本編
+ | メイクデビュー |
これはある少女の夢のおはなし。
王子様と出会って、恋をして── 別れてしまう悲しい『夢』のおはなし。
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デビュー戦当日の朝。
「おはようエスキモー。レース当日なのにご飯作ってもらって悪いな」
「いいの。もうこの生活に慣れちゃったから。はい、ご飯とお味噌汁と玉子焼き。もう少しで鮭も焼けるからちょっと待っててね」
デビュー戦の前日から私はトレーナーの実家にお邪魔していた。阪神レース場でのレースだから、本当だったら近くのホテルに泊まらなきゃなんだけど、こっちの方が私が安心できるからってことでトレーナーが気を遣ってくれた。
「……はい、鮭も焼けたよ」
「ありがとな……じゃあ」 「「いただきます!」」
──2人にとって大切な1日が始まる。
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レース直前の控え室。朝は全然緊張してなかったのに、控え室に入っていよいよだと思うと、なんだか心臓のドキドキが全然止まらなくなってきちゃった…… 「やっぱり緊張するなあ……」 「だ、だ、だ、大丈夫かエスキモー。お、落ち着いていけば大丈夫だから」 「ふふっ、私よりトレーナーの方が緊張しちゃってない?」 「そりゃトレーナーとして初めてレースに担当を送り出すんだから緊張するって……」 「走るのは私なんだけど?」 「そ、そうだな……オレが緊張してる場合じゃないよな……励まさないといけないのに」 「そうだよトレーナー。トレーナーに緊張解いてもらわないと私負けちゃうかも」
実はトレーナーが私以上に緊張しているのを見ていたらとっくに緊張は解れちゃったんだけど……トレーナーは気づいてないみたいだし、ちょっと意地悪しちゃおっと。
「……よし分かった。エスキモー、ちょっとこっち来てくれ」
「ん、どうしたの? 緊張が消えてなくなっちゃう魔法でも……わっ!?」 「エスキモーなら勝てる勝てる……今まで練習を見てきたオレが保証する」 「もうっ、急に抱き締められるからびっくりしたじゃない……でもありがと、元気出た。私、勝ってくるね」 「よしっ、じゃあ行ってこい!」
控室のドアを開け勢いよくコースに向かって駆けていく。負けることなんて想像できない。勝つことだけを胸に秘め、脚は前へ前へと駆けていく。これまで見ているだけだった眩しい世界に一歩を踏み入れた私は今──
─────
『さあ全員がゲートに収まり……スタートしました! 全員いいスタートを切りました』
今日のメインレースは宝塚記念。そんな日に行われるメイクデビュー芝1800mのこの一戦は出世レースと言われていて、これまで数多くのG1ウマ娘を輩出してきた……去年のエスキーもその1人。彼女は今無敗のまま2冠を制していて、メジロ家初のクラシック3冠なるかと学園だけじゃなくいろんなメディアに取り上げられている。
(……違う違う! 今はあの子のこと考えてる場合じゃない! 今目の前のレースに勝たなきゃ駄目なんだから!)
『最初の400mほどを過ぎたところで隊列が徐々に縦長になってきました。注目の1番人気メジロエスキモーは前から3、4番手の位置でレースを運んでいます』
『メイクデビューは当然みんなレースが初めてな子ばかりだから他のレースと比べてペースは落ち着きやすいんだ。後ろに位置取ると差し損ねることも多い。だから今日は少し前でレースを進めよう』
(ってトレーナーは言ってたっけ。競りかけてくる子もそんなにいないみたいだし)
『前半の1000mは……1分3秒ほど。ここまではスローペースで流れていますが、果たしてここからどうなるのでしょうか』
1000mを過ぎ、残り600mが近づく辺りでグンとペースが上がる。徐々に前と後ろの距離が縮まり団子状態になってきたところで、
(よし、ここっ!)
後ろの子たちに飲み込まれないよう、一気に踏み込みスパートをかける。他の子も私に負けじとラストスパートをかけてくるけど……
(エスキーと走る時と比べたら全然余裕よっ!)
あの子と何度も併せて走った。走るたび負けて、負けて……それでも食らいついていった心が今脚を動かす原動力になっている。そう、鍛えたのは脚だけじゃない。絶対に負けないという強い意志。
(走れ走れ走れっ! まだまだこんなもんじゃないでしょっ!)
『直線に入りここで一気に抜け出してきたのはメジロエスキモー! チョコチョコやミニペロニーを交わして先頭に立った! 後ろからスターリープライドやサラサーテオペラ、ベーサルシュートも上がってくるが……』
先頭に立った私を目がけて一斉に足音が迫ってくる。だけど……だけど……
(これから負けることもある。けど、今日のこのレースだけは誰にも譲らないんだからっ!)
『……! またメジロエスキモーが伸びる! 残り200mを過ぎて後続に2バ身、3バ身、これはセーフティーリードか!』
「あああああああああああああああああああっ!!!」
『……ゴール! 注目のこの一戦、制したのは去年に続いてメジロ! メジロエスキモーですっ!』
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「勝った……やった!」
G1ほどじゃないけれど降り注ぐ歓声と拍手の音。何度も何度も観客席に頭を下げながら地下バ道へ引き上げていく。
「お疲れさま、エスキモー。そしておめでとう」
地下バ道の入口で待っていたのはトレーナーだった。
「ありがと、トレーナー。私、勝ったよ」
「作戦通りだったな。最後まで伸びてたし、これから距離も伸ばしていけそうかな」 「だったら私クラシック路線走りたい!」 「オレも同じこと考えてたよ。君のその末脚、もっと多くの人に見せつけたい」 「そのためにもトレーニングしなきゃなんだけど……」 「だけど……?」
せっかく勝ったんだしちょっとぐらいわがまま言っても、いいよね?
「勝ったご褒美、欲しいな……だめ?」
ちょっと目をうるうるさせて上目遣い作戦。エスキーのには負けるけど私だって……!
「そんな目しなくても元々何かするつもりだったからな……で、そこまでするには何かしてほしいことあるんだよな?」
あっ、とりあえずトレーナーからご褒美欲しい一心だったから何も考えてなかったし……えーっと、えーっと……
「もうすぐ夏でしょ? お祭り一緒に行きたいな。2人で浴衣着て、さ」
「そんなんで良いのか? もっとこう……言ってくれても良かったのに」 「……えっちなことでも?」 「調子乗らない!」ペシッ 「痛っ……チョップすることないでしょっ!」 「当たり前だ。周りに聞かれたらどうするんだよ……」 「そのときは、ほら、『私たち付き合ってますー』って言えばいいじゃない?」 「それとこれとは次元が違うんだよ……というかそういうのは卒業してからって話だったろ?」 「まあ、うん、そうだけど……分かった、我慢、するね」 「(我慢するのはオレもなんだが……)分かってくれたならよし。じゃあ一旦控え室に戻って休憩。軽く反省会したらすぐウイニングライブ。最後まで頑張れな」 「……全力で走ったあとに歌って踊れって誰か考えたんだろ……」 「気持ちは分からんでもないが決まってるものは仕方ない。可愛いところ見せてくれ」 「……うん、がんばる」
トレーナーにそこまで言われたら仕方ない。あんまり得意じゃないけど気合い入れて頑張りますかっ!
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阪神5R メイクデビュー阪神(芝・外回り1800m) 1着 メジロエスキモー 1:48.9 2着 ベーサルシュート 5バ身 3着 スターリープライド 1/2バ身 4着 サラサーテオペラ クビ |
+ | 東スポ杯ジュニアS〜ホープフルS |
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『──最後はメジロエスキモーが交わしきったところでゴールイン! 無傷の2連勝を飾りました!』
騒がしい夏を越え、迎えた秋初戦。メイクデビューとは違い速い流れにレース序盤は少し戸惑うも、最後は差し切り1着。テレビでは暮れのG1や来年のクラシックに新星誕生だなんて盛り上がってる……
「って思ってたんだけど……はぁ……」
注目されるのはちょっと体がむず痒くなるからそんなに好きじゃない……好きじゃないんだけどさ……
「どうした、そんな深いため息なんかついて。重賞勝って、次はG1だって時に」
「私だってたまには、そうたまには注目されたいんだよ? でもテレビじゃずーっとあの子のことばっか……流石にちょっとヘコんでもいいじゃん……」 「あー……まあでもあんな勝ち方したらなあ……」
私が東スポ杯ジュニアSに勝つ少し前、あの子、つまりエスキーが無敗で3冠を達成した……しかも大差で。
「『史上最強の3冠ウマ娘誕生か!?』とか、『日本のウマ娘がついに凱旋門賞を!?』とか、そんなニュースばっかり。ちょっとは私のこと気にしてくれてもよくない?」
「オレはずっとエスキモーのことしか見てないけどな」 「……っ! そういうことじゃないわよ、バカ……というか他の子もちゃんと気にしてくれないと。レース本番どうするのよ」
トレーナーからの突然の告白に燃えるように熱くなる私の顔。普段そんなストレートに言うことないのに、なんでこんな時に限って……もうずるいっ。
「そこはちゃんといつもやってるから。オレは君にたくさん勝ってほしい。そして大舞台でも君だけが持つ光、輝きをいろんな人に見てほしい。だから今は……な?」
トレーナーの手が優しく私の頬を撫でる。その温かい手に自分の手をそっと重ねて、
「……ありがと、元気出た」
「良かった。じゃあ今日もトレーニング頑張るか!」 「うんっ! ビシバシ鍛えてよね!」
やる気復活! 次のレースも勝って今度こそみんな私に注目させちゃうんだから!
……その時は次もG1だけど勝てちゃうんじゃないかって、相手がどれだけ強くてもエスキーと比べたらそうでもないんだからって、そう思っていた。
──私は、私たちは、まだレースの過酷さを知らなかった。
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年末の大一番、有馬記念。私とトレーナーは勉強、というよりエスキーの応援のために中山レース場まで足を運んだ。
「出走者は……やっぱりみんな凄いね。G1勝ってる子が何人もいる。この子は秋の天皇賞勝ってるし、こっちの子は去年の2冠ウマ娘……」
「まさにグランプリだな」 「そうだね。来年は私もこの舞台に……!」 「その意気やよしっ! もちろんオレも頑張らないといけないな」
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そしてレースが始まり──
『──さあ最後の直線に入り残り300mを切ったところで……おっと、ここでメジロエスキーが抜け出す抜け出すっ! 2番手、3番手が必死に前を追うが届きそうもない! 無敗の3冠ウマ娘、今1着でゴールイン! この走り! この強さ! この子にとっては有馬記念すら通過点なのかっ!?』
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レース後控え室にて。
「ほんっとに凄いよっ! エスキーおめでとーっ!」
「エスキモーちゃん、ありがとうございますっ!」 「これでG1も5勝目だっけ? 羨ましいなあ……」 「羨ましがってばかりじゃ駄目ですよ、エスキモーちゃん。頑張って自分の脚で勝ち取っていかないとっ!」 「言われなくても分かってるって……でもちょっと不安になってきちゃってさ……」 「? 何かあったんですか?」 「今度私ホープフルS出るでしょ? そこにすっごく強い子が出るって聞いてさ。『どんな子が出てきても負けないから!』って思っててもやっぱり少し怖くて……」
ポツリポツリと言葉を紡ぎ、心の中のモヤモヤっとしたものを吐き出していく。どうしてなんだろう。前から不思議に思っていたんだけど、この子にはなぜか自然に悩みを打ち明けることができている。単に仲がいいからということじゃなくて、同じメジロだからということでもなくって。それ以上の何かをこの子からは感じてしまう。
「大丈夫ですよ、エスキモーちゃん。エスキモーちゃんが凄い、凄いって言ってくれる私だってレース前はちょっぴり怖くなっちゃうんですよ? みんなエスキモーちゃんと同じです。そこからどう動くか次第ですよ。エスキモーちゃんはいっぱい頑張ってますから、きっと乗り越えられるはずですっ」
「そう、かな……?」 「エスキモーちゃんといっぱい走ってる私が言うんだから間違いないですっ! だから、ねっ?」 「……ありがと、ちょっと勇気出た」 「怖くなったらいつでも頼ってくださいねっ!」 「うん、そうする……なんだかエスキーお姉ちゃんみたいだね、私の方が大きいのに」 「もうっ、最後の一言余計ですよーっ! いつかエスキモーちゃんのこと追い抜いてみせるんですからっ!」 「ふふっ、楽しみにしてるね」
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それから2人でチームのみんなのこととか、冬休みどうしよっかとか他愛もない話をしていたら……気のせいかな、なんだか一瞬家に帰ってきたかのようなそんな暖かい空気がこの控え室に満ちた気がした。場所も雰囲気も一緒にいる人も全然違うのに。
──この日はなぜかまだ小さかった頃にパパに褒められた時の夢を見た。
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そして迎えた最初の大舞台、ホープフルステークス。 そこに私は2番人気で臨むことになった。1番人気は……
『今年のホープフルステークスのイチオシウマ娘はなんといってもこの子! サートゥルヌス! デビュー前から注目を集めていましたが、その前評判のとおりメイクデビューをあっさり勝つと、続くオープン特別でも楽勝。今回初めての重賞、G1になりますが一体どんな走りを私たちに見せてくれるのでしょうか!』
控え室にあるテレビからレース評論家の人が興奮した様子でそう話しているのが聞こえてくる。他の出演者も反論せず。最後の方にかろうじて名前を挙げてくれたけど、それでもあくまで2番手評価。なんだかやるせないな……
「いやいやそうじゃない。人気なんて、注目されてるかなんて関係ない! 絶対勝ってやるんだから!」
「そうだ、その意気だ。トレーニングもしっかり重ねてきたし、精一杯走ってこい!」 「うん、行ってくる!」
気合いを入れ直し、控え室からいざ出陣。負けてやるもんですか。
─────
『──続いてターフに登場したのは2番人気メジロエスキモー。見事な差し切り勝ちを決めた東スポ杯ジュニアSからの参戦です』 『去年のこのレースは同じメジロ家のメジロエスキーが勝利を飾りました。今年もメジロのウマ娘が年末最後の大一番を制するのか、非常に楽しみです』
ワァアアアアアアアアアッ……
ターフに現れるやいなや無数の人から降り注ぐ歓声、応援。何度ここに立っても緊張するけど、これだけ多くの人が私のことを応援してくれるなら、なんとかなるかもって勇気がふつふつと湧いてくる。
(いっぱい吸ってー……吐いてー……よしっ、大丈夫!)
勇気を胸に、だけど頭はクールに。そして全てをこの脚にかけて──
『──そして最後に登場するのは、堂々の1番人気! サートゥルヌス! 来年のクラシックに向けてここも通過点としてしまうのか!?』
大注目のあの子にだって、負けない。
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『さあ最後に大外アグニセーダイがゲートに入りまして態勢完了……スタートしました! 5番のサートゥルヌス良いスタートを切って前へ前へと取りついていきます。そして2番人気メジロエスキモーも良いスタートを切りましたが、スッと下げて中団外目につけます』
(よし、悪くない位置。ここならあの子を見ながらレースを進められる。外々を回ることにはなるけど、切れ味だけじゃなくてスタミナだって坂路や長距離ジョグで鍛えてきたから大丈夫。最後に捲っていけば……!)
(よし、事前に話したレースプラン通りの位置につけられたな、エスキモー! その位置なら極端にスローペースじゃない限り大丈夫だ! あとは1番人気のあの子は……あの位置はもしかして他の子に包まれるんじゃないか?)
『──さあ早くも向こう正面に入りますが、ここで迎えた最初の1000mは……1分2秒ぐらいで通過したでしょうか、少しゆったり目。相変わらず1番人気サートゥルヌスは前から3番手でレースを進めていますが……おっと、ここで中団に控えていたメジロエスキモーが少しポジションを上げました。ペースが遅いとみたんでしょうか。前から5番手ぐらいまで押し上げていきました』
(みんなも少しゆっくりなのは分かってるけど、あの子と追い比べになるのを避けたいからなかなかペースを上げられなかった……のかも。でも私が少し揺さぶってあげたら……)
(*1))))
(!? みんな一気に上がってきた!? 僕包まれて……!?)
(よし……!)
『4コーナー手前、ここで各ウマ娘一斉に上がってきました! 1番人気サートゥルヌスはバ群の中にいるぞ!』
片や内々でレースを進めたもののバ群の中、片や少し外目を回ったものの前には誰もいない。
(この勝負……もらった!)
─────
『──さあ中山の短い直線310m! ここで抜け出してきたのはメジロエスキモー、メジロエスキモーだ! 今年もやはりメジロなのか!?』
(よし、このまま! 1番人気は取られたけど、1着は私が……!)
「そうはさせないよ……!」
「えっ、いつの間に……!? どうやってあのバ群を!?」 「そう簡単に僕を負かせると思わないでほしいなっ!」 「……っ!」
『──おっと! ここでサートゥルヌス、バ群を捌くやいなやあっという間に先頭に並んで……交わした! 先頭に立って、今ゴールイン! 無敗対決は1番人気サートゥルヌスに軍配! 1バ身差の2着は2番人気メジロエスキモー! こちらも直線勢いよく抜け出しましたが、最後はサートゥルヌスに差し切られてしまいました!』
「ハァ……ハァ……完璧、だったのに……」
そう、レース前にトレーナーと考えたプラン通りにレースは進んでくれた。しかも終盤にあの子がバ群に包まれるラッキーも重なった瞬間は思わず笑みが零れそうになったぐらい。でも……でも……!
「エスキモーちゃん、だっけ。お疲れ様、良いレースだったよ」
「サートゥルヌスさん……」 「4コーナーではびっくりしちゃったな。もしかして狙ってた?」 「……たまたまよ、たまたま」 「ふぅん……たまたま、ね。でもバ群割れた時はすっごいワクワクしたなあ……! ねぇ、もちろん君も来年はクラシック出るんだよね?」 「当たり前でしょ。負けっぱなしは嫌いだから」 「そっか、次走るときも楽しませてね、可愛いメジロのお嬢さん」
そう言い放つと、彼女は観客の声援に応えながら地下バ道へ去っていった。まるで王が街に凱旋するが如く。
──私はその光景をただただ惨めに見つめることしかできなかった。
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控え室に戻ってもただ、ただ無言の時間が続く。最後の直線、運も手伝ったけど内に1番人気のあの子を封じ込めた上に私の前に広がったのはただゴールだけ。あとは思いっきり走れば勝てる、そのはずだったのに。
最初に沈黙を破ったのはトレーナーの方だった。
「……なあ、エスキモー。レースは明日振り返ろう。とりあえず2着お疲れさま」
「……ありがと、トレーナー。そう、だね……反省会は明日ゆっくりトレーナーの家でやりたいな。せっかくの年末年始だから一緒に過ごしたいし」 「オレはいいんだが……エスキモーは家族と過ごさなくていいのか? 今のレースプランだと次のレースまで間隔空くから、実家でゆっくり羽根でも伸ばしてきたらどうだ?」
その質問、かあ……
「あー、うん。それは大丈夫。トゥインクルシリーズでのレースが落ち着くまで家には帰らないって決めちゃったし。今はメジロのお屋敷でゆっくりできるから」
「そうか? だったらオレもそうしようかな。エスキモーが実家帰らないのにオレが1人帰るわけにはいかないから」 「いやいや、私なんか気にしないで帰省していいから! ……というか私も一緒に行っちゃ、駄目?」 「そんなこと言うわけないだろ。こっちはあとで母さんに連絡しておくから、エスキモーも行く準備は進めておくこと。いいな?」 「やった! ありがと、トレーナー!」
話を逸らしたのをトレーナーは気づいただろうか。本当は気づいていたけど、トレーナーは優しいから気づかないふりをしてくれたのかもしれない。
そもそも今の私にとって実家に帰る、帰らないの話はナンセンスだ。
──だってこの『世界』に私の実家も家族もいないのだから。
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+ | 年明け〜共同通信杯 |
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年が変わり、トレーナーとともに学園に帰ってきた。トレーナーは挨拶回りだとか用事があるとかで寮の前で別れ、1人部屋に戻ってきた。
「ただいまでーす」
「おかえりなさいッス、エスキモーちゃん。あけましておめでとうございますッス」 「あけましておめでとうございます、カジっちゃん先輩。先輩は年末年始実家帰ってたんでしたっけ?」
この人は私と同じ部屋の高等部のシュウマツノカジツ、カジっちゃん先輩って私は呼んでる。初めて会った時は少し、というか凄く?警戒されてたんだけど、同じ部屋で過ごしていく中で高等部と中等部の垣根を越えて次第に仲良くなれたんだよね。最初の頃は2人で遊びに行くなんてこと考えられなかったなあ……
「そうッスそうッス。家族で集まってゆったりまったり年越ししてたッスね。まあ年越しの瞬間は1人でゲームしてたンスけど」
「ふふっ、カジっちゃん先輩らしいですね。ちなみに今回も年越しラーメンだったんですか?」 「もちろんッスよ。家族には相変わらず少し怪訝な目で見られるッスけど」 「まあカジっちゃん先輩からラーメン取り上げたら何も残らないですからね」 「ちょっ、エスキモーちゃん!? 私からラーメンが無くなってもゲームとかいろいろ残るッスよ!?」 「えー、そうですかぁ?」 「そうッスよ、もう!」
いつもと変わらずに先輩にも関わらずからかってしまう。相手が受け入れてくれてるから大丈夫だと思うんだけど……って受け入れてくれてるよね?
一旦話を切って、今日の予定について切り出す。
「カジっちゃん先輩って今日トレーニングするんですか?」
「軽めだけどやるつもりッス。そういうエスキモーちゃんは?」 「トレーナーからは帰ってきたばかりだしやってもやらなくてもいいって言われてるんですけど、カジっちゃん先輩がやるんなら私もしようかなと」 「じゃあせっかくだし一緒にやるッスか?」 「やった! って半分そのつもりで話振ったんですけどね」 「そういうところ上手いッスよねー じゃあ早速準備進める?」 「……1回ベッドで横になってもいいですか?」 「起きられなくなっても知らないッスよ! 私は着替えて先行ってるから後でちゃんと来るンスよ」 「はーい、すぐ行くようにしまーす」
カジっちゃん先輩が横で着替えている中パタリと仰向けでベッドに横たわる。寮のベッドが恋しかった訳でも疲れていた訳でもないけれど、トレセンの学生モードに頭と体を切り替えるスイッチを押したかった。
──トレーナーの家でいろいろあったから。
(駄目駄目思い出したら! レースに頭切り替えないとなんだから!)
年末年始の記憶を弾き飛ばすように少し左に右にと頭を振る。傍から見るといきなりブルブルと震えだした私を怪訝な目で見つつ、いつの間にか着替え終わっていたカジっちゃん先輩が私を現実に引き戻すために少し大きめな声で呼びかけてくる。
「じゃあ行ってくるッスねー 早めに来るンスよー」
「……はっ! はーい、すぐ行きまーす!」
そうして我に返った私は荷物の整理をそこそこに、急いでジャージに着替えてコースに向かうのであった。
─────
(ゴールまであと600mほど……カジっちゃん先輩とは5バ身差……よしっ、ここで仕掛ける!)
力強く足を踏み込み前へ。先を行くカジっちゃん先輩の姿が少しずつ大きくなっていく。4バ身、3バ身、2バ身……ただカジっちゃん先輩の方も簡単には抜かせまいと必死の粘り込みを見せる。
「まだまだエスキモーちゃんに負けるわけにはいかないッスよ……!」
再び私との差を引き離そうと加速するカジっちゃん先輩、それに対して一気に捉えんとする私。
必死の攻防が続く中、残り200mの標識に差しかかる。前との差は1バ身ほど。これなら……!
(エスキーみたく、もう一度ここで……!)
2度目のスパート。もちろんあの子の最後の伸びと比べたら大したことはないけれど、それでも徐々に差は縮まっていき、そして──
「ゴール!!! はぁはぁ……ふぅ……」
「はぁはぁ……カジっちゃん先輩、軽めって言ってたのに全然軽めじゃないじゃないですかぁ!」
2人並ぶようにゴール位置になだれ込み、一息二息と呼吸をお互いに整える。実際のレースだったら写真判定になるんだろうけど、あくまでこれはトレーニングだから同時に入線した扱いで締めくくることにする。
「はは……最後交わされるのもなんか癪だと思ってつい……というかそういうエスキモーちゃんも全然年明け初めてって感じじゃなかったッスよね!?」
「いやぁ、私も最後流してもよかったんですけど、練習でも負けるの嫌だなって思っちゃって……あはは……」 「私たちウマ娘ッスからね、当然かもしれないッス」 「ですね。ただ本番前に全力出しちゃわないようには気をつけないと……」 「そうッスね。ちなみにエスキモーちゃんの次のレースってどのレースなンスか? もしかして皐月賞直行したり?」
その質問に対して私は大きく頭を振る。
「レース経験が浅いのにクラシック級のこの時期にいきなり間隔を空けて本番に臨むのはどうかなってトレーナーと話になって、来月の共同通信杯から始動することにします」
「今じゃクラシックレースの登竜門になってるレースッスね。ちょうどホープフルSと皐月賞の真ん中だからちょうどいいんじゃないッスか?」 「はい、最初は弥生賞はって話になったんですけど、舞台経験は済んでますし皐月賞との間隔も少しだけ狭いですから、ダービーのことを考えてもう一度東京のコースを走った方がいいんじゃないかって」
東京のコースは去年東スポ杯ジュニアSで走っている、しかも共同通信杯と同じ距離を。舞台経験だけでいうなら絶対走らなきゃいけないレースじゃない。ただこのレースには近頃大舞台を目指す子たちが多く集うようになってきている。おそらく私たちと同じ考えなのだろう。皐月賞を狙うにせよ、その先のNHKマイルCやダービーを見据えて出走してくるメンバーばかり。つまり、
「ここで勝たないとクラシックレースを勝つなんて夢のまた夢。当たり前だけどしっかり調整して挑みたいんです……ってちょっと熱くなっちゃいましたね、ごめんなさい」
「いいンスよ、それぐらい熱くなくちゃ応援する側も困るってもんッス。頑張るッスよ、エスキモーちゃん!」 「はい!」
そう駄弁っているうちに体の火照りも収まり、少し風が冷たく感じてきたから少し駆け足でシャワーを浴びに行き部屋に戻る。
──次のレースも頑張らなきゃ!
─────
そして迎えた本番、G3共同通信杯。舞台は東京芝1800m。曇り空が続いたこの時期にしては珍しく、この日は快晴の下レースが行われることとなった。未来のスターウマ娘を一目見ようとお客さんも多く詰めかけている。その中には私の応援に駆けつけてくれたカジっちゃん先輩もいる。ゲート前のこの位置からだと少し遠くて見えないけれど、綺麗なお団子を頭に乗せて見守ってくれていることだろう。もちろんトレーナーも静かに見つめてくれているはず。
「……よしっ! 頑張るぞ!」
レース前の想定通り大舞台を目指す猛者たちが多く出走するこのレース。無敗のジュニアチャンピオンや年末のG1には出ずこの春に全力をぶつけようとする強者の姿も見える。その中で私は2番人気に支持されていた。同じ舞台で勝っていることや敗れたもののあと一歩まで迫った前走を評価してくれてのことだろう。ここは純粋な気持ちで受け取りレースに向けて集中力を高めていく。実況の声も意識から追い出し、ゲートへ向かう。
『さて最後に大外8番メジロエスキモーがすんなりとゲートに収まり態勢完了……スタートしました!』
各ウマ娘出遅れもなく横一線にゲートを出るが、徐々に隊列が崩れていく。ここで先頭に立ったのは……
『おっと! 先頭に立ったのはなんとジュピターです。ジュニアチャンピオンのジュピター、まさに来るなら来いと言わんばかりにレースを引っ張っていきます!』
誰も前に行こうとする子がおらず、結局これまでのレースを比較的前目で運んでいたジュニアチャンピオンが前に立った形になった。そして2、3番手ぐらいに現在無敗で2連勝中のクイーンリーが続く形。私はその2人を見るように少し外側の4番手辺りで前を追走している。少人数のせいか少しゆったり目に流れているペース、このままだと前がそのまま残ってしまう。
(でも仕掛けるタイミングが早すぎても今度は後ろから差されちゃう。だったら動くのは……!)
『──さて3、4コーナー中間地点を過ぎ、最初の1000mは61秒ぐらいで通過したでしょうか。ここから徐々にペースが上がっていきます。先頭は変わらずジュピター。さあ、レースは最後の4コーナーに向かいます!』
(800……まだもう少し……700……少し後ろから迫ってくる圧を感じる。だけどもうちょっと我慢)
『各ウマ娘第4コーナーに差し掛かり残り600mを過ぎます!』
(ここ……!)
みんながスパートをかけ始める中ワンテンポ遅らせて一気のスパート。その分前とは少し開いちゃったけど、私の脚なら交わしきれる!
『さあ直線に向いて変わらず先頭はジュピター。それを内から捉えにいくクイーンリー。残り400mを切ったところでこの2人が完全に抜け出……いや、外から1人飛んできたぞ!?』
後ろを完全に突き放した内の2人のレースになるのかという考えが観客たちの頭をよぎったその刹那、バ場の外側を私は一気に駆け上がっていく。
(思ってたより2人の伸びがいい……少し侮っちゃったかも……いやそれでも!)
『残り200mを切って内から抜け出したのはクイーンリー! ただし外から、来たぞ来たぞ、メジロが来たぞー!』
(いくら前哨戦だからって私は負けない……!)
残り100m、前との差は1バ身を切ったところ。3人、いや2人の追い比べに変わり、最後の踏ん張りどころ。
『逃げるクイーンリー! 迫るエスキモー! 交わすか!? 交わすか!? 2人並んでゴールイン!』
最後は内外離れて2人ゴールになだれ込んだ。一見だけでは分からない接戦。しかし結果は──
『さあゴールの瞬間のストップモーションがスクリーンに映し出されます……これはわずかに外! メジロエスキモーが制しているように見えます!』
「はぁ……はぁ……勝った……!」
結果はハナ差で私の勝利。春の大舞台に向けて最高のスタートを切ることができた。
「エスキモー!」
「エスキモーちゃーん!」
勝者を称える歓声の間に聞き覚えがある声が耳に届く。男性の方はトレーナー、女性の方はカジっちゃん先輩かな。
息を整えつつその声の主たちの元に足を向けハイタッチを交わす。
「いえーい!」
「おめでとうッス、エスキモーちゃん!」 「ありがと、カジっちゃん先輩。トレーナーもありがとね。2人一緒だったんですね」 「前の方で見ようとしたら見知った後ろ姿を見つけてさ、声をかけてみたら案の定だったよ」 「カジっちゃん先輩、お団子あるから分かりやすいですもんね。あとラーメンの匂いが体から……」
そうからかうように言うと、耳と尻尾をピンと張り体中の匂いを嗅ぎ始めるカジっちゃん先輩。
「えっ!? 私そんなに臭うッスか!? 昨日は抑えめにしたンスけど……スンスン……スンスン……」
「食べたことは食べたんですね……大丈夫ですよ、冗談です」 「もうっ、エスキモーちゃん!」 「ごめんなさいカジっちゃん先輩、ちょっとからかいたくなっちゃって」 「こら、先輩を弄るのも程々にしとけよー」 「はーい♪」
舌をペロリと出して片目を閉じ、ごめんなさいのポーズ。そうすると優しい、いや甘いカジっちゃん先輩は許してくれるのを私は知っている。
「しょうがないッスね……」
「ありがとうございます♪ じゃあウイニングライブも頑張ってきますね!」 「またあとで控え室でなー!」
トレーナーとカジっちゃん先輩に手を振り、ウィナーズサークルから地下バ道へ抜け、ウイニングライブの待機室に向かう。
「ライブも頑張らないと……!」
その決意が正しく体に伝わったのか、その日のライブは最高のパフォーマンスを発揮することができた。
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+ | エスキー海外初戦〜皐月賞直前 |
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その吉報がもたらされたのは皐月賞が2週間後に迫ったとある休日の夜のことだった。
『さあ各ウマ娘、最後の直線へと向かいます。おおっと、ここで先頭に迫ってきたのは日本のメジロエスキーです。さあ無敗の3冠ウマ娘がここで交わすか……交わした! リードを1バ身、2バ身、グングン広げていく!』
「「頑張れ、エスキー(ちゃん!)」」
その声援が届いたのか、さらに後続との差を広げていく。もうセーフティリードと言ってもいいぐらい世界のウマ娘たちを引き離している。
『これは強い! 日本のメジロエスキー、今圧勝でゴールイン! 初めての海外勢との対決、初めてのレース場、全く問題にしませんでした!』
「「やったー!!!」」
アナウンサーの興奮が伝播したのか、カジっちゃん先輩と私も顔が紅潮し、隣の部屋に響くぐらい叫んでしまう。ただ隣から苦情が聞こえない、というか隣の部屋からも歓喜の声が漏れ伝わってきている以上お互い様といった感じかもしれない。寮長も今日ばかりは見逃してくれるだろう。
「いやー、凄かったッスね、エスキーちゃん!」
「全然緊張してなかったし、これは先々も期待しちゃいますね!」 「ッスね! そういえばエスキーちゃんっていつから海外行くって言ってたンスか?」 「私が本人から聞いたのは菊花賞終わってからでしたね。『絶対に内緒ですよっ!』って言われて。もちろん本人が有馬記念のあと発表するまで誰にも言わなかったですよ」 「エスキモーちゃん口堅いンスもんね。そりゃエスキーちゃんだってエスキモーちゃんには教えてあげるはずッス」 「まあドーベルさんにはもっと早い段階で言ってたみたいですけど」
あの子にとって一番は間違いなくマm……ドーベルさん。そこにどうこう言うつもりはなくて、むしろその次が私なのがちょっぴり嬉しい。優越感じゃないけど、他の子と比べて少し特別に思ってくれてるってことだから。
「ドーベルさんも一緒に行ってるンスよね。いいッスねー、海外旅行。旅行じゃなくてレースッスけど」
エスキーを一人で送り出すのは気が引けたのか、それとも強く懇願されたのか、今回の長期遠征にはドーベルさんも同行している。しかも同じ部屋を借りて一緒に生活してるんですってそれはもう嬉しそうにエスキーから電話があったのを昨日のように覚えている。というか昨日も電話かけてきたし。のろけ話って聞く方は大変なんだね……
「私もいつか行けるかなあ……」
そうポツリ独りごちると、横から肩をポンポンと叩かれ静かに諭される。
「そんなに焦らなくてもいいッスよ。エスキーちゃんはシニア級、それに比べてエスキモーちゃんはまだまだこれからのクラシック級の子。早くても来年の話なのに今から悩んでるなんて鬼が笑っちゃうッスよ?」
「そう、ですね……皐月賞もまだなのに海外のことで考えこんでちゃ駄目ですよね……ありがとうございます、カジっちゃん先輩」 「いいってことッスよ。それじゃ明日もあるからぼちぼち電気消して寝ましょうか」 「はーい。じゃあテレビ消して電気も消してっと……それで……」
もぞもぞと布団に侵入する……カジっちゃん先輩のベッドの方に。
「はぁ、またッスか、エスキモーちゃん……」
「いいじゃないですか、ちょっとぐらい♪」 「そう言うの何回目だと……」 「駄目、ですか?」
こう言うと(暗くて見えないけど)髪をぐしゃぐしゃとして諦めたように寝返りを打つ。
「……いつまでも甘えてちゃ駄目ッスよ」
「……はーい。おやすみなさい、カジっちゃん先輩」 「おやすみッス、寂しがりやのエスキモーちゃん」
──そうして1つのベッドを空けたまま2人の夜は更けていく。ゆっくりと、されど確実に時は過ぎていく。
─────
明くる日の朝、ねぼすけのカジっちゃん先輩をベッドから引き起こし覚醒させたところで寮を出てトレーナーの家へと向かう。通い始めた当初は慣れなかったけど、今じゃ完全に朝のルーティーンと化していて、逆に行かない日はなんか調子が狂ってしまう。
いつものように合鍵でドアを開け、まだ冷蔵庫から卵やウインナー、引き出しからフライパンを取り出し、軽い支度。
「ご飯は……よし、昨日の夜からの分がジャーに残ってる。お味噌汁も昨日作り置きしてた分があるから今日はぱぱっと出来ちゃいそう」
私用のエプロンはキッチンに常備してあるから慣れた手つきで紐を体に巻きつけ、リボン結びで縛って準備完了。
と、そうこう支度を進めていると物音で気がついたのか、のそのそと寝ぼけ眼を擦りながら寝室からリビングへと姿を現した。
「……おはよう、エスキモー。今日も早いな」
「おはよう。もう8時だよ? トレーナーがねぼすけさんだからそう思うだけじゃない? 私が起こしに来なかったらどうしてたことやら……!」 「悪かったって……ほら、んっ……」 「んっ……ってこれでごまかされないんだからね! 顔洗ってお皿の準備お願いね!」 「はーい……」
……ほんとにこの人は! これまではしっかりしてたのに私が家に通い始めてからこんなぐーたらになっちゃって、もう!
「仕方ないからずっと一緒にいてあげるわよ、もう……」
なんだかんだで先に惚れてしまったのは私の方だし、迷惑をかけてるのも私の方。その責任はしっかり取らないとね。
─────
朝ご飯を食べ終わり片付けも終え、今日ここに来た真の目的、皐月賞対策会議が始まろうとしていた。
「……で、なんでエスキモーはオレの膝の上に乗ってるんだ?」
「……横に座ったらパソコンの画面見にくくないかなって思っただけ。これぐらいいつもやってるでしょ?」 「それはプライベートの時で……せめて膝の間に座ってくれ、オレが画面見えなくなる」
私のわがままに観念したのか、すっと膝を広げて私が座るためのスペースを作ってくれる。そこにスッと入り込るとトレーナーの胸の中にスポッと体が収まった。
「……で、2週間後に迫った皐月賞だが、舞台はホープフルSの時と同じ中山芝2000m。最初と最後に急坂があるからテンで飛ばしすぎると最後の坂で脚が上がるから要注意。その2回の坂越えがあるせいか分からないが、本来距離が近いはずのダービーと菊の2冠より皐月と菊の2冠ウマ娘の方が圧倒的に多い。すなわち」
「皐月を落とすと2冠の可能性は限りなく低くなる」 「そういうこと。まああくまでジンクスだから気にしすぎるのは良くない。それこそ『メジロのウマ娘はダービーを勝てない』ジンクスだって去年エスキーが破ったばかりなんだから、れっきとした根拠がない前例は気にするだけ無駄だ」 「そう、だよね」
ジンクスジンクスと言われるととあるウマ娘のことを思い出すが、今は話の本筋に関係ないから一旦頭から追い出しにかかる。そもそもあの子菊花賞ウマ娘だし……
「まあそれはそれとしてだ、ホープフルSの時にコースについては勉強したし、何より経験がある以上坂の上り方だったりどこでスパートをかければいいかまではとやかく言わない。今の状態をキープできれば君の実力は遺憾なく発揮されると思う。ただ……」
「あの子のこと、だよね……」
そう、今回の悩みの種は間違いなくあの子。前走で痛い敗北を喫したウマ娘、サートゥルヌス。レース終盤でバ群に封じ込めることに成功したもののそこから縫うようにバ群をすり抜け1着でゴール。まだ荒削りだったとはいえ100%に近いレース運びができたのにそれをひっくり返されるという結末。どうすれば勝てるのか、まさに五里霧中のよう。ただ唯一突破口があるとすれば……
「ただ彼女は今回のレース、約4ヶ月も間隔を空けての出走になる。レースボケの1点、そこに賭けたい、というか賭けるしかない」
「今までそんなレース間隔で皐月賞を勝ったウマ娘はいない。そこを突くしかない、かな」 「あとは前走みたいに内に封じ込めてその隙に抜け出すぐらいかもな。希望的観測になるし、実力で勝ったとは言えないからオレとしては好きじゃないんだが……ってごめんな、エスキモー」 「ん、いきなりどうしたの?」
話を言い終わる前に突然私に謝りだすトレーナー。何か変なことでも言われたかなと頭の中でこれまでの話を反芻すると、ある1点に気がついた。
「あっ、もしかしてあの子の方が実力あるように聞こえたの謝ってたりしてる?」
「まあ、うん、そうだな……もちろんそんなこと全く思ってなんかないからな!?」 「大丈夫、分かってる分かってる。心配性だなあ、私のトレーナーは」
そう言ってトレーナーの胸に体重をかけるのと合わせて腕を後ろに回し、頭を軽くそっと撫でる。
「大丈夫、貴方の中の一番強いウマ娘は私だってこと証明してみせるから、期待してて」
「あぁ、期待してる。頑張れ、エスキモー」
今度は逆に後ろから包み込まれるようにぎゅっと抱き締められる。私はそれに身を任せ、ゆっくりと目を閉じた。
(……この人の期待に答えるためにも頑張らなきゃ、だね)
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+ | 皐月賞〜日本ダービー直前 |
─────
そして迎えた本番。クラシック3冠第1戦、皐月賞。戦前有力視されていたメンバーが全員出走し、まさにクラシック級で今最も「速い」ウマ娘を決めるレースと相成った。共同通信杯で上位3人が全員出走、スプリングSの勝者こそ不在なもののその他のステップレースの勝者や好走者たちが軒並み顔を揃えた。もちろんホープフルSから直行するという前代未聞のローテーションで臨んだあの子も。
「やあ、久しぶりに会ったね」
「……そう、ホープフルS以来だね」
周囲のピリピリした空気を意に介することなく、サートゥルヌスさんが私に近づき声をかけてくる。気にしていないのか、本当に気づいていないのか……彼女は優秀だろうからおそらく前者だろう。私は生憎そんな大きい器と心を持ち合わせていないから、周りの子たちと同様に近寄ってくんなオーラを漂わせていた。それにも関わらず話しかけてくるのだから、その時点で自分とのステージの違いをまざまざと見せつけられた気がしてくる。
「そんなに警戒しないでほしいな。同じレースに挑むライバルとはいえ同じウマ娘なんだから仲良くしよう」
「うーん……仲良く話すのレースが終わってからでいい?」 「冷たいなあ……じゃあ終わってから楽しみにしてるね。またあとで」
枠入りが始まり、奇数番号の私が偶数番号のサートゥルヌスさんより先にゲートへと収まる。ゲート入りは順調に進み、すぐに最後の1人を残すのみとなった。
(レースプランは頭に叩き込んである。あとはそれを実行するのみ……!)
そして最後の1人がゲートに収まり、態勢完了。
ガコンッ
戦いの火蓋が切って落とされた。
─────
『──さあ出遅れはなく、18人ともまずまずのスタートを切りました。1番人気サートゥルヌスも好スタートを決めてスッと前へ前へとつけます。その前に2番人気、今年もメジロなのか、メジロエスキモーが立つという形になりました』
出遅れることなくすんなりと前に持ち出すことができた。そしてマークする形ではなく1列前でレースを運び、先行抜け出して末脚をなんとか凌ぐ、あわよくばホープフルSの再現ができればというレースプラン。
(まあそんなに上手くいくとは思わないけどね。今回は私より外の12番枠、出遅れなければ包まれにくい。これだと単純な力比べになりそう……!)
『──最初の1000mを今通過しました……59秒1。やや速い流れになったか? それでも上位人気のウマ娘たちは前につけています。これは前が残す展開になるのか、はたまた後ろからまとめて撫で斬るのか、面白くなってきました!』
隊列はそれほど変わらないまま徐々にペースが上がり第3コーナーを過ぎ、第4コーナーへと向かう。
(ここまでは想定通り。脚も全然残ってる。だったらここで……!)
足を強く踏み込み前へと迫る。小回りだからなかなか捲りにくいものの直線を向く頃には先頭に立つことができていた。
(あとはこのまま押し切……えっ?)
『──さあ最後の直線! ここで先頭はメジロエスキモーに代わり、リードは1バ身、2バ身……いや外からグングン迫ってくるのは……サートゥルヌス、サートゥルヌスだ! やはり最後はこの2人の一騎打ちとなるのか!?』
残り200mを切ったところで並びかけられる。しかし私にも意地と脚は残っている。必死に粘り込みを図らんとしたその時、
「うわっと!?」
「きゃっ!?」
『──おっと、ここでサートゥルヌス内にヨレたか!? ただそれでも2人の追い比べは続くが……サートゥルヌスが頭一つ抜け出したところでゴールイン!』
またもや2着。ただしその差は前走より縮まりタイム差なしのアタマ差。しかし、すぐに電光掲示板に着順が表示されず、その上に審議の青ランプが点灯した。そして場内アナウンスが流れる。
『ただいまの競走、最後の直線で12番サートゥルヌスが内にヨレ、7番メジロエスキモーの進路が狭くなる事象が発生しました。この件につきまして審議を行います。着順が確定するまでもうしばらくお待ちください』
その放送が流れ、場内が一瞬ざわめく。審議が行われるということはすなわち着順が入れ替わる可能性があるということ。そしてその対象は私とサートゥルヌスさん。つまり勝者が替わるかもしれない。その事実に観客たちはざわついているのだろう。ただ私は変わることはないだろうと確信していた。
(……確かに接触はあった。けれどあれがなかったとしても交わされてたと思う。むしろ着差は広がってたかもしれない)
息を整えつつ審議を待っていると、その当事者が謝罪の言葉とともに私に歩み寄ってきた。
「エスキモーさん、最後は悪かった、申し訳ない」
「頭下げなくていいから。ぶつかっちゃったのは事実だけど、たまにある話じゃない? 私は全然気にしてないから、さ」
なんとか頭を上げさせレース前に決めていたように朗らかにお喋りを始める。そもそもお互いのことをよく知らないまま今まで戦ってきたのもあって、軽い自己紹介から始めることになったのは少し笑ってしまったけど。
「──それでね、私のトレーナーなんだけど……って着順、出たね。おめでとう」
「入線順で変わらず、か。ありがとう、エスキモーさん。じゃあ僕はウィナーズサークルの方通らないといけないから、またウイニングライブの時に会おう」 「うん、またあとで」
そう告げて互いに別方向からターフを去る。片や大歓声を一身に受けて。片や敗北した事実を一歩一歩確認するかのように静かに地下バ道へと歩を進めて。
─────
再び味わう敗北の味。しかも前回と同じ舞台、同じ距離で。純粋な力比べでの敗戦ということもあり、前回より一層気分が落ち込んでしまう。
(間違いなくあの子はダービーも走ってくる。もちろん同じ戦術じゃ駄目……でもそれじゃ一体どうしたら……!)
地下バ道を力なく緩慢と動く一つの影。そこにもう一つの影が迫ってくるのを認識した刹那、グッと引き寄せられ二つの影が一つに重なる。
「トレー、ナー……?」
「頑張ったな、エスキモー。あと少し、だったな。お疲れさま」 「う、うわあああああああん!!! もうちょっと、もうちょっとだったのにいいいいい!」
トレーナーを認識して安心したのか、今までピンと張っていた緊張の糸がプツリと切れたのか、止めどなく目から涙が流れ出す。そんな私を大丈夫だよ、ここにいるよと言わんばかりにトレーナーはぎゅっと力を込めて私を抱き締めてくれる。
「辛いよな、悔しいよな、自分に腹が立つよな。こうすれば良かった、もう一歩前か後ろでレースを進めていればとか、思いつくことが全て自分を責める一因になってしまう。もちろん反省は大事だ。レースに勝っても負けても振り返らなきゃいけない。だけどな、それより大事なこと、何か分かるか?」
「ぐすっ……な、なに?」
一旦体を離し、トレーナーは両手で私の両肩をグッと掴み直す。そして、明日への道標を示してくれる。
「前を向くこと、前に向かって走ることだ」
「前を……向く……?」 「ああ、前を向かなくちゃ走れない、前に向かって走らなきゃ勝てない。当たり前のことだけど、それが何よりも一番大事なことなんだ。負けたら悔しい、悲しい、辛い。それでも前を向いて走り続けられる者が勝利を掴む。オレはそう信じている」 「……っ。だったら、私もそうする。負けたくないから。ずっと走っていたいから」
涙を拭い、目を見開いてトレーナーの顔を強く見つめる。涙は、もう出ない。
「よし、その顔ができるなら大丈夫だ。今日はライブ終わったら2人でゆっくりご飯を食べよう。反省会はその後だ!」
「うん、ありがと、トレーナー!」
そう言って再び地下バ道を駆けていく。応援してくれたみんなに感謝の気持ちを伝えるために。泣き顔じゃなく笑顔を見せるために。
─────
ウイニングライブが終わり、約束通りトレーナーの家でご飯を食べながら反省会を始める。流石に今日は作ることはできなかったから出来合いの物ばかりだけど、そのおかげかいつもより少し贅沢をしている気分になる。
「──それでレースを一通りゆっくり見た訳だけど、率直に敗因はどこにあると思う?」
トレーナーの問いかけに対して一旦お箸を置き、少しばかり考え込む。
(スタート……は良かったと思う。道中も少しペースが速い中前目につけられたのは事前のレースプラン通り。むしろサートゥルヌスさんの後ろにつけたら容赦なく突き放されていた気がする。かといって前目につけたところで今までと変わらないし……うーん……)
明らかに思考の沼に陥ってしまった私を見て、トレーナーが1つ助言をくれる。
「あくまでオレの考えなんだけどさ、トレーニングを見ている限りエスキモーってストライド走法、つまり他の子より一歩一歩の間隔が少し大きいんだよ。もちろん実力は高いから小回りのコース、それこそ中山のコースも走れるんだけど、G1クラスになると……」
「ちょっと足りなくなるっていうことね。だったら一番手っ取り早いのはそれに合わせた走り方にすべきところなんだけど、次はダービーなんだよね……」
そう、ダービーが行われるのは東京レース場。中山のコースとは違いコーナーも比較的緩やかなカーブを描いているから、私みたいな大跳びの子が走りやすいとされている。
「だからすぐに小回りに合わせた走り方、ピッチ走法を習得する必要はないと思っている。秋も菊花賞は京都の外回りコースだからカーブも比較的緩やかだし、前哨戦のセントライト記念は小回りだけどあくまでもG2。おそらくサートゥルヌスさんは栗東寮だから神戸新聞杯を使ってくるはず。だから本格的にピッチ走法についてトレーニングに組み込むのは菊花賞の後、有馬記念の前で大丈夫だとオレは考えている」
「……もう秋の話? というか有馬記念って私選ばれるか分かんないよ?」
基本的にはファン投票で選ばれた子たちが出走するレース、有馬記念。そんなレースにまだG1も勝ってないただの重賞ウマ娘の私が選ばれるなんて、全く想像ができない。
ただトレーナーは間違いなく私が選ばれると考えているみたいで自信たっぷりに話を続ける。
「大丈夫。君は絶対有馬記念に出ることになる。その自信がないなら、君のことを心の底から信じているオレのことを信じてくれ」
「……分かった。頑張る」
そう言われてしまったら仕方がない。周りには委員長だーとか凄いねーとか言われる私だけど、自分の中では全然駄目駄目だって思っていて。それでもそんな私を力強い言葉で奮い立たせてくれるこの人は本当に大好きで、そんな大好きな人から私を信じてくれていると言われたら、本当は自信がなくてももうやるしかなくなっちゃう。
「ダービー、勝とうな」
「うん、トレーナーのためにも絶対負けない」 「よしその意気だ……って全部食べきっちゃったな、ごちそうさま」 「ごちそうさまでした。私が洗い物するからお皿とかコップ持ってきてくれる?」 「おっけ、ありがとうな」
トレーナーが机の上の物を片付け、私がキッチンに立ち食器を洗う、普段と変わらない光景。ただそこから先がいつもとちょっと違っていて……
「よし、片付け終わり! いい時間だし私そろそろ帰るね」
「……泊まっていかないのか?」 「えっ……?」
まさかのトレーナーからお泊まりのお誘い。いつもは私が提出済の外泊届をちらつかせて半ば強引に泊まらせてもらっている。けど今日はレース、しかも関東圏のレースだったこともあって外泊届を出しておらず、そのまま寮に帰るつもりだった。
「でも私外泊届出してないし……今は、20時過ぎだしもう間に合わないよ……?」
と、私が落ち込んだ声でそう伝えるとトレーナーが私に1枚の紙を差し出してきた。
「これなーんだ?」
「ええっと……外泊届!? しかも今日の分の!? なんで!?」
少し上ずった声でトレーナーを問いただす。
「むしろエスキモーが出してないことにびっくりしたよ。昨日寮長に確認取ったら出てきてないよって言われてさ、『だったら代わりに出しておきます』って出して承認もらってきた」
これで問題ないだろとそうニッコリ笑って告げるトレーナーにどう返事をすればいいのか答えに窮する私を置いて、トレーナーは颯爽と浴室へ向かう。
「もう湯船は張ってあるんだ。バスタオルと着替えはいつもの場所に置いてあるからそれを使ってくれ。それとも……一緒に入るか?」
その言葉にやっと言語能力が復旧した私は真っ赤な顔でこう叫んだ。
「そこまではまだ許してないっ!!!」
急いで着替えとタオルを取って洗面所へと駆け込む。すぐ近くにいたトレーナーに向かってべーっと舌を出しピシッとドアを閉める。
「もうっ、本当にあの人は……!」
そう言って浴室に入っていく私の耳は当然洗面所の外にいたトレーナーのこの一言を捉えることができなかった。
「まだ……?」
─────
迎えた日本ダービー──の3日前、出走者決定&枠順発表日。出走登録した人数は最大出走者数を超えていて抽選になるが、私は皐月賞2着で優先出走権を得ていたことから問題なく出走者になることができた。だから問題は──
「枠順なんだよなあ……」
そう言って何度もトレーナールームの中をぐるぐると回るトレーナー。普段落ち着きがある彼にしては珍しく忙しない行動に少しばかり目を見開いて見ていると、部屋のドアが勢いよく開けられ、部屋にたづなさんが飛び込んできた。
「トレーナーさん! ダービーの枠順出ましたよ!」
「あ、ありがとうございます! ええと、エスキモーは……えっ!? 1枠1番!?」 「本当は皆さんに平等にしないといけませんが今は少しだけ……応援してますからね、エスキモーさん、トレーナーさん!」 「ありがとうございます! 頑張ります!」
それではーと言ってドアを閉めてたづなさんは別のトレーナーの元へ枠順決定のお知らせを届けに行った。もしかしたら私たちが最内枠だから一番最初に来てくれたのかもしれない。
そっか、1枠1番か、大外枠じゃなくて良かったねとそうトレーナーに声をかけようとソファから立ち上がろうとした刹那、これまた珍しく興奮しているトレーナーが勢いよく私の方に歩いてきて、そのまま私をソファに押し倒した。
「ちょっ、トレーナー!? ここトレーナーの家じゃないんだよ? せめて誰にも見られないところで……」
「最内枠引けたんだぞ、最内枠を! 近年のダービーは内枠有利な傾向にあって、しかも最内の1枠1番はさらに好走歴が高いときた。こんなの興奮せずにはいられないって!」 「それでも押し倒すことないでしょ!?」
興奮気味な彼をそっと押し返し、2人ソファに横並びに腰かける体勢に座り直す。そこでトレーナーはようやく冷静さを取り戻したのか、少し小さめな声で
「……ごめん」
とそう呟いた。
「私じゃなかったら蹴られてたからね? 私だからよかったものの……」
「本当に気をつけるよ……」
先ほどのハイテンションとはうってかわって、お酒でやらかした次の日みたいにトレーナーはガクッと肩を落とす。そんな彼を励ますようにそっと肩を揺すり元の調子に戻るよう諭しつつ話を決まった枠順の話に戻す。
「気にしてないから。それで枠順が決まった訳だけど、これでレースプランはばっちり決まりそう?」
「あぁ、これで勝機が見えてきた。ただ正直完璧に成功すれば一気にぶち抜けるが、少しでも間違えると惨敗まで考えられる作戦だ……どうする?」
普通なら堅実な計画を提案してくる彼がこの大舞台に来て一か八かの博打を持ちかけてきた。その提案に私は……
「もちろんやるに決まってる。トレーナーが考えてくれたものだもん。私はそれを信じて走るだけ」
一分の迷いもなく快諾する。その私の答えを聞いたトレーナーは大きく頷くと、パソコンのホーム画面に置かれた「エスキモー 日本ダービーレースプラン」と名がつけられたファイルを開き、その大胆な作戦の解説を始める。
「まずゲートが開いてから──」
私はその熱い解説に耳を傾けつつ、同時に彼から伝播した胸の高鳴りを頭で冷静に感じ取るのだった。
|
+ | ダービー〜祝勝会 |
─────
「いよいよ、だね……」 「ああ……」
そして迎えた日本ダービー当日。勝負服に着替え、徐々に迫る出走時間に合わせ2人とも少しずつ緊張が高まってきている。その証拠にさっきは
『エスキモー、準備できたかー』
『ト、トレーナー!? まだ私着替えてっ……!』 『ご、ごめん! とりあえず一度深呼吸を……』 『そんなことする前に早く出てって!』 『あいったぁ! ペットボトル投げなくても……分かった分かった!』
と、いつもならノックして中の様子を確かめてから入るトレーナーが肝心のノックを忘れ、しかも私がまだ着替えている最中に入ってきたりとか、
『──で、最後の直線に入ったら、っとペットボトル倒しちゃったな。悪いけど拾ってくれるか?』
『ええっと、どこどこ……あ、あった。トレーナー、はいどうぞ……っていったぁ!?』 『大丈夫か、エスキモー!?』
といった感じに机の下に入り込んだペットボトルを拾ってトレーナーに返そうと頭を上げた時、机の存在が一瞬頭から抜けてそのまま机に頭を軽くぶつけてしまったりとか、傍から見るとバタバタ、あたふたしているのがチラッと見るだけで分かるような惨憺たる有様だった。
もちろん今は少しは落ち着いているけど、前走の皐月賞と比べると互いに体がガチガチなのが見て取れる。
時計の針の音が聞こえるほどの無音状態。このままだと緊張が解れないままレースに臨むことになる。もしそうなってしまえばレースプランどうこうの話ではなくなってしまい、為す術もなく敗れるのが目に見えている。
「「あのさっ!」」
沈黙を打破したい気持ちは同じだったのか、互いに声を発するもタイミング悪く声が被ってしまった。
「ご、ごめん……トレーナーの方から先に話して?」
「オレはいいからエスキモーが先でいいよ」
互いの優しさがこの場では裏目に出る。普段なら同じやりとりを幾度か繰り返したのち、トレーナーが先に根負けして話し始めるのだけれど、今は時間もないし、譲ってもらった権利をありがたく行使させてもらう。
「あのさ……してくれない?」
「ごめんよく聞き取れなかった。何をすればいいんだ?」 「その……だから……ぎゅってしてほしいの、トレーナーに。そうしたら緊張解れるかもしれないから」
いつもは何の気なしにやってもらっていることをいざ口に出すと途端に恥ずかしくなってしまう。今振り返ると私って結構大胆なことお願いしていたのかも……
このタイミングになって過去を思い出し頭が沸騰しそうになっている中、トレーナーは分かったと頷き、私の背中に両腕を回し、そっと抱き寄せてくれた。
「これでいいか?」
「うん、ありがと……ちょっとマシになったかも」
私もトレーナーに合わせて背中に腕を回し、互いに抱き締める形になった。血が回っていた頭も冷静さを取り戻し、緊張も少しずつ溶けていく。
「あっ、トレーナーの心臓ドックンドックンって言ってる」
「おいこら、勝手に人の鼓動を聞くんじゃない」 「じゃあ代わりに私の聞いてみる?」 「そうじゃなくてだな……まあその調子ならもう大丈夫か」 「うん、問題ない。今までの練習成果、存分に発揮できそう!」 「その意気や良し! そろそろ時間だから行ってこい!」
互いに体を離し、ドアの方へと向かう。
「私、勝ってくるね!」
「ああ、ダービーウマ娘の称号、勝ち取ってこい!」
そう言って私の背中をポンと押すトレーナー。押された勢いをそのままに私は地下バ道へと意気揚々と駆けていく。
──全ては栄光を掴むために。
─────
いよいよ本バ場入場。緊張も無事に解れ気力は十分。持てる力は十全に発揮できる状態でまさしく絶好調と言っていい。人気は再び2番人気に甘んじたけど全く気にならない。
「まあでも勝ったときのインタビューで、『一番の勝因はなんですか?』って聞かれて、『レース前にトレーナーに抱き締めてもらったことです』とは言えないなあ……」
そう1人呟きつつ、レース前最後のウォーミングアップをこなしていると、今回も1番人気を背負う彼女の姿が視界に入った。
「あっ、サートゥルヌスさん! 今日もよろし、く……?」
「ごめん、ちょっと1人にしてもらっていいかな……」
いつもなら明朗快活、表情豊かに話す彼女が今は何やら様子がおかしい。パドックでは普段通りにこやかに振る舞っていたはずなのに何かあったのだろうか。少し違和感を覚えつつも場内に鳴り響くファンファーレとともにゲートへと向かう。
(ゲートはしっかり出る。そして内目のポジションを確保。最後は……っと全員ゲートに入りそう)
『さあ最後に大外18番アイゼンリーゼがゲートに収まり態勢完了……今ゲートが開きました。おっと!? 6番サートゥルヌスが出遅れました!』
いきなりの波乱に場内がどよめく。しかしすぐさま体勢を立て直し後ろ目のポジションにつけるサートゥルヌスさん。それに代わって私はゲートを問題なく出て、1コーナーを過ぎる頃にはスッと前から4番手ぐらいのポジションにつくことができた。
『さあ2コーナーを過ぎた辺りで場内のざわめきも徐々に落ち着き、隊列も決まってまいります。先頭を行きますレーベレーベ、後続に5バ身ほどの差をつけて悠々と逃げております。その2番手にはトサノカガヤキがつけまして、その1バ身後ろに皐月賞3着のクイーンリーとバトルエメラルドが横に並ぶ形で進み、さらにその半バ身ほど後に皐月賞2着、2番人気のメジロエスキモーといった流れで前は進んでおります。なお注目の1番人気サートゥルヌスは10番手より少し後ろにポジションを取り、前の動きを伺っています。と、ここで最初の1000mは57秒8! 良バ場といえど速いペースでレースが進んでいます』
このハイペースも織り込み済み。レース前から逃げ宣言をしていたこと、前走と前々走で逃げ切って勝利を収めていたことから間違いなく本番でも飛ばしてくるだろうと考えていた。唯一の想定外事項といえば、私のすぐ横か前ぐらいにサートゥルヌスさんがいて、それを見ながらレースを進めるはずが、彼女が出負けしてそれが叶わないままレースが流れていること。彼女の動きを見つつ、一気に動いて貫く予定が少し狂ってしまった。
(だからといってこれで全てがご破算って訳じゃない。あくまでも彼女を見ながら走りたかったのはいつ動くかの目安にしたかっただけ。それがなくても私は……!)
『──さあ向こう正面を過ぎ第3コーナーへと差し掛かる! 徐々にペースが上がっていくが、先頭レーベレーベのリードは相変わらず5バ身から6バ身ほど。後続はこのウマ娘を捉えることができるのか!』
(後ろからどっと迫ってくる圧を感じる。私が勝つと、絶対負けないといった声が足音となり波のように押し寄せてくる。怖い、だけど……!)
冷静に、冷静に。そうすれば勝負所は自ずと明らかになる。あとは自分のこの脚を信じるだけ。
『さあ4コーナーを回って最後の直線に入ります! 先頭は変わらずリーベリーベだがその外からトサノカガヤキが捕まえに行く! さらにその外からクイーンリーが全てを飲み込まんと交わしにかかる! そして注目のサートゥルヌスも後方から前を捉えに行く! さあ栄光のゴールまで残り400m!』
(前は……空いてる。誰かヨレてくる気配もない。脚は余裕で残っている……)
一度大きく深呼吸、そして。
「はあああああああっ!!!」
『先頭は変わってクイーンリー! サートゥルヌスはどうか、届くのか……おっと、最内を突いて猛烈な勢いで追い込んでくるのは……メジロだ! メジロだ! ここでメジロエスキモーが一気に前に迫る! 坂を上りきって残り200m! 果たして今年のダービーを制するのは誰だー!』
(走れ走れ走れ! まだ動くでしょ私の脚! 栄光はすぐそこにあるんだから!)
「勝つのは私なんだからあああああ!!!!!」
『残り100mでメジロエスキモーが先頭に替わる! クイーンリーも懸命に追いすがる! サートゥルヌスは伸びがない! さあメジロだ、メジロだ! メジロエスキモーだ! 今年もダービーはメジロのものだあああ!!!』
─────
「勝っ……た……? 私がダービーを……?」
全速力で2400mを走り切り、少し頭が朦朧とする中必死に息を整え現実を直視しようと試みる。
『タイムは2分22秒6! 2年続けてのレコード更新とはなりませんでしたが、比較的速いタイムでの決着となりました』
クールダウンも兼ねたウイニングランをゆっくりと走っていると、一緒に走った子たちから「おめでとう」と何度も勝利を称えられ、ようやく自分がこの大舞台を制したのだと実感する。そんな中1番人気ながら4着に敗れた彼女が私に近づき声をかけてきた。
「おめでとう、エスキモーさん。完敗だったよ」
「サートゥルヌスさんも直線に入ってからの伸びが凄かった。スタートが悪かったから後ろからになって最後は止まっちゃったけど」 「いやはや手厳しいな、メジロのお嬢様は。ただ君の言うとおりだ。大舞台に慣れているはずの僕が熱気に当てられてしまったのか、はたまた前走の件が脳裏をよぎったせいなのか、今日は駄目駄目だったね。みんなの期待を裏切ってしまって我ながら言葉もないよ」 「そっか、堂々として見えたあなたでもやっぱり緊張はするのね」 「当たり前さ……とおっと、ここからは1人で行きたまえ。観客たちのこの大歓声は君が全て受け取るべきものなんだから」 「ありがと、行ってくる!」
そう言って1人スタンドの方へ駆け戻ってくると、歓声のボリュームはさらに上がり、盛り上がりは最高潮に達していた。
「おめでとー!」「よくやった!」「かっこよかったよ!」
方方から称賛の声と大きな拍手をかけられ、スタンドに深々と一礼。頭を上げ再び走り出しウィニングサークルから観客たちに向けて手を振りながら地下バ道へと抜けていく。
─────
歓声が鳴り止まない中地下バ道を駆ける私の目の前に立っていたのは、やはりトレーナーだった。その姿を認めると少し走るペースを上げ、すぐさまその胸の中に飛び込んだ。
「やった、やったよ! 私、ダービー勝ったよ!」
「ああ、おめでとう。作戦もばっちりハマった完璧な勝利だ」 「その作戦はトレーナーが考えてくれた。だから今日の勝利は全部トレーナーのおかげ。本当にありがとね」
そう感謝の言葉を告げると、トレーナーはそれは違うと頭を横に振る。
「仮に作戦が完璧だったとしてもそれを実行できたのは君が勝つために最後まで努力をしたから、目の前の勝利を掴もうと必死に駆け抜けたから。オレは君が全力を出せるように少し手助けをしただけ。だからもっと誇っていいんだ」
「そう、かな。私、頑張った?」 「ああ! 凄かった! 君こそがダービーウマ娘だ!」
そう言って強く強く私を抱き締めてくれる。ちょっとだけ痛いけど今はその痛さも少し心地よい。
──だって私はこのレースを、日本ダービーを勝ち取ったのだから。
「えっと、それでね、今日これからのことなんだけど」
「オレの家で祝勝会の予定だけどどうかした? 疲れているなら明日にしてもいいんだぞ」 「そうじゃなくって。祝勝会のあとさ……泊まっていい?」 「……そう言うと思った。今回は外泊届自分で出したのか?」 「うん、寮長の承認もすんなりもらえたし、カジっちゃん先輩には勝っても負けても外泊するからって伝えてあるし」
問題なしとそう伝えると、トレーナーは少し苦笑しつつもこれも全て想定通りといった感じで話を進める。
「これだけ外泊が続いていると周りから何か言われそうな気もするが……まあそのときはそのときだ。よし、じゃあライブも頑張ってこい!」
「うん、精一杯やりきってくる!」
トレーナーと別れ再び地下バ道を走り抜けていく。今度こそ、今度こそ勝利を掴んだ者として、応援への感謝とこれまでの努力をみんなに見せるために。
─────
レース後のウイニングライブも終わり、トレーナーの家に戻る。用事があると先に家に帰ったトレーナーを追い、家の鍵を開けると、
「ただいまー……ってうわっ!?」
「おめでとう、エスキモー!」
とクラッカーを鳴らしたトレーナーに祝福の言葉を送られる。驚いたのも束の間、部屋に上がり食卓の方に目を向けると、それは豪華な食事の数々が並んでいた。その真ん中にはケーキも私が主役と言わんばかりに鎮座している。
「もしかして先帰るって言ってたのってこれのため?」
「当たり前だろ。初めてのG1勝利、しかもそれが日本ダービー。盛大に祝わないとむしろ周りから恨まれるよ」
そう言ってどうだと言わんばかりに胸を張るトレーナー。いつもよりちょっぴし子どもっぽいところにクスクスと笑いが溢れるも私のためにここまで用意してくれたことに感謝を伝える。
「ありがとね、トレーナー。やっぱり私トレーナーのこと大好きだよ」
「そう言ってもらえて嬉しいよ。それじゃ盛大に祝うとするか! 今日は夜ふかしも許す!」 「えぇっと夜ふかしってもしかして……そういうこと? 私、今日可愛いの着てきてないけど平気……?」
トレーナーって結構大胆に誘うんだって少し頭をぽわぽわさせていると、正気を取り戻させるためか私の頭に軽くチョップが振り下ろされた。
「痛っ! ちょっとトレーナー何するの!」
「脳内ピンクなお嬢様にはこれぐらいしないとな。しょうもないこと考えてないで早く始めるぞー」 「ちょっと、脳内ピンクってどういうこと!? って無視しないでよ!」
この話は終わりだと言わんばかりにくるっと後ろを向いて食卓に向かうトレーナーの背中をポカポカと叩きながら私も一緒にキッチンへと向かう。
あぁ、いつになったらトレーナーは私に手を出してくれるのかな……
─────
食事の後片付けも終わり、2人並んでソファに腰かける。
「食べた食べた! 少しは残るかと思っていたけど、結局全部食べちゃったなー」
「レースだった私はもちろんだけど、トレーナーも結構食べてたよね。普段そんなにガツガツ食べてるところ見ないからちょっと意外」
ダービーまでのお互いの苦労と努力を労い、少しばかり食べさせ合いもしながらその手を止めることなく食べ続けた結果、来た時は食べきれるか不安だった量があっという間に2人の胃袋に全て収まってしまった。それほどまでに体が栄養を求めていたんだろう、なかなかお腹いっぱいに食べることが少なかったこともあってか、久しぶりに感じる満足感と満腹感に2人とも気分がいつもより高揚している。トレーナーは私の前では珍しくお酒も飲んだからだろうけど。
「こう見えても結構食べるんだぞ? 学生時代はスポーツやってたしな。腹筋もほら……って今は腹いっぱい食べたばかりだから駄目だな」
そう言ってチラリと服を捲るもすぐさまお腹を隠したトレーナー。ただ私は一瞬見えた筋肉質のお腹が目に焼きつき、もう一度見ようとそっとトレーナーの服を捲ろうと試みる。
「ねぇトレーナー、もう1回見せてくれない……? もう1回だけでいいから……」
「えぇっと……いいけど今は食べたばかりだし、最近はトレーニングそんなにできてないから見てもよく分からないと思うんだが……」
トレーナーの後半の台詞はスルーして早速上半身の服をペラリと捲り、そっとその筋肉質な体を撫でる。触った瞬間トレーナーの口から声が漏れた気がしたけどそんなことが気にならないぐらい私は恍惚とした表情を浮かべていた。
「これがトレーナーの体……素敵……」
「おい、そんな何度も触らなくても……ってエスキモー、オレの声届いている?」 「もうちょっと見せてほしいな…、ねぇ、上全部脱いでくれない?」 「いやいやそれはいくらなんでも駄目だって! ってやっぱり力強いな……!」
トレーナーの抵抗もむなしく服を脱がし上半身を露わにさせる。腹筋と同様に全体的に整った筋肉質な体を目の当たりにし、頭の中がクラクラして自分が今何をしようとしているのかも分からなくなっていく。
「ねぇ、いいでしょ? 私今までいっぱい我慢したよ? だから今日ぐらい……ね?」
「駄目だって言ってるだろ……ってうわっ!」
トレーナーの体が横に倒れ、私が上に覆い被さる格好になる。いつの日にかトレーナールームで同じ体勢になったのを頭の片隅で思い出しながら、持ちたる力でジリジリっとトレーナーとの距離を縮めていく。
「なんか体があつい……ちょっとだけ制服ぬいでもいーい?」
「おいこら止めろ……自分が何しようとしてるのか分かってるのか!? 服に手をかけるな!」 「えーどうしよっかなートレーナーがチュってしてくれたらやめてあげてもいいかなー」 「分かった、分かったから……ほら顔をこっちに寄せて……」 「やったあ、とれーなーだーいすき……ちゅー……」
そう言ったところで部屋の電気が消えたかのように意識がプツリと途切れ、夢の世界に落ちていく。あともう少しだったのになと後悔を滲ませながら。
─────
「はぁ〜〜〜、焦った……今回は本当に危なかった……」
すんでのところで意識を手放してくれたエスキモーを静かに寝室に運び込みふんわりと布団を掛けてあげる。スゥスゥと寝息を立てているのを確認したところで音を立てないようこっそりとリビングに戻る。そうして彼女に脱がされた服をもう一度羽織り直したところで、全身の力が抜けたかのようにソファにバタッともたれかかる。
「なんだか今日のエスキモー艶かし……じゃなくてテンションおかしかったよな……なんでだ?」
目を閉じ、酔った頭で彼女が部屋に来てから食事が終わるまでの間の記憶を必死に辿っていく。
「部屋に上がった時はいつもどおりだったし、食べ始めた頃も少し気分良かった気がするが、あれは純粋に祝勝会を開いてもらえての喜びから来ていたもののはず。ということは考えられる可能性としては……酒か?」
自身が酔っていたせいもあってか、いつもなら違和感を覚えるほど相手が高揚しているのを感じ取ることができなかった可能性はあるがそれだけとは思えない。
と、そこまで考えたところで1つの可能性が浮かび上がる。
「今日オレ酒飲むペース速くなかったか? その割には酔いがそれほど回っていないような……もしかして……」
せっかくだからとスパークリングワイン1本と缶チューハイ数本を買って冷蔵庫に冷やしていた。ただ流石に全部飲み干すことはないだろうと、残ったらまた今度飲めばいいかと思っていたんだが……
「綺麗に全部無くなっていたんだよな……そういうことか」
確かに食事中何度か席を離れる時間があった。学園や同僚や先輩たちからの電話、それにお酒のせいで近くなったトイレ……それぞれ数分間席を外していたのは間違いない。
「よし、明日エスキモーが起きたら説教だな」
そう決意したところで風呂に入り、彼女より先に起きるために早々と寝室へ向かい眠りにつく。もちろんタイマーをセットすることも忘れずに。
─────
次の日の朝、なぜか制服のまま眠っていた事実に驚くとともに、謎の頭痛に困惑しながらそっとかけられていた布団を剥がし、リビングへと向かう。いつもなら私の方が先に目が覚めるのにトレーナーが横におらず、不思議に思いながらその姿を探していると、ソファに目をつぶり腕を組みながら腰かけている様子が目に入った。
「えっと、トレーナー、おはよう? 今日は私より早かったんだね?」
そんな私の声には直接返事をせず、目の前の床を指差しこう告げた。
「エスキモー、正座」
「えっ、正座……?」 「早く」 「う、うん、分かった……」
有無を言わさないその声に反抗する言葉も思いつかず、言われたままにトレーナーの方を向いて正座をする。
私が正座したところを確認すると、質問──いや尋問の方が正しいか──を投げかけられた。
「昨日の夜のこと、覚えているか?」
「えぇっと……楽しくおしゃべりしながらご飯を食べてそれで後片付けをして……」 「そこまではいいんだ、いや良くはないが……じゃあそこから先は何をしていた?」 「確かトレーナーが筋肉がーって言ってきて、私が少し触らせてって言ってそれで……あっ」
全てを思い出し、頭が急激に熱くなるのを感じる。まさしく沸騰状態。そんな私を見て静かに淡々と、されどその圧を全面に押し出しながらお叱りモードに入る。
「前に話したこと覚えているか? まだ早いって、いくらなんでも中等部なんだからって」
「はい……覚えてます……」 「それを? 無視して? オレに襲いかかって? 約束はどうした?」 「あの時はなんでか分からないけど頭から抜けちゃってて……ごめんなさい」 「謝るのはそれだけじゃないよな? 酒、オレに隠れてこっそり飲んだよな?」 「えぇーっと……その……はい……」 「酒を残したまま席を離れたオレも悪い。だけどな、成人するまで飲むなって授業で教えてもらわなかったか? アスリートなんだから特に気をつけなさいって」 「やりました……受けました……」 「それなのに興味本位で口にして、挙げ句の果てには力を制御できずに人を襲いかけて……」 「はい……ごめんなさい……」
返す言葉もない。トレーナーが美味しそうに飲んでいるのを見てどんな味なんだろうと興味が湧いた。トレーナーにバレたら絶対怒られるからって隠れてこっそり口にした。その結果我を忘れ、結んだ約束が頭から零れ落ち、トレーナーに襲いかかり……委員長失格だ。
「本当に反省しているのか?」
「はい……これからは絶対こんなことはしません……」
今にも泣き出しそうな私を反省度合いを確かめるようにじーっと見つめて小さく頷く。
「分かった。今回はG1に勝ったこと、オレの注意不足に免じて学園には報告しない。頭も痛いんだから体調不良ってことでオレの方からクラスに連絡しておく。薬も机の上に置いてあるから飲んでマシになったら寮に戻れ。ただし、」
「ただし……?」 「次G1に勝つまでオレの家に泊まるの禁止な。その代わりオレもそれまで酒は一滴も飲まん」 「なんでトレーナーまで……? 私が全部悪いのに……」 「管理者責任だ。仮に君が全部悪いとしてもオレには君を立派なウマ娘にする責任がある。それを怠ったんだから当然のことだ」 「うぅ……本当にごめんなさい、トレーナー……」
ぽつぽつと床に水滴が落ちるのを見てトレーナーが立ち上がり、私の目元の涙をそっと拭ってくれる。
「君は賢い子だから一度反省したらもうしないのは分かっている。だからオレは心配してない。次からは大丈夫、そうだろ?」
「うん……うん……っ!」 「泣くな、泣くな。せっかくの綺麗な顔が台無しだ。ほら、こっちにおいで?」
そう言って両手を広げたトレーナーの胸の中に勢いよく飛び込む。また押し倒した格好になってしまったけど、今度はもう大丈夫。約束は忘れない、二度と。
「泣き虫で寂しがりやで……こういうところは中等部なんだよな」
天を見上げながら私の後ろ髪を優しく撫でてくれる。
──あぁ、やっぱりこの人がトレーナーで良かったな。
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+ | セントライト記念〜サートゥルヌスの神戸新聞杯 |
─────
そんなすったもんだの騒ぎからはや数ヶ月。最初はぎこちなさが残っていたけど、夏合宿も終わり秋もすぐそこまで近づく頃になると、もうすっかり元の関係に戻っていた。
「おはよう、エスキモー。朝ご飯もうできてる?」
「おはよ、トレーナー。もう準備できてるから早く顔洗ってきて!」 「はーいっと。ちょっと待っててな」
先に椅子に座り、この夏のことを少しばかり頭の中で振り返っていると、私がお願いしたとおりすぐにさっぱりとした顔をしたトレーナーが部屋に戻ってきた。
「おまたせ、じゃあ時間もないしすぐ食べよっか」
「お寝坊さんがもう少し早く起きてくれたらゆっくり食べられるんだけどな」 「悪い悪い……はい、じゃあ手を合わせて」 「「いただきます!」」
──いつもどおりの日常をまた2人で。
─────
朝ご飯も食べ終わり、着替えを済ませ、2人歩いて学園へ向かう。もちろん人通りが多くなる道までは2人手を繋いで。
「ねぇトレーナー、聞いた?」
「何をだ?」 「何って、ほら、サートゥルヌスさんのこと。菊花賞出ないんだって」 「でも彼女、次神戸新聞杯走るんじゃなかったっけ?」 「それがサートゥルヌスさん、菊花賞は距離が長いから、シニア級が相手になるけど秋の天皇賞狙うってこっそり教えてくれたの」
9月に入り、クラシック級やシニアを問わず秋の大舞台への切符を賭けた戦いが始まっている。私が出走するセントライト記念は2週間後で、サートゥルヌスさんが走る神戸新聞杯はその1週間後。同じ週にはオールカマーも控えていて、またその次の週にはクラシック級の子とシニア級の先輩たちが実質初めて激突するG1、スプリンターズSも開催される。
「そっか、彼女がどこまで走れるのか興味あったんだけどな。ダービーは何かあったみたいだし」
「あーっ! それってサートゥルヌスさんがちょっとミスっちゃったから私が勝てたってこと!?」 「違う違う、そんな膨れた顔でこっちを見るな……あれは君が強かったから勝てたんだ。あの子は関係ない」 「ふーん……それならいいんだけど。だからね、たぶん私が菊花賞1番人気なるんじゃないかーって思ってね」 「あっ、もしかして前に話したジンクスのこと気にしてるのか? ダービーと菊花賞の2冠ウマ娘はほとんどいないって話」 「……まあそんなとこ」
ダービーを勝ったすぐ後はそんなこと完全に頭から抜けていた。ただいわゆる夏の上がりウマ娘も多くなく、かつ有力候補だったサートゥルヌスさんが天皇賞へ向かうとなればダービーウマ娘の私が支持されるのは必然。まだ3000mのレースを走ったことがないのは不安だけどそれはみんなも同じ。もちろん前哨戦の結果次第でガラリと入れ替わることもあるだろうけど、余程の惨敗とならない限り1番人気に推されるだろうとは火を見るより明らかな話だった。
そんな不安がっている私を励ますようにトレーナーは空いた手で私の髪をクシャクシャっと少し乱暴気味に崩す。
「そんなこと気にしなくていい。合宿である程度のスタミナは鍛えられたし、3000mの走り方についてもちゃんと勉強した。もちろん油断していい訳じゃないが自信を持って走ってこい」
「分かった、ありがと……髪崩したのはちょっとおこだけど」 「ごめんって、ほらこれで……うん、可愛い」
サッと撫でるような手つきでパパっと崩れた髪を直してくれる。その仕草も褒め方も慣れているようなのは少し癪だけど、可愛いって言ってくれたから許す、うん。
「その前にセントライト記念だから忘れないでね」
「任せとけって!」 「ほんと? ……なんて冗談。頼りにしてるからね」
夏も終わり少しずつ日射しが遠慮し始めたこの季節、日本の悲願が果たされる日ももうすぐそこまで近づいていた。
─────
『もしもしエスキモーちゃん、聞こえますか?』 「うん、聞こえてるし顔もばっちり見えてるよ」 『良かったです。日本はもう夕方なんですよね?』 「うん、トレーニング終わって今トレーナーの部屋にいるよ」 『……イチャイチャしないんですか?』 「外でする訳ないでしょ、もうっ!」 『……中ではするんですね?』 「あっ……ってそうじゃないから! からかうだけなら切るよ!?」 『ごめんなさーい、エスキモーちゃん』
こうしてLANEのビデオ通話でエスキーと話すのも何回目だろうか。エスキーとドーベルさんが年が明けてすぐにパリへ旅立ち数日経ったある日の夕暮れ時、部屋で何気なしに携帯を見ていると突然あの子の名前が画面に表示され、慌ててアプリを開くと「顔を見てお話しませんか?」とメッセージが送られてきたのを覚えている。
それからお互いのレースの終わった後とか、なんか顔が見たくなったときにメッセージを入れて通話するというのが新たに日々の習慣となっている。
「それで今日はどうしたの? そっちももうすぐレースなんじゃなかった? 調子はどう?」
『調子はバッチリですっ! むしろこちらの方が走りやすいんじゃないかってぐらいっ!』 「なら問題なさそうだね。私のレースはエスキーの2日後だし体調のことも考えたら生では見れないけど応援してるからね」 『ありがとうございます、エスキモーちゃんっ! お互い頑張りましょうねっ!』 「うん、もちろん! 2人ともいい報告ができるように頑張ろうね!」
─────
その後2つ3つとりとめもないことで笑いあって通話を切ったタイミングでトレーナーが部屋に戻ってくる。
「何やら外から楽しそうな声が聞こえてきたけどエスキーと話していたのか?」
「うん、いつもと一緒で中身があんまりない話。だけどこれで気合はバッチリ入ったかな」 「週末のレース、期待してるからな」 「もちろん! 任せてよ!」
そう言ってトレーナーに向けて親指を上にグッと突き立てる。
足も軽いし気力は十分。負ける気なんて全然しない。あとはレース当日を迎えるだけ。
─────
昨日──感覚的に言えば2日前だが──の夜、またもやエスキーが海外の地で新たな偉業を達成した。
『──さあ残り200mで頭一つ抜け出したのは日本のメジロエスキー! すぐ後ろからアイルランドのドレフトゥールが追ってくる! 最後方からはもう1人の日本のウマ娘ケルトが追い込んでくるが、さらに差を広げる! リードを1バ身、2バ身近く開いたところでゴールイン! またしても日本のウマ娘が海外のビッグタイトルを獲得しました! 次はいよいよパリロンシャンをも制するか!』
─────
その翌日の朝、レース結果を確認しようと携帯を見ると、日本時間での深夜から朝方までメッセージが大量に届いていた。誰が送ってきたのかは見なくても分かる。
「えーっとなになに……」
『エスキモーちゃん、寝ちゃってますか?』
『実はわたしまた勝っちゃいましたっ! ぶいっ!』 『ケルトさんとも仲良くなれましたっ! ケルトさん、ずっと海外転戦してるのですっごく外国語得意なんですよっ! 今度一緒にご飯行こうねって約束しちゃいましたっ!』 『起きたらまたメッセージくださいね。わたしは姉さまから早く寝なさいって言われちゃったので、返事できるのそっちの夕方になっちゃうかもですけど……』 『お返事、待ってますね? おやすみなさい、エスキモーちゃん』
文字を目で追いかけているだけで伝わる勝利の喜びと新しい友達ができた嬉しさ。そして少し浮かれていても相手をしっかりと気遣える優しさ。
「それでこんなに強いんだもんね……凄いな……私も見習わないと」
改めて明日のレースに向けて気を引き締めてベッドから起き上がる。レース直前な私を気遣って自分のベッドでこっそりと夜ふかしをしてエスキーのレースを見てくれていたカジっちゃん先輩はもう少し寝かしておいてあげて、私は静かに朝の支度と早朝のトレーニングに向かうのであった。
─────
「よしっ、今日はこれで終わり! 明日はレースだから早く寝て万全の状態を保つこと! 以上!」 「ありがとうございましたっと……あっ晩ご飯はいつもどおり作りに行くからね。食べたらすぐ帰るけど」 「それが好調持続のルーティーンになっているなら悪いけどお願いするよ。本当だったらオレが食についてもサポートしなきゃいけないんだが……」 「私が好きでやってることだから気にしないで。じゃあまた食材買ってから家行くね」
レース前最後のトレーニングが終わり、汗を流すためにシャワールームへと向かう。体中の汗をしっかり洗い流し、さっぱりとした体で寮へ戻る途中、何やら明日のレースのことについて話している2人組を見かけたのでこっそり隠れて聞き耳を立てることにする。誰かに見つかったら「ダービーウマ娘が何してるんだ」って言われそうだけど、明日のレースのためだもん。仕方ない、仕方ない。
『──それでさ中山の方はセントライト記念じゃん? アンタどう思う?』
『まあ順当に進めばダービー勝ったメジロの子じゃない? サートゥ、なんだったっけ、あの子は来週の神戸新聞杯だし、ほぼ間違いないっしょ』 『サートゥルヌスさんね。でも前哨戦だし分かんないかもよ? ダービーでも逃げてた子が今回も逃げるーって昨日新聞で見たし。名前出てこないけどもう1人逃げるって言ってる子いた気するし、行った行ったで決まっちゃうかも』 『それはそれで面白いけど……あれ、なんか物音しない?』 『気のせいでしょ。最近寮の近くで鳥かなんかの鳴き声も聞こえるーって話だし、物音ぐらい普通にするって』 『そっかー、誰かが隠れてアタシたちの話聞いてるんじゃねって思っちゃった』 『まさかー! こんな話聞いたところでっしょ』 『だねー! あはは!』
─────
冷や汗がツーっと背中に流れるのを感じつつ、そーっとその場を離れて寮の中へと戻る。もしあの子たちが私が見ているのに気づいたらどうなっていたことやら……
「ふぅ……夕方まで部屋でゆっくり休もっと」
「あっ、エスキモーちゃんじゃないッスか。おはようッス」
ホッと一息ついた私に声をかけてきたのはいつもよりゆったりとした朝のひとときを過ごしていたカジっちゃん先輩だった。少しばかり動揺しているのを悟られないように、なるべく普段通りに挨拶を返す。
「おはようございます、カジっちゃん先輩。起きたばっかりですか?」
「そんなことないッスよ! 顔洗って朝ご飯食べて着替えて……ほらっ、いつもやってもらってるお団子だって!」
そう言って頭の上のお団子をこれでもかというぐらい見せつけてくるカジっちゃん先輩。いやそんなこと自慢されても……という言葉をグッと堪えて優しく微笑んで受け流す。
「おー、綺麗にできてますねー では私部屋に戻ってるんでまた後で!」
そう言ってスタスタと歩き去っていく私の方を見て「あ、あれ、エスキモーちゃん?」と何か戸惑っているカジっちゃん先輩の声が後ろから聞こえてくる。ただ私はそれを颯爽とスルーして予定通りに部屋に戻り、自分のベッドへと華麗にダイブを決め、1人明日のレースについて思考の海へと沈む。
「それにしても明日は逃げ宣言が2人……放っておいたらそれこそ行った行ったになっちゃう。本番は次だから今回は着拾いに徹する方法もあるんだけど……」
春にダービー勝っている上にこのレースでも3着までに入れば菊花賞の優先出走権がもらえるから、本気でこのレースを獲りにいく必要はそれほどない。
「だけど、勝てる勝負をみすみす取りこぼすのはメジロ家の流儀に反する……だったらやることは1つ」
いかなるときも優雅たれ。それはレースでも同じ。
「早めに前を捉えて突き放す。やれるか分からないけど物は試しっていうし。もちろんトレーナーにいいよって許可もらってからだけど」
当然次のレースに疲れを残しちゃ本末転倒だから程々にだけど、脚質の幅を広げるためにも試してみる価値はある。
「やって、みますか……!」
──その夜トレーナーに直接聞いてみると、特に待ったがかかることなく許可が下りたので作戦決行の手筈は整った。あとはレース本番を待つのみ。
─────
迎えたレース当日。久しぶりに本番の舞台で体操服を着ることに若干の違和感を覚えつつも、他には特に問題もなくまもなくレースが始まるところまで来た。
そんなレースに向けて徐々に集中力を高めている私と最後までレース分析を続けているトレーナーがいる控え室のドアが何度かノックされ1人のウマ娘が中に入ってきた。
「レース直前にすまない。エスキモーさんの激励に来た──」
「サートゥルヌスさん!? どうしてここに……って応援しに来てくれたんだ」
そう、彼女はサートゥルヌスさん。ホープフルSや皐月賞、ダービーと幾度となくぶつかってきたライバル。ライバルといっても私の1勝2敗だから、彼女が私のことをどう思っているのかは分からないけれど。
「こんにちは、サートゥルヌスさん。君は来週レースだろ? 敵情視察といえど君は菊花賞に出ないんじゃ……」
トレーナーが開いていたパソコンを閉じ彼女に問いかける。そう、前に私にこっそり教えてくれた菊花賞回避の情報はこの時期になるととっくに世間に知れ渡っていた。あっ、私が広めたんじゃないからね!?
その問い掛けにサートゥルヌスさんは軽く首を横に振り、目をキラキラ輝かせながらこう答えた。
「敵情視察? そんなことで今日ここに来た訳じゃない。純然たる応援、そしてライバルがどのような走りをするのかという期待。僕はただそのためにレースを観に来たんだ」
「ライ……バル……? 私が?」 「当たり前じゃないか。ホープフルSで初めて相まみえた時からずっとそう思っていたよ。君は違うのかい?」
その質問に対して今度は私が頭を振る番。一度大きく息を吐き出してから彼女の顔をじっと見て微笑む。
「ううん、私もあなたのことライバルと思ってる。だからそうあなたにそう言ってもらえて嬉しい。応援ありがとね」
「感謝を言われることはないよ。それではレースもそろそろだろうから僕はここで失礼するよ」
そう言って悠然とドアの方へ向き直し去っていくサートゥルヌスさん。
「神戸新聞杯、応援に行くからね!」
私のこの問いかけに後ろ向きに軽く手を上げるだけで静かに去っていく。レース場、しかも控え室まで訪れて弾む声で寄せられた期待、絶対に裏切っちゃいけない。
「トレーナー」
「うん」 「私、勝ってくるね」 「ああ、行ってこい」
静かに、されど力強いエールにもう一段心の中でギアが上がる。
この興奮、どうぶつけようか。
─────
『朝日セントライト記念、G2。出走する18人がゲートの後ろでレースの始まりを今か今かと待ち構えております。上位3人にクラシック最終戦菊花賞への優先出走権が与えられるこの一戦。果たしてその切符を掴むのは一体どのウマ娘なのか!?』
私の枠順は2枠3番。逃げ宣言の2人とも私より外に入る格好となった。
(とりあえず先に行かせてその後ろでマークする形。どうせみんな私を潰しにくるだろうから、包まれないようにだけ気をつけて──)
『さあ枠入りが進んでいます、ダービーウマ娘メジロエスキモーもすんなりとゲートに収まりました』
右隣には皐月賞、ダービーと競い合った子。左隣にはローカルシリーズから参戦してきた子。そしてそのいくつか隣にはダービーでも逃げたあの子がいる。
「すぅ〜〜……よしっ!」
『──さて最後に大外18番ゴーフォザローズが収まりまして態勢完了……スタートしました!』
得意のスタートをキッチリと決め、スッと前へと上がっていく。ただ最初の直線も険しい坂があるため無理には行かない。少し抑えた所にレース前の想定通り外から2人勢いよく私の前に入り込み、リードを1バ身、2バ身と開いていく。
(ただそんなに引き離されちゃ駄目。最後の脚は残しつつもいつでも交わしに行ける位置につかないと)
『──1コーナーを過ぎここで隊列が決まりました。先頭で逃げますのは14番ファンデルワールス、リードは1バ身ほど。2番手にダービーでも逃げの手を打ちました8番リーベリーベ。今度こそ実を結ぶのか。そして……おっとここにいました、今年のダービーウマ娘、1番人気3番メジロエスキモー。今回はダービーの時よりさらに前でレースを進めている模様です。菊花賞への参戦を既に表明していますが、今日はどのような走りを見せてくれるのでしょうか。そして4番手以降は──』
内回りとの分岐点を過ぎ、外回りのコースへと向かっていく18人。ペースとしては大体平均ほどで進んでいるだろうか。体内時計は先天的かそれとも後天的なものかは分からないが、知らないうちに走りながらも正確なタイムを把握することができていた。
『──2コーナーを過ぎた辺りで最初の1000mは59秒8。標準的な流れとなっているでしょうか。隊列はそれほど変わらないまま縦長で3コーナーへと向かっています』
(まだ動かない……今動いたら確実に脚が止まって最後の直線で後続に飲み込まれる……勝負は残り400mを過ぎてから……!)
我慢の時間が続く。動きたい、だけど我慢。我慢して最後で一気に……!
『──さあ3コーナーを過ぎてペースが上がってまいりました。徐々にバ群が固まってきまして残り600mを切ります。ここで18人が一団となりまして4コーナーへと差し掛かります!』
皆がスパートを開始し、後方待機組が一斉に押し寄せてくる4コーナー。
(まだ我慢……我慢……)
そして400mの標識を過ぎ最後の直線へと突入する。
(よし、ここっ!!!)
波のように襲いかかってくる後続をちらりと目で捉えるとともにアクセルを踏み込む。
『──さあ最後の直線! 先頭はファンデルワールスがまだ粘っていますがここで内から上がってきたリーベリーベに替わる……いやその外から……来た、来た! ダービーウマ娘が一気に前を捉えて先頭に替わりました! 残り200を切ります!』
(あっ、思ったよりも手前で先頭に立っちゃった。ここから差されないようになんとか粘り込んで……)
『先頭はメジロエスキモー! 2番手はリーベリーベが粘り込むか! 3番手争いは激戦だが外からトサノキラメキが脚を伸ばしてくる! メジロエスキモー、最後は流し気味でゴールイン!』
「はぁ……ふぅっと。よし、想定通りのレースができたかな? だけど……」
少し違和感を感じる。決してそれは悪いものではなくむしろ逆。いくら前哨戦のG2といえど悠々と駆け抜けることができるようになったのは単なる成長か、それともいわゆる“領域(ゾーン)”に入ることができたのか。
「うーん……あとでトレーナーに聞いてみよっと」
とにかく今は声援を送ってくれているファンのみんなに感謝を伝えに行かないと。そして、1回目のゴール板を過ぎた時に視界の端に見えたサートゥルヌスさんに勝利報告をしてこないとね。
─────
「うーん、それは領域(ゾーン)じゃないんじゃないか?」 「あっ、そうなんだ」
トレーナーの家に帰りご飯を食べている時にレース後に浮かんだ疑問をそれとなく聞いてみたけど、特に迷うことなくあっさり否定されてしまった。ただトレーナーも少しは思うところがあるようで……
「ただいくらダービーより一枚落ちるメンバー構成といえど、レース後の息の入りが良くなっているのは成長している証拠だ、誇っていい」
ウマ娘の「本格化」は2つ存在する。1つはトゥインクル・シリーズに挑める程度に能力が花開くもの、そしてもう1つは前者より劇的な変化ではないもののトゥインクル・シリーズの最中、身体的や精神的に成長していく様のことをそう呼んでいる。シニア級のタマモクロス先輩やクラシック級の夏以降のスーパークリーク先輩などを想像すれば分かりやすいだろうか。トレーナー曰く私にもその兆候が見られるとのこと。ということは素直に褒められてると思っていいんだよね?
「そういえば最近服がまたキツくなってきたんだよね……下着また買い替えなきゃなー」
「それは違うんじゃ……いやあながちそうでもないか……?」 「もう冗談だって。今度のお休みの日さ、また買い物付き合ってくれない?」
そうデートのお誘いをすると、トレーナーは少し顰めた顔をする。
「……この前みたいにランジェリーショップの店内でオレを1人にしないんだったらな」
「えー!? そんなに待たせてないでしょ? トレーナーはせっかちだなあ。ぶーぶー」
頬を膨らませて少しぶりっ子気味の抗議。それにもトレーナーは反論してきて……
「そうじゃなくって、ああいう店で男1人は居心地悪いんだよ……他のお客さんとか店員さんにもチラチラ見られるしさあ……」
「そこは堂々としてればいいの! あっそうだ、この前トレーナーに選んでもらったの今着けてるんだけど……見る?」
そう言って椅子から立ってスカートを少し持ち上げる仕草をとろうとすると、これまたトレーナーが俊敏な動きで机の角を2度綺麗に回る。その華麗なコーナリングに驚嘆している私の手をさっと押さえ、スカートを元の位置に戻させると軽くデコピンを放つ。
「痛っ! ちょっとした冗談でしょー?」
「お前の場合はそれが冗談に思えない前科があるからな。もうすぐ20時なんだから、食器とか片付けたら早く寮に戻りなさい」 「……はーい」 「素直でよろしい」
ここで下手にゴネると今度はもう1回G1勝つまでお泊まり禁止令が出されるかもしれないからあっさり引き下がる。G1って普通はエスキーみたくポンポンと勝てるものじゃないもんね。ってエスキーもう9個もG1勝ってるんだ、凄いな……
─────
いつものようにトレーナーに手伝ってもらったから後片付けもスムーズに終わる。門限も迫ってきているからさっさと退散しなきゃと鞄を持ちローファーを履いて玄関を出ようとした時、後ろからトレーナーに呼び止められた。
「なあエスキモー、週末のことなんだけど」
「週末? サートゥルヌスさんのレース観に行くけど、もしかして駄目だった?」 「駄目じゃないし、むしろ自ら敵情視察に向かうのは褒めたいぐらいだ。まあそれはそれとしてだ」 「もったいぶらないでよ。早く帰らなきゃなんだから」
今にも玄関から飛び出しそうな私に向けてトレーナーが放った言葉は、私をその場に釘付けにするには十分な台詞だった。
「せっかくだし一緒に行かないか……前の日から」
「えーっと……えっ? それってつまり……」 「もちろん目的は今度のレースのためだからな。土曜は京都で菊花賞のコースの確認、日曜は阪神で神戸新聞杯の観戦。嫌なら1人で日曜だけで行ってきてもいいんだけど、どうする?」 「嫌な訳ない! せっかくトレーナーと2人でお泊りなんだから……って、あれ? なんか変な感じが……」
トレーナーの言葉にやや被せ気味で叫ぶも違和感を覚え言葉尻が萎んでいく。えーっと、なんだっけ……あっ!
「トレーナー! お泊り駄目って前言ってたでしょ! なんで今回はオッケーなの?」
そうだ、そうだった。前私がやらかした翌日、トレーナーから叱られてお泊り禁止になったのに今回泊まりじゃん!
その私の至極当然の疑問に、トレーナーは如何にも理路整然のようにこう答える。
「『オレの家に』お泊り禁止な訳であって、それ以外の場所のことは何も言ってない。だから今回のは特に問題ない」
「……屁理屈じゃない? 私が言うならまだしもトレーナーがそれで大丈夫なの?」 「……何も問題ない。ほら時間もヤバいんだから早く帰った帰った」 「……はーい。じゃあおやすみなさい。また明日ね」 「ああ、おやすみ」
そう言って手を振るトレーナーに手を振り返して玄関を出る私。寮への道のりを少し駆け足で急ぎつつ、片足だけ思考の沼に踏み入れる。
(トレーナーってあんな理屈捏ねくり回す人だったっけ? トレーニングメニューとかレースプランは初めて単独で担当を持ったトレーナーとは思えないほど筋が通っていて理に適ってる。会長的には理路整然、順理成章、だったっけ。まあ私にしたらコースの下見もできてトレーナーとお泊りできる上、サートゥルヌスさんの応援もできるんだから文句言うことないんだけどね)
「まあいっか、深く考えなくて」
そう1人結論づけて思考の沼から片足を引っこ抜き、辿り着いた寮の玄関へと足を踏み入れる。寮長の「また門限ギリギリだよ」という至極当然の小言に軽く頭を下げつつ、足音を立てないよう静かに自分の部屋へと戻っていく。
─────
「我慢しているのはこっちもなんだよ……」
「手を出せば楽になれるぞ」という悪魔の囁きと「まだ中等部だよ」といった天使の囁き。天使の方もそんなに引き止めてない気がするが、まあこの際いいだろう。
──To be, or not to be, that is the question(週末のホテルを2人1部屋にするか2人2部屋にするか、それが問題だ).
─────
「ん〜〜〜〜〜っ! 着いた〜〜〜!」 「まだここから乗り換えあるけど、ひとまずお疲れ様だな」
新幹線を降り、京都駅のホームに2人降り立つ。東京から2時間と少し。2人仲良くおしゃべりしたり、車内販売のすっごく硬いアイスに挑戦して楽しく過ごしていたら思いの外あっという間に着いてしまった。
「ここから近鉄に乗って、丹波橋で京阪に乗り換えたらすぐだな。30分かからないぐらいだ」
「あっ、ほんとだ。でも今日のホテルは京都じゃないんでしょ?」
改札の方へ歩きながらトレーナーのスマホの画面を覗き込みつつ疑問を投げかける。ホテルに荷物預けられるなら先に預けてからコースの下見に行きたいんだけど……今日もキャリーで来ちゃってるし。
「ホテルは大阪で確保してある。予約の段階で1週間切っていたから、良いホテルは取れなくて普通のビジネスホテルなのは勘弁してくれ。あと荷物はレース場で預かってもらえるの確認してあるから安心していいぞ」
「そっか、それなら良かった。それとホテルのことは気にしなくていいから。私の予定にトレーナー巻き込んじゃった形だしね」
単純にビジネスホテルがどういうものなのかも楽しみだから気にしてない。これから泊まる機会増える気がするし、ここで慣れておかないとだし。
「エスキモーの方こそ気にしないでくれ……っと乗り換えはこっちだ。手、離すなよ?」
「言われなくても離しませーん。なんなら腕組んじゃわない?」 「単純に今の荷物じゃ歩きにくいから荷物手放してからな」 「言質、取ったからね?」 「取ったところでな気がするが……」
そうやって新幹線の中と変わらない普段の調子でレース場まで2人途切れることがない会話を続けた。
─────
「よし、着いた。じゃあオレは職員の人に挨拶に行ってくるからここで待っておいてくれ」 「はーい」
駅直結の連絡通路を通り入場入口を抜けたところで数分ほど1人待ちぼうけを食らう。関西だったら阪神レース場はメイクデビューの時に来たけど、京都の方はレースで来たことがなく全く初めて訪れる格好になる。物珍しさに周囲をキョロキョロと見回している様は、人が見ればお上りさんそのものに見えただろう。というかレースはやってない代わりに場内の至るところで他の場所のレース中継してるから、お客さんはぽつぽつと見かける。
と、そうこうしているうちにトレーナーと、あれはレース場の職員だろうか、2人で私の居場所まで帰ってきた。職員さんは一礼すると私たち2人の荷物を預かってすぐに戻っていき、トレーナーは私の手を取って場内の案内を始める。
「今オレたちがいるスタンドがビッグスワン、隣接している方はグランドスワンって呼ばれている。向こうはもう少しで建て替えるとかって話を聞いたけど、少なくとも来年の秋まではレースはやるそうだ」
「ふーん、だったら天皇賞の対策にもバッチリ使えそうだね」 「来年の話をすると鬼が笑うって言われるがその意気だ。それで肝心のコースが……これだ」
スタンドを通り抜けた先に綺麗な緑のターフが広がっていた。しかもコースの中には大きな池が見える。
「中継で見たことあるけど、真ん中に池があるって凄いね……他のレース場と全然違う……」
「そうだろ? だからオレもこのコース好きなんだよな……それでだ、池の右手奥にそびえ立つのが……」 「淀の坂……」
コース全体の高低差は4.3m。その大部分を占めるのがこの名高い坂。500m少々走る間に高低差約4mを上って下る。この箇所以外はほぼ平坦といっていいコース形態。ということは……
「淀の坂を制する者がレースを制する……」
「そういうことだ。本当だったら実際に走って確認できればよかったんだが、流石に贔屓はできないと断われちゃってな。ただ少しの間外ラチ沿いを歩くぐらいは許してくれたから、バ場入場の部分からコースに入ろうか」 「ふーん、トレーナーやるじゃん。このこの〜」
そうやって肘で脇腹をつつくと少し照れたのか、ごまかすように咳払いをして話を続けるトレーナー。
「……さっさと行くぞ。それでさっきの坂の話の続きだが、一昔前まではゆっくり上ってゆっくり下るのが原則だった、特に菊花賞や天皇賞のような長距離では。ただ今はゆっくり上るまでは同じだが、2回目の坂越えは下りで惰性をつけて、その勢いのまま最後の直線に向かうケースが増えてきているから要注意」
「じゃあスパートをかけるなら坂の頂上ってこと?」 「スタミナに自信があればそれこそ坂の手前からスパートをかけてもいいんだが、初めての3000mのレースでそれをやるのは無謀に近い。かといって下り始めは周りと同じだし……」
そう言って頭を悩ませるトレーナー。スタミナつけるトレーニングは夏から念入りに行っているから私としてはある程度の自信はあるけど、本番を走っていない以上これこれこういう作戦なら大丈夫だと断言することはできないのがもどかしい。
2人して何かいい案はないものかと頭を捻っているうちに坂の手前まで辿り着いた。
「近くで見たらほんとに凄いね……」
観客席からでも見て取れるほどの高低差は、当然近くで見ればそれはもう驚くほどのもので、足が止まり言葉を失う。そんな私を先へ促すようにトレーナーは私の手を引っ張り、前へと再び歩き出す。
「ここが上り始め。ここから仕掛けるのは流石にオススメできない。やれるのはごくごく一部のスタミナ自慢か、ここから仕掛けていかないと最後までトップスピードに乗らないズブ目のウマ娘かのどっちかだ。トレーニングを見ている感じ残念ながらまだエスキモーは前者の域には達していないからここから仕掛けるのはなし」
「もちろんズブくもないしね」
そう言いあいながらズンズン前へと進む。
「ここで若干坂の傾斜が変わる。ここから少し進むと……残り1000mのハロン棒に差し掛かる。ペースはこの辺りから上がっていくと思う。ただここでも我慢して……」
「我慢して?」
そこからまた歩き続けて100m少々。あと少しで坂の頂上となる部分まで来た。
「今のエスキモーならここから仕掛ければ大丈夫、だと思う」
いつもと違ってトレーナーの歯切れが悪いけど仕方ない。さっきも言ったとおり3000mという距離は練習ならともかくレースで走ったことなんてないんだから。
「ここから加速して下りでスピードに乗って、最後の直線で後続を振り切る形、ってことね。道中の位置取りとしてはどの辺りがいいかな?」
「後ろからでもエスキモーなら届くと思うけど、4コーナーで前が外に膨れたところに突っ込んで前が壁になるリスクを考えたら、セントライト記念までとは言わないけどある程度前目のポジショニングが欲しい」 「ありがと、出遅れないようにだけ気をつけるね」
作戦がなんとか出来上がり、そのまま2人してゆっくりとコースに入ってきた場所まで戻ってくる。そこで何やら少ない観客が盛り上がっているのを見てターフビジョンを見上げると、ちょうど他場のメインレースが決着するところだった。
「あれ、もうこんな時間?」
「昼前に東京出たからな。コースもゆっくり見て回ったし、もう少し場内ぶらっと巡ったら荷物もらってホテルに向かうか」 「はーい。最後まで案内よろしくね?」 「もちろん」
コースにいる時とはうってかわって自信たっぷりにレース場の中をトレーナーが案内してくれる。ショップで私のグッズを見つけて2人キャッキャしたり、誰もいないパドックを静かに眺めていると他場のレースが全て終わり閉場の時間となった。入る時と一緒でトレーナーが1人どこかへ行ったかと思ったら、私と彼のキャリーバッグを一緒に持ってきてくれた。トレーナーから私の分の荷物を受け取り、手を繋いで出口から駅の方へと向かう。
「ありがと、トレーナー。言ってくれたら一緒に取りに行ったのに」
「いいのいいの。こういうのはオレの仕事だから」 「そう言われちゃしょうがないなあ……じゃあホテルまでもエスコート、お願いね?」 「今の台詞結構ギリギリだから気をつけてくれ……」 「えーっ!? 気にしすぎじゃない?」 「いいから!」 「はーい」
そんなやりとりをしながら電車に乗り込み今日の宿に向かう。そして辿り着いたホテルでチェックインを済ませ、部屋に入ると……
「ツインベッドの部屋にしたんだ……ベッド1つだけでもよかったのに」
真ん中に1つ大きなベッドがあるタイプではなく、少し離れて2つ並んでいるタイプ。ちょっぴし残念だけどまあいいっか。本当はお泊り自体駄目な期間中なんだし。
「そこはちゃんと線引かせてくれ。あともちろん着替えはバスルームの中、いいな?」
「はいはーい。気をつけまーす」 「大丈夫か……?」
トレーナーの不安そうな声をよそにちゃちゃっと荷物の整理を始める。夜ごはんは外で美味しいところ探してくれてるみたいだし、お風呂は大浴場があるし、何もしなくていいって最高! 明日はサートゥルヌスさんの応援に行くしほんと素敵な休日だなあ。
──ここで「仕掛ける」のはここまでエスコートしてくれたトレーナーのためにも今日のところは止めておこうかな。関係壊したくないしね。
─────
鼻歌混じりで荷物の整理を行うエスキモーを視界の隅で見ながら自分の方も軽くカバンの中身を検める。
(えーっと明日の準備は……よし、大丈夫。なんだけど……)
1部屋にするか2部屋にするか迷った挙げ句、日和って1部屋ながらツインベッドの部屋にしてしまった。
(これならダブルベッドでも一緒だよなあ……どっちみちエスキモーはオレのベッドに潜り込んでくるだろうし……)
学生が恋人のとき、しかも中等部の場合の適切な距離感を未だに掴みかねているまま、今日も夜が静かに距離を縮めていく。
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朝、小鳥のさえずりが聞こえそうなぐらい素敵な晴れた空。2人は同じベッドで眠っていたけど……
(何も……なかった……)
いや、分かってたんだけどさ、トレーナーは手出してこないって。いくらこうやってユーカリの木にしがみつくコアラのように腕と脚全部使って後ろから抱きついても全くこっちの方見ようとしないんだもん。
(もう7時過ぎだし起きよっか……朝ごはん食べて出かける支度しなきゃだし)
そう心の中でひと息ついてからベッドから立ち上がり、部屋のカーテンを思いっきり全開にする。
「トレーナー朝だよー! 早く早く!」
「んんっ……あと5分……」 「子どもみたいなこと言わないの! 最初のレースから見ようって言ったのトレーナーでしょ!?」
布団を再び両手で掴み潜り込もうとするトレーナーvs無理やりにでも布団を引っ剥がそうとする私。もちろんいくら寝起きでも力で男の人がウマ娘に勝てるはずもなくあっさりと決着がつく。
「ほら、布団もないんだしもう抵抗しない!」
「……お姫様のキスがあれば朝から元気出るかもしれない」
いろいろツッコミを入れたい気持ちをなんとかこらえて甘えんぼうな王子様へそっと口づけをする。
「んっ……これで満足した? 朝の準備さっさと済ませてとっとと出発するよ」
「うぃ」 「大丈夫かなあ……?」
相変わらず朝に強くない相方の方を視界の隅に入れつつ、着替えたり髪を整えたりするためにバスルームへと入る。(見られてもいいんだけど)見られないようにドアを閉め鏡を見るやいなや、思わず尻尾がピンと立ち、二度三度目をパチクリさせる。
「私、パジャマの下脱いでる……?」
狭い一室の中をぐるぐると回りながら必死に考える。寝る時は間違いなく履いていたし脱いだ記憶もない。かといって寝ている間にトレーナーに手を出された感覚はないし……
「いつもの癖で脱いじゃった……? でもトレーナーさっき気づいてなかったよね?」
数回惰性で回ったあとにピタッと止まり、もういいやとこのことについて考えるのを放棄する。
「……にぶちん」
そう独りごちるとパパっといつものように身だしなみを整え、トレーナーにバトンタッチ。トレーナーが扉を閉めたのを背後で感じ取るとすぐにベッドの周囲や上を確認。すると、さっきトレーナーと布団の奪い合いをした時にベッドから落ちたのだろうか、ちょうどベッドの足側の床にズボンが落ちているのを見つけた。
(まだ見られてないよね……よし、回収成功っと)
レースの時と近からず遠からずの俊敏な動きでズボンを拾い上げ、ルームウェアの上着の下にそーっと忍び込ませる。これで如何にも前からそこにあったかのように見せかけることができたはず。
とりあえず問題は無事に解決。掛け布団や枕とかも使用済だと分かる程度に綺麗に整え、トレーナーが出てくるのをベッドにちょこんと腰かけて静かに待つ。しばらくしてバスルームから出てきた、寝起きと比べ物にならないぐらいさっぱりとしたトレーナーを少しばかり睨みつけ、2人で一緒にホテルの朝食会場へと向かう。
(こういうところは鈍感なんだなあこの人は……)
─────
朝食を済ませ部屋に戻り、ちゃっちゃとチェックアウトをして阪神レース場へと足を運ぶ。京都の時とは違い一度デビュー戦で走ったことがあるから、ワクワク感は昨日よりほんのり薄い。
「今日これから曇ってくるってさ。折りたたみの傘は持ってきてるけど、レインコートの方がよかったかな?」
「大丈夫、2人分ちゃんと持ってきてるよ」 「ひゅー、流石トレーナー! 朝とは別人みたい」 「……うるさい」
電車の中で今朝のことをちょろっとだけからかってみると、記憶自体はバッチリ残っているのかじんわりと頬を朱色に染めそっぽを向くトレーナー。追い打ちをかけてもよかったんだけど、ちょうど乗り換える駅に着き立ち上がるタイミングだったこともあり、踏み込まずにそっとしておく。乗り換えのためにホームを移動していると、互いに気分転換したかったのか自然と今日のレースの話題になる。
「神戸新聞杯8人立てなんだって。G2でしかもトライアルレースなのになんだか寂しいな」
「それだけサートゥルヌスさんが抜けて強いってことだろ。いくらトライアルでもそこで戦意喪失しちゃ走る意味ないからな」 「それはそうなんだけど……やっばり私は大人数で競い合うところが見たかったなって」 「言いたいことは分かる。ただ今日溜まったフラストレーションは菊花賞で思いっきり発散すればいいから、少しだけ我慢な」
そう言って頭をポンと私の頭の上に置く。朝の意趣返しなのだろうか、すぐにその手を振り払い、無言で抗議の眼差しをトレーナーへと向ける。
「そう睨むな睨むな。ほら、もう電車出るぞ」
「ふーんだ。言われなくても分かってますよー」
まるで懐かない猫のようにツーンとした態度で速歩きで乗り換えの電車に乗り込む私。トレーナーはそんな私を追いかけて素早く車内へと滑り込み、乗り込んだドアの逆側の扉にもたれかかった私の隣へと寄り添う。
「帰りに好きなもの買ってやるから機嫌直してくれよ……」
「……じゃあ新幹線でアイス食べたい。行きで食べたの」 「はいはい、分かりましたよお嬢様」 「……じゃあ許してあげる」
そんなやりとりを交わしているうちに片方の扉が閉まり、レース場に向かうファンたちを乗せて電車が前へと進み出す。数時間後衝撃のパフォーマンスを目の当たりにすることになるとは誰も露知らず。
(……というか別にそんなに怒ってなかったんだけどさ。もちろんアイスはありがたくいただきます)
─────
「阪神芝外回り2400m。観客席から見て右奥の引き込み線からスタートして、外回りコースをぐるっと一周するコース形態。まずホームストレッチでの急坂を越えての長い攻防ののち1コーナー、2コーナーを過ぎて今度は長い向こう正面へと勝負は移る。隊列は既に決まっているから、ゆったりとした流れになることもよくある」 「どうしたの急に」
メインレースのバ場入場がまもなく始まろうとする時、観客席の一番前で2人陣取っていると突然トレーナーがコースについて語り始めた。一度息を入れたタイミングですかさずツッコミを入れるも、そんな相槌は意に介さず再び語りだす。
「そして3コーナーから4コーナーにかけての大きな円弧。内回りコースとは違いカーブがキツくない分、ストライドを伸ばしたまま回ることができる。そして、4コーナーを回ると最後の500m近い長い直線での追い比べ。その最中には当然急坂も待ち構えていることから見応え十分のレースを楽しめることができる……それなのに……それなのに……」
「どう、したの……?」 「一番グレードが高いレースがクラシック級限定のこのレースってもったいなくないか? 少なくともオレはそう思う」 「そんなにこのコースに思い入れがある訳じゃないからなんとも言えないけど……トレーナーの話を聞いてたらいいコースじゃないかなって思えてきたよ」
ただその熱意はどこから来るのと突っ込んで聞くことはできず、そのままバ場入場、ゲートインへと進み、あっという間にゲートが開きレースが始まった。
「頑張れー! サートゥルヌスさーん!」
─────
『さあ向こう正面の途中で最初の1000mを過ぎますが……1分3秒台で通過しました。2400m戦といえども非常にスローペースでレースは進んでおります』
「……遅くない?」
ターフビジョンに表示される通過タイムを訝しめな目で見つめる。いくら少人数だからってこれは……
「逆に言えば前の子たちは十二分に脚が溜まっている状態で終盤を迎えることができる。すなわち」
「今2番手にいるサートゥルヌスさんが圧倒的に有利な状況ってことね」 「そういうこと。まあこの展開なら間違いなく彼女が勝つだろうな。あとはどんな勝ち方をするかだが……」
そうやって話す2人が見つめる巨大なスクリーンの中に映し出されたサートゥルヌスさんの表情は僕気持ちよく走ってますと聞こえてきそうなぐらい堂々と、そして落ち着いたように感じた。
─────
3コーナーを過ぎ、ゆっくりだった流れもラストスパートに向けて少しずつペースが上がっていく。もちろん彼女はそれに飲まれず、むしろもう先頭に立ってやろうかという勢いで前のウマ娘に迫っていく。そして最後の直線を向く頃にはその波は留まることを知らず前を飲み込み、あっさりと先頭に替わった。
「すご……!」
周囲のウマ娘たちが必死の表情で彼女を追うが、まさしく涼しい顔をしたまま直線を駆け抜け、坂を乗り越えていく。ダービーの時とはまるで別人のようだ。
『サートゥルヌス先頭! 後方からプレミアムコスモが迫ってくるがこれはセーフティーリード! サートゥルヌス3バ身ほどのリードを保ったままゴールイン!』
直線半ばで後ろを振り返るほどの気持ちの余裕とその圧倒的実力。やはり彼女は強かった。当たり前のことを改めて感じ取ったレースっぷりだった。
「ほんとに凄かったね……! なんというかこう……上手く言葉にできないけど!」
「語彙力……」 「今はちょっと上手く言葉が出てこないだけよ! トレーナーだって最後の直線叫んでたじゃない」 「そりゃだってあんなレース見せられたら誰だって声漏れるって」
2人してキャーキャーワーワー叫んで盛り上がっていた迫力満点のレース。その感動を伝えようとレース後の控え室へと足を運ぶ。当然向こうのトレーナーさんやURAの人たちには行くことは伝えてあるからあっさりと部屋に入ることができた。
「レースお疲れさま! それと……1着おめでとー!」
勝者への祝福は盛大な拍手と精一杯の声とともに。彼女はそれに応えるように一礼をし、応援への感謝を伝える。
「ありがとう、エスキモーさん、そしてそのトレーナーさん。レース中もその姿とその声、はっきり認識することができたよ。気楽に走れたのはそのおかげかな?」
「そう言ってもらえると嬉しいな。それがなくても勝ってた気もするけど……でもちょっと残念だな。こんな強いあなたが菊花賞に出てこないなんて」
セントライト記念と同様、上位3人に菊花賞への優先出走権が与えられる一戦。2400mが問題ないことを証明した今、私としては3000mに向かってほしい気持ちがある。ただ彼女は既に菊花賞を回避し、シニア級ウマ娘たちとの戦い、天皇賞へ駒を進めることを表明していた。
そんな残念がる私の顔を見て、彼女も少し肩を落とす。
「僕も君と走りたかった。ただ僕に3000mという長丁場は合ってないんだ、残念ながら。適性がない距離を走るぐらいなら経験豊富な先輩たちを相手にしてでも中距離で勝負をしたい、そう思ったんだよ」
「そこまで言うなら頑張ってきてよね。しょうもないレースしたら許さないんだから」 「ああ、決して君を落胆させない。ただその前に君にも僕をワクワクさせる走りを見せてほしいな」 「当然よ。絶対勝ってみせるんだから」
そう言って互いの手をグッと握る。またの再戦を心より願って、強く、強く。
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