ボレロ:4
ついに最後のパートへ入った。
ボレロは元々、長大な曲だ。何度となく同じフレーズを繰り返し、その中でオーケストラの全てに等しいほどの楽器と人数が合わさっていき、最後には壮大な音楽になる……。
それがショートプログラムの短さに切り取られても、フレーズそのものは変わらない。でもその盛り上がりはわかりやすいものになる。一気に、会場を揺らす。
――呼吸さえ忘れてしまいそうな静寂。いくつものスポットライトに照らされた白氷の上。練習の時とは違う重い緊張が、広いはずの場内で、狭苦しそうに横たわっていた。
刻んできた軌跡の数々も、ステップの度にかきあげられる氷片も、きびきびうねり広げられる足と腕も、その一つ一つが、空気と一緒に煌めいていた。
なだらかな孤を描いた助走。ぶらりと後ろへ振り下ろした足と一緒に、自分の体を持ち上げた。
アクセルジャンプ――このプログラムの中で、最高難度を誇るジャンプだ。他のジャンプとは違い、唯一の前を向いた状態でのジャンプ。当然、着地は他と同じように後ろ向きになるため、半回転分の力が要る。それだけでなく、前向きで飛ぶという恐怖に打ち勝つメンタルが求められる。
でもそれは、今の僕にとって、何ら困難ではない。
高速で動き回る視界の中で――それでも僕には、視えていた。
これまでの数々の軌跡が、赤い線となって……。
今のスケートリンクは、僕を暖かく迎えて、盛り上げてくれるようだった。
誰も、客席に座っている者はいない。僕がする演技を、誰も見届けてくれる人はいない。
ボレロなんて曲は、スピーカーからは流れていない。でも僕には聞こえる。僕だけには聞こえている。何度も何度も何度も何度も繰り返される演奏。何度も何度も何度も何度も何度も何度も頭に擦りこまれた音楽。スピーカーを介する必要なんてない。僕の頭の中で、全ては揃い、完成されている。
会場に響き渡るこの演奏を、誰も聞いてくれていないことが少し哀れに思えてしまうぐらい
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も練習をしてきた。着地だって完璧だ。
吹奏が僕を祝福する。
打楽が僕を鼓舞する。
弦楽が僕を誘惑する。
コンビネーションジャンプへの繋ぎだって、足の皮が向けるほど練習してきた。マメを何個も潰した。血が滲んだこともたくさんあった。キツく締め付けられたボロボロのスケートシューズには、僕の肉体と同じぐらいに血が染み入っている。もはや血肉の一つで、身体の一部だ。紐の結び目も、ブレードの先端までもが、僕の意のままに動いている。
呼吸をするように、ジャンプをして、そうしながらスケートリンクの中央へ向かう。
赤い軌跡の中心点があった。
氷に滲み、じわじわと溶かし始めている液体の赤が。
僕には、視えている。
足が使い物にならなくなって、じっと横たわっている。
至るところから、温かいだけの赤い血を垂れ流して、その中で溺れるように沈んでいる。
目が覚めているのか、眠っているのか、それとも意識さえないのか、はたまた命さえなくしているのか。
今の僕には、彼がどんな状態で、どんな気持ちでそこにいるのかなんて、どうでもいい。
彼がそこにいて、僕の演技を、僕の伴奏を、リンクの中央という最上級の特等席で見られる場所にあることが、いちばん重要なんだ。
フィナーレへ導入する――その直前。僕の最後のジャンプが終わる時。
僕は嬉しかった。人生で一番。こんなに甘い歓喜があったんだと感動に打ち震えるぐらいに、頭の奥から聞こえてくる伴奏に、僕自身の演技に、酔いしれてしまっていた。
今この瞬間は、僕の人生で発揮できる以上の、僕じゃない誰かに操られているんじゃないかと疑ってしまうほどのクオリティを、実現できている。
もう一度、彼の演技を見ても、僕は何も感動に思うことはない。あの時の躍動も、表現なんていう抽象的なことも、全部ぜんぶ全部ぜんぶ全部ぜんぶ全部ぜんぶ、無意味だ。
もう彼が障害になることはない。
もう彼を見上げるなどない。
もう彼への憧れはない。
もう彼はいらない。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も思い描いてきた、この瞬間に。
僕の身体で。僕の技術で。僕のジャンプで。僕のスケートブレードで。
着地の瞬間――決して僕を見ることのないままの彼の頭を、綺羅びやかなこの先端で。
――切り潰してやる。
最終更新:2023年03月11日 20:48