永久凍土:5
「終わっ、た……ぁ!」
夜闇に揺られるコクピットの中、びっしょりと肌に貼り付いたパイロットスーツを、荒い呼吸で揺らし続ける。
メレンチー・ヤグディンの胸が浮き立つ。座席に固定するベルトがなければ、今にも飛んでしまいそうなほどの高揚。
錆びついた白いテウルギアが、汚泥のように黒い海へ沈んでいく。十年。人生の五分の一を超える積年の執念が、氷のように溶け崩れていく。
イサーク・プルシェンコこそがメレンチーを駆る動機だった。彼にとっての当初は羨望が、しかし嫉妬に、やがて事件をきっかけに、明確な憎悪へ想いの形が変わる。それを煮え滾らせて、悪夢にうなされ続けてきた十年。
レメゲトンの認証を掴み取り、戦術的な隙間を穿った設計思想だった〈ヴォジャノーイ〉を討てるテウルギアに見合う努力を積み重ねてきた。
それこそが〈ドレカヴァク〉――同じように氷結装甲を得ながら、人型への固執を捨てることで更なる機動性を獲得したテウルギア。
前傾しきった上半身/膝そのものを後ろに曲がる機工により後退しきった下半身。横から見れば、人間のような縦一直線ではなく、稲妻マークのようなジグザクのシルエット。
四肢でさえ人間のように均等な長さではない。異様に太く長い前腕と下腿。胴体と肘・膝までの部位はあくまで接続するために過ぎないと振り切った設計。
上半身と同程度の太さとなった前腕の先には、五指を象った鍵爪。
さらには背中に担がれた、巨大な竜骨と、左右の下腿に翼の如く括りつけられた船底。これにより作られる変形で、下半身はカヌーのようにボート状へ形を変え、海上を滑走できる。
人間よりも、怪獣と呼ぶに相応しい姿。
見合うため――適合するための操縦技術は並を凌駕することとなった。だが乗り越えてきた。
だから、今のこの瞬間を見届けることができる。
待ち焦がれていた景色。あまりにも美しい光景。
十年の時を脳裏にこべりつてきた亡霊であるイサークの、死の瞬間を。
ボロボロに蹂躙した〈ヴォジャノーイ〉から、イサークが海中へ投げ出された瞬間を。操縦手を失って沈みゆく躯体を。その側から真っ白に凍りついていく海面を。
「……やった。やった、ぞぉ」
ようやく、口から出た。静寂を打ち破らんと。歓喜に打ち震え、今にも踊りだしそうな身体へ鞭を打つべく、自分の声で意識を繋ぎ止める。
操縦桿から手を離し、自分の胸を強く握る。興奮のあまり破裂してしまいそうな心臓の脈動が、力いっぱいの手でもありありとわかる。鼓動が耳を打つ。
イサークが、ついに死んだ。自分の手で……やっと、晴らせたのだと。悪夢から醒める時が、来たのだと。
だがその興奮は、すぐに冷める。
『メレンチー……!』
やけに切迫した、レメゲトンの声だ。積み重ねてきた努力が、染み込ませてきた経験が、意識を置き去りにして身体を動かす。
計器・レーダー・カメラ越しの外景。
それら全てに意識を張り巡らせても、何一つ、変わりない。暗い夜の沈黙が続いている。
強いて、暁の明るさがあるぐらいだ。
「何だ? どうした?」
『何か、おかしい……。感じるんだ』
「感じる? ――」
レメゲトンは所詮、高度な知能を持ったOSに過ぎない。意識や自我や感情があれど、しかし、受容体などテウルギアに備えていなければ存在し得ない。
感じ取ることなど、あり得ないはずだ。
「――そんなもの、お前が一体何を……ッ!」
言いかけた台詞が、突如として視界に飛び込んできた現実に打ち消される。
白氷が――イサークと〈ヴォジャノーイ〉が沈んでいった跡に、ヒビが入ったのだ。
レーダーには反応があった。鋼鉄が動いているという意味が。しかしIFFの反応はない。
テウルギアの機械機能が、何某かの誤作動を起こしたのか――その疑念さえ即座にかき消された。
『く、来るっ!』
氷が、割れた。
海面を引き裂き、錆びついた白の鋼鉄が姿を見せる。
潰れた頭部/千切られた片腕/形だけを辛うじて保っているもう片腕/大きく穴の空いたスカート――そして、胸に大きく開けられた風穴/それを埋め尽くす白い氷/その中に力なく氷漬けになった死体。
飛沫を散らし、そこここから水を垂れ流しながら。
ギチギチと金属が掻き毟りあう悲鳴を纏って、朝日を眩しく煌めかせて。
〈ヴォジャノーイ〉がまた姿を見せた。
『おはよう いい けしきだね』
聞いたことのない少女の声が、〈ドレカヴァク〉を/メレンチーの耳朶を、冷たく貫いた。
潰れた頭部が、かくん、と落ちた。おどけるように、人形の頭が重力に負けるように。そのまま千切れた頭部が、かん、と胸の装甲を叩いて、海に落ちる。
その波濤が収まる前に、遅れてメレンチーの背中を冷たい何かが駆け上る。
焦燥/驚愕/恐慌。あるいは予感。
「ッ!」
考えるよりも先に、体が動いていた。
戦慄するレメゲトンへ叱咤し、〈ドレカヴァク〉を叩き動かす。
異形を極める機体に、遠距離用の装備は失われた。
海面を蹴飛ばし/波を置き去りにスラスターを噴出=爆発にも等しい加速が、〈ドレカヴァク〉を前へ突き飛ばした。
……何があろうと、所詮は機械の塊に過ぎない。満身創痍そのもののテウルギア一機など、まだ損傷の少ない〈ドレカヴァク〉を相手に、できることなどない。
一瞬のうちに肉薄する〈ヴォジャノーイ〉の姿――その中央で、やはり、テウルゴスだった死体が氷漬けになっていた。
声の正体は何なのか? ――疑問を持っている暇などありはしない。
〈ドレカヴァク〉の振り下げた上腕を、装甲の隙間から現れた金網が包む。ワイヤーから氷結液を吹き出し、海面へ突き刺す――瞬く間に上腕は、巨大な氷の柱という質量の塊と化した。
腕の一振りで、いとも容易く薙ぎ払える……!
爆進する勢いのままに振り上げた腕は、正確にその軌道を辿った。片腕のない方から、的確に胴体を目掛けて衝突した。
〈ヴォジャノーイ〉の装甲が拉げ/氷塊が砕け/機体が大きくねじ曲がった――胸中の氷漬けの死体が潰れて、白氷の中に赤が滲んで、広がる。
……だが、それだけだった。
『あーあ からだが だいなし』
あっけらかんと少女の声が放られた。メレンチーの頬を伝う冷や汗よりも、遥かに冷たい温度で。
次に見えたのは〈ヴォジャノーイ〉から噴出した霧だ。胴体を潰してめり込んだ氷の柱ごと……霧が、氷と変貌する。
『でも いいや このからだは もう ぼろぼろだし』
「なっ……!?」
メレンチーは瞠目する。機械的な機能ならば確かにそれができるだろう。だが、それを手繰る存在は、やはりいない。
思わず、口にしていた。
「なんだ?」自分ごと氷の塊にするという意図も、メレンチーには理解できない。
「何が目的だ?」敵うはずもないのに、逃げる選択肢を自ら失ってしまう行動だ。
「誰なんだ、お前は?」赤く潰れた死体ではない。今までいなかった存在。
「レメゲトンか?」唯一合点がいく存在がそれだ。テウルギアの中にいる人格といえば、テウルゴスでなければそうでしかあり得ない。
「テウルゴスなしで……」いくらレメゲトンといえど、単体ではテウルギアを動かすことなど困難に近い。
氷になりきれず宙を漂う白霧の隙間から、ズタボロの腕が姿を見せた。
『テウルゴス? イサークなら いるよ ここに』
腕の先端が、最早赤く染まった氷塊を/死体を器用に小突く。
隙間からまた新たな赤が吹き出して、付着した。
『わたしの なかに』
私の中――その意図を理解する前に、腕は金属たちの悲鳴をまといながら、〈ドレカヴァク〉へ伸びた――胴体ではない、関節部へ。
ウォータージェットの噴出/軽微な損傷が警告として打ち鳴らされた/しかし些末な損傷――のはずだった。
そこも〈ヴォジャノーイ〉が生成した氷で、繋がる。繋げられる。死体から付着した赤の滲む氷に。
『ひい……っ!』すくみあがるような、短いレメゲトンの悲鳴。
『やっと つながったあ』
妙に甘ったるく/やけに明るく/おぞましいほど無邪気な少女の声が、流れ込んできた。それまでの、スピーカーによる外界越しの音ではない。直接〈ドレカヴァク〉の内側から。
『やめろ! やめてくれ!』レメゲトンの訴える慟哭を、メレンチーは呆然と聞くことしかできない。
〈ドレカヴァク〉という機体を――力を手に入れたのに、振るうことが、できない。
『そのからだ ほしいなあ とってもきれい』
また、金切り音の大合唱が聞こえた。
原型さえ失った〈ヴォジャノーイ〉の、下半身さえ千切れ落ちて、海面で飛沫を上げる。
氷さえ溶けてしまえば、ガラクタ同然の金属の塊は、すぐにでも同じ末路を辿るだろう。
だが〈ドレカヴァク〉にまとわりつき、凍てつき……決して離れない。
『嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……!』
『あなたごと ちょうだい?』
その瞬間だった。
『ああああああああああああああああああ――』
声にもならないレメゲトンの悲鳴が、コクピット内を埋め尽くす。
画面に映る景色も/計器も/全ての表示が黒く染め上げられていく。明るくなってきたはずの朝が、閉ざされていく。
メレンチーにできることは、不器用な呼吸と、震え上がる身体をなんとか動かして、悪夢ではないと認識することしかない。
なにもできない。
やがて全てが真っ黒に染められた時には……悲鳴は、聞き慣れたレメゲトンのそれではなくなっていた。
『――ああああああああああ ……あーあ』
先程の、少女の声。無邪気な声。
真っ黒/真っ暗な空間の中で、少女が、以前変わらない無邪気さで、離し続ける。
『レメゲトンって おいしいんだね かれも あのとき おいしかったのかな』
『はじめまして あなたは メレンチー なんだね レメゲトンが おしえて くれたよ』
『わたしの なかで』
真っ暗闇に……自分の輪郭さえ掴めないほどの黒一色に、一つの姿が浮かび上がった。
クリオネ。流氷の天使と呼ばれる、それが。
「お前は……なんだ?」
『レメゲトン だったよ いまも きっとそう でも たぶん ちがう』
無邪気に、一対の羽のようなエラを動かして、コクピットの中を、クリオネが縦横無尽に動き回る。
『わたしは クレイオーン イサークも わたしの なかにいる』
愕然と、メレンチーは見上げるしかできない。綺麗で、可愛い姿を。
復讐相手も失って、努力を積み重ねてきた十年も、全てを失って。
……メレンチーは未だ気づかない。深い絶望の果てに、歴史を覆す存在を得てしまったことを。
『わたしに うみを みせて たくさん』
最終更新:2026年06月09日 20:17