永久凍土:4
……とっくのとうに、イサークが取れる選択肢など残されていなかった。
目標があるはずだったサン・マルコ広場へ辿り着ける余力など、もう〈ヴォジャノーイ〉にはない。
機体の状態を確認するために、わざわざ計器へ目を走らせる必要もない。
元より力の入らない足が、ぷらぷらと宙に垂れ下がっている。外壁と一緒に、固定具も剥がれ落ちているのだ。
海面がその先まで迫りきている。朝日を浴びて煌めく波の向こうで、大きな穴の空いた〈ヴォジャノーイ〉の下半身が気泡を吹きながら、揺らめいている。
本来ならば海面どころかその上に浮遊しなければならない機構が、機能停止しても最低限の浮力を確保できるように設計されているはずの構造が……その機能の全てを失って、ずるずると海中へ引き込まれていく。
頼りだった〈ヴォジャノーイ〉はもう動かない。いや、動ける箇所のほとんどを失った。
たった今だ。敵の〈ドレカヴァク〉が、残されていた腕部を、肩の根本から引き千切って、投げ捨てた。
イサークには、もう、何をどうすることもできない。
ふと視線を上げた先にある鋼鉄の塊に――その奥へいるだろう、名前も知らないテウルゴスへ、問いかける
「そんなに、俺が、憎いか?」
『何を、今更ァ!!』
氷をまとっている機体とは裏腹に、火でも吹いているのかと思えるほどの激情。
『その機体は、貴様なんかに渡すべきじゃあなかった!』
振り下ろされた〈ドレカヴァク〉の腕――氷を纏った鉄槌が、〈ヴォジャノーイ〉の頭蓋を叩き潰した。勢いをそのままに、イサークの体が海水へ飲み込まれていく。
『貴様の裏切りで、どれほどの同胞が死んだ! どれほどの仲間が苦しんだ! ……わかるかァ!?』
頬に海水が叩きつけられたその瞬間にも、もう一度、イサークは見上げた。
暁を背負う機体を。かつての故郷が送り込んできた刺客を。自分が機体を連れたせいで、故郷はこの機体を作ることになったのかと。想いを巡らせる。
『この日を……この時を、待っていた!』
そして、もう一度、鉄槌が振り下ろされる。その動きをまじまじと見ていた。
激昂しながら自分を殺そうとする男を。その奥に渦巻いているだろう、自分を殺すためだけに滾らせている執念を。
「俺にも、ようやく……死神が来てくれたんだな」
ふと、顔がほころんでいた。
今度こそ海中へ叩き込まれる瞬間。二度と呼吸がかなわなくなる刻限が来た。
海中に、イサークは投げ出された。海中に差し込む朝日が見えた数秒の後に、それは遮られる。
〈ヴォジャノーイ〉が、落ちてくる。
腕も武装も無くし、巨大なガラクタとなった鉄塊が……。
不思議と、笑っていた。
任務も果たせなかった。亡命によって逃げきれたわけでもなかった。何一つ果たせなかった自分には、むしろ良い結末ではないかと。
最期の最期。死ぬ理由が、よりにもよってこの機体に潰されるのなら、本望でさえあると。
……冷たさを、肌が感じ取った。海中の水温だと最初は思った。日の届かない場所であればあるほど低くなる。
そうではないとわかったのは――〈ヴォジャノーイ〉の機体から吹き出しているものが、ただの気泡ではないとわかったからだ。
機体を包みこんでいく白い氷。瞬く間に、機体は見えなくなっていく。
『……――嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは嫌。死ぬのは――……』
最初はその声を、幻聴かと思った。はっきりと頭蓋に届いているこの声が。
しかし、まだ酸欠を脳が訴えるほどの時間は経っていないはずだと、未だに霞むことのない意識が証明している。
忘れてなどいない声音――紛れようもない、クレイオーンの声だと。
氷の白が、ゆっくりと広がっていく。イサークの目と鼻の先、すぐそこにまで。
『……――違うよね?』
まさか……。そう、声を出せたなら漏らしていただろう。今となってはこぼれ出た泡が、氷の白に取り込まれていく。イサークの腕をも。
クレイオーンが、目を覚ました。
『死ぬのは嫌? 違うよね。嫌なんかじゃない』
氷が、イサークの体を浸食する。凍てつきを訴えなければならないはずの腕の感覚が、ない。視界の全てが白く塗り潰されていく。
何かを考えることも思うことも、イサークには許されない。
それをするための思考さえ、意識さえ……全てが氷に白く飲み込まれていく。
それでも、薄く霞んでいく意識の奥底で……イサークは歓喜を覚えていた。
どれほど待ち望んでいた時が、ようやく来たことに。
『ご主人。やっと、一つになれたね……』
そしてその感情さえも、白に塗り潰される。意識も、自我も……魂でさえ動くことを許さない、氷の中に。
「これが、ドミネーションなんだね」
最終更新:2023年03月11日 20:52