面からの戦闘では、勝ち目がないことも悟っていた。
 だからこそ、牽制を放ちながら一目散に目的地へたどり着くことを、目的にした。

 ――ヴェネツィアの中でも、そんな大雑把な動きを許容できる場所は、大運河(カナル・グランデ)以外にあり得ない。

 その広い川幅の、なるべく中央を切り裂くように、〈ヴォジャノーイ〉は邁進する。
 再び、スラスターの噴出で機体の前後を入れ替え、照準枠を覗き込むこともしないままに小銃から火を吹かせて、また加速を繰り返す。
 動いている方向は全く変えないままに、機体の向きだけを変える――慣性に任せたままその動きを可能にできるのは、接地も接水もしない、浮遊型の脚部だからこその特異さだ。

 ちらりと目を配らせたレーダーでは、敵を意味する赤い光点が、距離を開けて右へ左へとジグザグに動いている。
 まるで獰猛な獣に追われるようだと皮肉げに笑って、まだそんなことを思える余裕が自分にあることを自覚する。
 〈ドレカヴァク〉の驚異的な瞬発力には驚かされたが、しかしイサークの長年の経験が、その特性を感じ取っていた。

 敵には、その瞬発力を発揮するための角度が要る。彼我の位置や、自らの動き、踏み台にするための建造物……つまりは、長く伸びた直線軌道を、行えないのだと。
 鳥類の足のような後ろ向きの関節部も、カヌーのように変形できる下半身も、急激な方向転換や軌道変更では存分に性能を発揮できるだろう。

 しかし一直線に進み続けることに対しては、〈ヴォジャノーイ〉の水上浮遊のみにこそ、軍配が上がる。
 敵と自分の距離を常に開け続けて、攻撃のチャンスを奪う。あとは目標物を拾い上げて一目散に逃げ出す。
 残された活路は、これだけだ。

 すでにサン・マルコへの道程は見えている。残された懸念は、目標物がどれぐらいの大きさかだけだ。
 再び慣性を残したまま旋回をしようとした――

 その時に、音が聞こえた。
 ガラス管が割れるような音だと思った、次の瞬間には損傷を知らせる警笛が鳴り響いた。

 その部位を見て、息が止まるかと思った。
 〈ヴォジャノーイ〉の片腕だ。機銃を持っていた方ではない。手首から先が残されていたはずの腕。肩から先の全てが、信号途絶による全損を意味していた。
 当然、牽制に使っていた小銃すらも、今は海中に没しただろう。

『鬼ごっこは終わりだ。イサーク……!!』

「まっ……!」

 レーダーと正面のカメラ映像を同時に見るのと、次なる衝撃が飛来するのは、どちらが先だっただろうか。

 次は脚部だった。全体の信号がなくなったわけではなかった――が、結果としてはどちらも変わらない。
 海面に、機体が叩きつけられる。機体ごとイサークを、海水が出迎え、飲み込み、不規則に揺らしていく。

 次々に立ち並ぶ警告の数々を見なくても、わかる。
 ものの数分もしないうちに、〈ヴォジャノーイ〉は海中へ没することだろう。

 イサークの脳裏を、いくつもの記憶と思考が駆け廻る。
 何一つ成果を果たせていない自分を信頼してくれた男の言葉。軽妙な愚痴を挟みながらも、自分を慕ってくれた整備員の顔。亡命した身の上でしかない自分の待遇を鑑みてくれたテウルゴスの顔。こんな自分に、未だ仕事を与えてくれる会社。

 それら全てに、結局、報いることができなかった虚しさがイサークの胸に流れ込む……全身から血の気と共に生気まで流れ出しそうになる前に……その奥で大きく重く鎮座している感情が、それを押し留めていると思い出した。

 ――まだ、きっと自分を待ち続けている、レメゲトンがいる。

「……クレイ、オーン……!」

 次なる衝撃が、イサークの身体を吹き飛ばさんばかりの勢いで襲いかかった。眼前の画面に亀裂が走り、コクピットのあちこちから海水が溢れて、イサークの身体を冷たく飲み込んでいく。
 いくら〈ヴォジャノーイ〉が水上での運用を想定された機体であっても、コクピット内部の浸水までは想定されてはいない。雨水の流入程度ならともかく、テウルギアの構造において、最も堅牢に作られるべきであるはずの、登場者を守るためのコクピットが破壊されることは、つまり搭乗者(テウルゴス)が死ぬことを意味しているのだから。
 だからこそ自分の未来など見ていなかった。動かない下半身で、壊れたコクピットから運良く抜け出せたとしても、その後がないことなど目に見えていた。

「頼む」

 それよりも先に――コクピットが浸水で操作不能になる前に――。
 ずっと閉じ込めてきたレメゲトンを、解き放つこともしないままに、終わることなどできなかった。

「これだけ。これだけなんだ……!」

 決して手慣れてきた操作ではない。それでもこの瞬間が来ることを、ずっと心待ちにしていた。
 それを迎えるには、あまりに突然で、あまりに可哀想な仕打ちになるかもしれない。
 だが今のイサークができることは、残された成せることは、この一つを除いて、他になかった。

「――帰ってきてくれ(・・・・・・・)。クレイオーン」

 それを口にしながら、悟る。思わず微笑んでしまっていた自分を自覚して。

 これはただのエゴだったのかもしれない、と。
 どんな状態でもいいから、その声を聞きたかったのだと。

 三度の衝撃が、ついにコクピットを破壊する。雪崩れ込む海水と泡沫が視界を奪い、イサークの呼吸を閉ざす。
 激しい水流の音に耳を奪われながらも……しかし声が、聞こえてきたような気が、した。

『……死ぬのは、嫌』

「……! ……」

 言葉ではない。声にすらならない、ただの気泡が口から溢れ出る。
 あと数分後には自分の命がないと知っていながらも、優しげに笑みをほころばせていた。

 それでもイサークは気泡を吐いた。
 おかえり、と口の動きだけが、それを意味しているなど……誰にも気づかれないと、届かないと知っていながらも。
 肺腑の全てを絞り出して、それだけを繰り返していた。
最終更新:2023年03月10日 04:43