小説 > 鬼柳香乃 > ハクレン号の航海日誌 > 第1話_1

■6月11日 11時45分(UTC+6)

 穏やかな波が、南洋の強い日差しに反射し、ホログラムのように、眩しい光を一面に敷き詰めている。
 その海域は、地球が国家によって統治されていた頃、その海域は、ミャンマーと、インドネシアという国の境界線として存在した。
 複数の企業が、日に日に軍事的衝突を繰り返し、頻繁に支配者を塗り替える現在では、都市はともかく、海域は座標で呼ばれることの方が多い。すなわち、東経92度6分、北緯10度1分、といったように。

 その海を、大型の船が静かに、インド洋方面に向かって航行している。
 旧世代のタンカーの、甲板部分に流線型の蓋をしたような姿で、全長は300mほど。
 海面に出ている上半分は、視認性を下げるため、全体が濃紺色に塗装されている。しかし、陽光がこうも眩しく反射していると、逆に、影が泳いでいるかのように目立ってしまう。
 CSB-07、ハクレン。技仙公司の建造した、物資輸送用潜水艦の7番艦。
 文字通り、物資の輸送用に作られたこの船は、その性能を生かすべく、9日前に香港の港を出港し、マラッカ海峡からインド洋を経て、アラビア半島の都市、マスカットに向かう途上にあった。

 複数回、潜水と浮上を繰り返すことを前提としたこの潜水艦は、船体の相応の容積をバラストタンクとしての区画に割いている。そのため、大きさの割に積載量は控えめに抑えられている上に、燃費もあまり良好とは言えない。単純な輸送コストでは、多くの輸送船に劣る。
 それでもこの船が使われるのは、ひとえに、敵の支配圏を航行するにも、随伴戦力なし、あるいは最小限の随伴戦力での運用を可能とする隠密性にある。
 正攻法で、護衛のための空母や武装艦船まで含めた船団となると、どうしても大規模になってしまい、相応の規模にしないと損益分岐点を割り込んでしまう。中途半端にみえるこの仕様は、そのジレンマを避けるための苦肉の策だった。

「小アンダマン島、3時の方向に距離約25km。チェックポイント37を通過。当初の計画通り、本艦はこれより、低深度潜行に入る。総員、機密弁の再確認を」
 伝声管を通して、艦内に声が響く。
 人類が、長期間の運用に耐えうる潜水艦を最初に作った頃、同規模の艦を運用するのには、100人から150人の乗員を必要としていた。
 今はオートメーション化が進み、5~10人程度の乗員で運用可能となっている。
 そこまで技術が発達して尚、伝声管のような旧式のテクノロジーも併用されているのは、本船を作った技仙公司の趣味なのか、或いは過去の厄災で歪に技術が失われた所以なのか。おそらくはその、両方だろう。
 喫水線が、静かに上昇していく。
 そして紺色の影は、照りつける太陽から逃げるように海の中に消えていった。


【ハクレン号の航海日誌】
第1話 ベンガル湾での待ちぼうけ、その1


■6月11日 18時28分(UTC+6)

 エリーアス・ボルマン、23歳。アレクトリス・グループの一翼を担う大企業、技仙公司……の、子会社である技仙警護に、入社して10ヶ月ほどの新人社員、という身分の彼は、胃が痛かった。
 こんな時代だから。子会社とはいえ、大企業の直系の企業に入社したときは、前途洋々な未来が待っていると、思っていた。
 父は傭兵をやっていて、一昨年には生死の境を彷徨う大怪我をしている。今でもそのときの傷が原因で、左腕が肩より上がらないそうだ。
 その父の口癖は「こんなヤクザな仕事にはつくな」だ。
 だから、警護会社とはいえ、実質上の「軍隊」よりはマイルドな、警備や後方支援の仕事にありつけたのは幸運だった。そしてその先には、安定した給料が入る、平穏な生活が待っている。そのはずだった。

 今となっては、ある種の罠にはめられたような気すらする。
 入社時の希望通り、配置されたのは、警備部主計課だった。いわゆる兵站や、資材管理を行う部門。
 これぞ天職だと信じていた。前線で戦うのではなく、デスクワークで淡々と過ごせるのではないか。そんな希望に満ちていた。
 が、割と適当な1ヶ月程度の新人研修を終えて、あれよあれよという間に、この船に配属された。そして待っていたのは、1ヶ月単位で航海する輸送艦を運用する仕事。
 しかも、配置されて1年を経たずして、数度の戦闘を経験した。
 戦闘と言っても、なにしろ輸送艦自体には武装がないので、護衛機に任せて退避、あるいは海中を単独で逃げ回る、という、受け身かつ不安定なスタイルになる。
 これでも、常時、戦場に居る兵士と比べれば、まだ安全なのかもしれない。でも逆に、襲われれば一方的に攻撃を受けるしかないのは、それはそれで精神的にかなり辛い。
 そんな仕事で、安定した収入は額面的にあっても、殆ど使う機会がない。
 なにしろ船の中には、エリーアスの愛する、電子ゲーム機の販売店もなければ、仲間と馬鹿話をしながら飲める安いパブもない。自身の金で何かを買うというと、飲料や菓子の自動販売機だけだ。
 望んでいた生活とは大きく違う現実。モチベーションはどうしても、そこまで上がらない。

 いや、その現実が原因で胃が痛くなるほどに、環境に対して拘りがある、わけではない。
「どうした、もやしっ子。まだ慣れんのか?」
 今、エリーアスの胃が痛い原因、その1。パーシー・リンド。いかにも中東出身という浅黒い肌と、豪快な髭、そしてガッシリした体躯が似合う、30代半ばの大男だ。
 嫌いなわけではない。ただ、苦手だった。元々、インドア派で、パーシーの言うように『もやしっ子』、あるいは『ナード』の類のエリーアスは、どうにも、所謂ガテン系のノリについていけないことが度々あった。
 何というか、がさつなのだ。トラブルやイレギュラーが起きたとき、エリーアスが気を病んでいるのに、こいつはだいたい笑って放置する。そして大凡、それで問題がない。
 後から理屈で考えれば「気にしても仕方が無いことを気にしないメンタル」という、きわめて真っ当なものだったということは、わかっている。
 それでもやっぱり、納得がいかない。要するに、テンパってばかりの自分への悔しさと、この男への苦手感は表裏一体で。なまじ、それを自覚しただけではどうしようもないから、本当に苦手でしかない、という帰結は、理屈で解決できる枠を越えている。
「あんたがガサツで鈍感すぎるだけよ」
 胃の痛い原因、その2。エメリナ・エンシーナ。年齢を聞くなど(怖くて)とてもできないが、おそらく20代後半か、30ぐらいか。
 常にびしっとアイロンのかかったタイトなスーツを着こなして、ブロンドのセミロングの髪が似合う、キャリアウーマン然とした怜悧な女性だ。
 エリーアスは彼女が、スーツ以外を着用しているのを、船外離脱用の潜水着の着用命令が出たときしか見たことがない。そんな女性だった。
 そして性格は。害意はないが、悪意……というよりはいっそ、Sっ気とでも言うべき毒舌をよく放ってくる。そんな印象だ。
 幸い、機嫌がいいときはビジネスライクに話ができるし、仕事のオンオフを、ともすればエリーアス以上にしっかりと区切っている。
 その点、仕事後にも部屋での呑みに誘ってきて、挙げ句に泥酔後の世話をするハメになったりするパーシーと比べれば、エメリナはまだ接しやすい部類ではある。

 それでも。人間関係というのは、なかなかに難しい。
 何しろ現在、ブリッジに居るのは、自分とパーシー、そしてエメリナの3人だった。この体制で、あと6時間。正直なところ、かなり辛い。
「何も起きなきゃ起きないでいいっつーか、何も起きてほしくないけど、間が持たないなぁ」
 こぼれだしそうな愚痴を、飲み込む。聞かれたら本当に、エメリナに何を言われたか判ったものではない。

 潜行時の、ブリッジの仕事はおおまかに2つ。それを、8時間ごとの交代で、当直3人がこなす。当直のうちの1人は「休憩も兼ねた待機」という扱いになる。最低限の員数、すなわち6人で艦の仕事を回すための、ぎりぎりのシフト。
 つまり、この艦で仕事する限り、最短でも1週間以上。そして長ければ数ヶ月の間。
 延々と、8時間の退屈な勤務と、定期的に回ってくる、勤務の前または後のブリッジでの更に退屈な待機、という生活が続く。
 有事でなければ体力を使うわけではないが、精神力はそれなりに消耗する。そんな環境だった。

 ブリッジにおける仕事の1つめは、近くに艦船が居ないかどうかの確認。これは主に聴音機により、機関音やソナーの音を頼りに探す。周囲監視、あるいは索敵の類だ。
 海中で発生するノイズはコンピューターがある程度除去してくれるし、該当すると思われる音があれば、警告もしてくれる。
 でも、それはあくまで機械による補助で、最終的な判断は人間がやるしかない。故に、ある程度の経験が必要なので、今はベテランのエメリナが担当している。

 2つめは、操艦。
 難しそうに聞こえるけれども、通常の航海の範疇であれば、実はこちらのほうが、簡単だ。
 海中では、対流速度から、だいたい船が移動したであろう距離を計算する。そして約10分ごとに、コンパスで確認した進行方向を記録しつつ、目的の方向とずれていれば、舵をきって方向修正を行う。
 これで、よほど強い海流の影響をうけていなければ、想定していた航路から大きく外れることはなく、航海を続けることができる。
 かつての国家崩壊前であれば、地球全土で使える、衛星からの位置特定システム(所謂GPS等)が使えたと言うが、今は機能していない。
 そのため、航海という行為の本質的な技術水準は、実は西暦にして20世紀前半ぐらいまでのレベルに後退している。
 海流の影響の補正は、定期的に、潜望鏡だけを海上に上げて、周囲の景色を見ることで現在位置を確認したりする。夜間であれば浮上して、星図から現在位置を特定することもできるが、昼間に使える方法ではないし、友軍戦力圏内でなければ、たとえ夜間でも浮上することに危険は伴う。
 そういう理由で、現在では大洋を突っ切るような航路を採ることはあまりなく、多少遠回りでも、海岸につかず離れずぐらいの位置を、航路として採用することが多い。今回も、それに倣っている。
 そして今は、エリーアスがこの仕事をしている。砂時計を10分ごとにひっくり返し、数値を記入し、備え付けの液晶端末画面に表示させた電卓を叩く。
 退屈だが、居眠りでもしようものなら何を言われるかわかったものではないし、それこそ。戦闘よりはマシ、だ。
「1830時、方位、北北西北、347度。磁気コンパス、ジャイロの異常表示なし。対海流速度、21.44ノット。対海底速度は測定できず」
 黙々と作業すると、どうしても眠くなる。かといって、あまり大きな声で読み上げると「うるさい!」と周囲からどやされる。
 なので、小声で延々と呟く。流石にその程度の声がどやされることは、よほど誰かの虫の居所が悪い時でもなければ、ない。
 そして、コン、と音を立てて砂時計をひっくり返す。
「うるさい!」
 ――そこで、エメリナの甲高い声が飛んできた。

「あっハイ、ごめんなさ」
「喋るな」
 更に鋭い声が飛んでくる。余程、エメリナの機嫌が悪いのか。そんな気配はなかったけれども、と考えたところで、思考は硬い声に遮られる。
「……微弱なソナー音を確認、MBES(海底地形探査用のマルチビーム探査レーダー)と推定」
「それって……」
「周囲に艦艇あり。MBESの音紋と照合……機種まではわからないけど、おそらく7海里(約13km)程度の距離の海上よ」
「おっし、艦長以下を呼ぼう。こりゃ一大事だ」
 パーシーが陽気に叫ぶ。一大事、と言ってはいるが、そのノリは陸上で「いい酒場を見つけぜ、皆で行こうや」と言い出す時と大差なかった。一瞬、顔をしかめるエメリナのことなど、気にしていないのは明らかだ。
 ――エリーアスの胃の痛みは、さらにキリキリと増してきたように思える。


■6月11日 18時42分(UTC+6)
 ハクレン号に搭乗している全員が、艦橋に揃っていた。
 ブレンダン・マッケオン艦長以下、船の運用に携わる(エリーアスも含めた)クルーの5人。
 社内の転属のために、移動の足として乗船していた庶務課のセベロ・コンバロ。
 艦内の世話係……炊事や清掃などを担当する、船の「肝っ玉母ちゃん」とも称されるエーレンフリート・マルテンシュタイン。
 そして護衛のため搭載されている、テウルギアのテウルゴス、ミハイル・マルティノヴィチ・アブドゥヴァリエフ。
 通常は3人か4人しか居ない場所に8人居るのだから、やや狭い感はある。

 通常は使用されない、指揮専用の椅子に、ブレンダン艦長が腰掛けている。
 言い換えれば、艦長が出入港以外の際に、そこに座っていることこそ、イレギュラーな事態が発生している所以だ。
 音響・通信席には、さきほどと変わらずエメリナ。
 操艦席にはラテン系の、割と軽口の多い、ムードメーカーとも言うべき陽気な男、フェリシアン・ドーファン。
 さきほどまでエリーアスが座っていた助手席には、なにかと節制を強いてくる仕事中毒の男、バルブロ・ヴィンクヴィスト。
 座席は4席しかないので、追いやられたパーシーとエリーアスは艦長席の横に立っている。更には、艦橋に普段入らないエーレンフリート、部外者のセベロとミハイルまで居るので、どうしても狭苦しく感じる。
 そもそも。
 エーレンフリートは普段は、1日に1回の掃除の時以外は艦橋に来ないし、セベロとミハイルは今回の航海だけの「部外者」なので、本来は艦橋に入る権限すらない。
 しかし「艦の命運に関わることは、すべて艦の乗員全員で決める」というブレンダン艦長の方針と裁量により、非常時にはクルーだけでなく、その時乗船している全員が、そこに呼ばれる決まりになっていた。
 ――そのせいで少し狭苦しくなっていることに文句を言うのは、新人には許されない贅沢なのは判っている。

「ふぅむ」
 ため息とも、呻き声とも、あるいはうんざりした感情表現ともとれる声を、ブレンダン艦長が発する。
「状況を整理しよう」
 人員が揃ったことを確認して、艦長が切り出す。
 それに最初に答えたのはエメリナだった。
「未確認艦艇が3隻。潜望鏡を使って視認確認しました。艦影から、1隻はおそらく非武装の海洋探査艦ですが、諸元・所属は不明。残り2隻は武装護衛艦で、片方がアレクトリス・グループ標準型ミサイル艦、もう1隻はクリストファー・ダイナミクスのヘリ母艦機能付き護衛艇かと」
 報告が続く。エリーアスにとっては、舌を巻くしかない。僅か数分で、必要な調査を一度に行うエメリナと、それを補助したパーシーの手並みは、新人の自分には到底及び付かないことを再認識していた。
「距離、距離は推定6.2海里(11.5km)ほど。対象艦はおそらく投錨停泊しての海底調査中。本艦は機関を停止していますが、海流の関係で0.6ノットほどで接近しています。このまま行けば、20時間ほどで接触することになります」
「本海域の深度は」
「おおよそ470mほどの筈、ですな」
 パーシーが海路図を見ながら応じる。探査用のソナーを使えばある程度、正確な数字は得られるけれども、同時にそれは周辺の艦艇に、自分たちの存在を知られるリスクが高い。10ヶ月で、それくらいはエリーアスにもわかるようになった。
「ふむ……。潜水して着床するのは難しいか。投錨する手はあるが、騒音は出るな」
「そもそもあいつら、どこの所属でしょうかねぇ。混成軍みたいな編成のようですが」
 軽口を叩くようなノリで、フェリシアンが言う。
「さぁな……。あるいは友軍かもしれんが」
 ブレンダン艦長が、これまた、天気の話でもするように軽い口調で応じる。
「艦船なんざ、陸につけてる時は、あっさり拿捕されるものですからなぁ」
 フェリシアンの指摘は、事実そのままだ。
 エリーアスが知る限り、ここ数年の間で、停泊中に基地ごと接収された、或いは戦闘にすらなる前に包囲されて投降した艦船数は、グループ内の報告で公表されているだけで10隻以上だ。それらの大半は、クリストファー・ダイナミクスやEAAのグループ企業によって、実戦運用されていることが確認されている。
 もちろん、逆に、自分たちアレクトリス・グループも、敵対企業の艦艇を鹵獲・運用している。そこはお互い様だ。だからこそ、艦影や形式、表記だけでは、その所属を判断することはできない。
「アレに友軍確認を投げてみる?1/3の宝くじに賭けてみる感じだけど」
 エメリナ皮肉な表情で言う。そんなことをするわけはないわよね、と言いたげに。
 彼女の言う「ハズレの2/3」は、敵にこちらの存在を知らしめた上、捕捉されることを意味する。
 その声は半ば無視するように、ブレンダン艦長が話を纏める。
「よし、当面は現状維持にて、様子を見よう。パーシー、エリーアスは自室にて休息、セベロとエーレンフリートも自室に待機を頼む」
「ほいさ」
 肩をすくめて部屋を出て行こうとするパーシー、それに続いて、無言で微笑を浮かべるエーレンフリート、困惑顔のセベロが出て行こうとする中。
「あの」
 勇気を出してエリーアスが声を上げる。自分自身がどうしてそんなことをしたのかも、理解できなかった。衝動とでも言う他はなく、言ってから盛大に後悔するが、もう遅い。
「なんだね、新人」
「その、シフトは自分ですし、ブリッジで状況を見学したく。仕事を覚えたいので」
 ブレンダン艦長の眉が片方だけ、少し動く。
「君はもう少しやる気の無い新人だと思っていたが、どうやら失礼な評価をしていたようだ。許可する」
 最早、後には引けない。なんで自分がそんなことしたのやら。


■6月11日 18時55分(UTC+6)
「動かんですなぁ」
 潜望鏡を覗き込んでいた、フェリシアンがのんびりとした声で言う。
「完全に停泊を決め込んでますわ、相対速度は今のところ変わらず。相対角度355度、平均0.61ノットで接近中。このまま行くと、17時間10分後の最接近点が、奴らから0.2海里(約350m)ぐらいになります、危険距離ですな」
「今のところMBES含む、各種ソナーを使用の形跡はなし。距離が離れすぎているので、アンノウン艦隊が機関を動作させているかは不明です」
 聞かれる前に、というぐらいの様子でエメリナが言う。
「MBESのついでにこちらを捕捉された、可能性はどうだろうか」
 艦長がつぶやく。
「まぁー、無くは、ないでしょうがねぇ。それにしちゃ消極的すぎる気もしますな」
「近くに不明潜水艦が居たら、まだ明るいうちに、対潜爆雷装備でヘリを哨戒に出すあたりが無難かしら」
「完全に暗くなるまで、あと30分程か。その時間が過ぎれば、むしろ潜水艦である我らが有利になるな」
「爆雷装備を持っていないのか、敵艦が無能なのか……それよりは、気がついてないってだけのが高いってとこだろうなぁ」
「消去法でそうなる、わね」
「ヘリ母艦に積んでいるものが、テウルギアやマゲイアの可能性は?」
 艦橋の壁に寄りかかり、腕を組んで黙っていたミハエルが口を開く。それは質問の形をとっているが、実質は確認だった。
「あの艦は、格納庫の高さは5m程度しかない。マゲイアにせよテウルギアにせよ、即時稼働できる状態での収納はできないな」
「となると、こちらに気がついていない可能性が高いのは確かだが」
「歯がゆいもんですな」
「何かしたら藪蛇になるオチしか見えない、ってのが尚更ね」
 胃がキリキリ痛む。平穏な仕事、とは何だったのか。いっそ逃げ出したい。
 ――逃げる?
「……あの」
 エリーアスが口を開く。
「いっそ、逃げませんか?」
「逃げる、ねぇ?」
 揶揄するわけではないが、本気という感じもなく、フェリシアンが答える。
「そりゃまあ、選択肢ではあるが……しかし、どこに逃げる?」
「このまま方位270方向にまっすぐ直進し、インド半島まで、というのはどうでしょう」
「だいたいスリランカ島の北あたりに出るわね。ベンガル湾を横断して、500海里弱、ってとこ?静音重視で動いて30時間ぐらいかしら」
「気象情報は入手しているかね?」
 ブレンダン艦長が問う。
「3週間前のしかないですな。ハリケーンに遭ったりすると割とややこしいことになります」
「考え方として、新人の意見は悪くないが」
 エリーアスは少しだけ、艦長の視線が普段より優しいように感じた。この後に続く言葉が否定であると、なんとなく察してはいたが。
「今は乾季と雨季の境目にある。モンスーンも不安定だし、海流も然りだ。リスクは避けるべきだろう」
 落胆3割、褒められた喜びが7割、といった感じだった。
 艦に配備された直後は、何かにつけ、頓珍漢なことを言ってしまって怒鳴られてばかりだったことを考えれば。
 たとえ総合的に否定されるにせよ、一考に値する程度のことが言えるようになっただけでも、自分の進歩が感じられる。ブリッジに残って、良かったと思った。ちょっとゲンキンな考えかもしれないけど。
「とはいえ、新人の言うように、戦闘艦ならざる我々は基本的に、逃げるのが得策だ。よし、1時間ほど機関停止して様子を確認。しかる後、20:00時をもって、それまでに不明艦隊に動きがなければ、低速航行ですり抜けようと思う。方位および速度はその時点で検討する。できれば夜が明ける前にこの海域を離脱すべきだ」
「了解、蓄電池系の最終点検をしておきます」
 割と沈黙を保っていたバルブロがおもむろに言い、席を立った。
 正直、エリーアスはこの人のことを、たまに忘れる。それくらい、意志決定には興味を示さないのだ。仕事中毒で、誰かの体調不良時に率先して動くなど、人一倍働いてはいるのだけど、積極性とはちょっと違う。
 なんというか「歯車として、自分が居るシステムが円滑に運用される」ことに喜びを感じる人、に見える。そういう人にとっては、船員というのは天職なのかもしれない。
「よし、点検後は電源系の手動切り替えを行うかもしれん。そのまま機関室で待機せよ。……新人、仕事だぞ」
 ブレンダン艦長がニヤリと笑い、空席になった助手席に目をやった。
「あっ……ハイ」
 言われるがままに、助手席に座る。
 ……もしかして、勤務時間おもいっきし追加か?こりゃしくじったか?
 先ほどの高揚が吹っ飛んで、またちょっと胃に重いものがこみ上げてきた。

 長い夜が、始まろうとしている。
最終更新:2017年08月16日 19:58