近頃、私は誰のものかわからない記憶に侵食されている。
皐月賞の前夜、自主練含むトレーニングとクールダウン食事入浴スケジュール再検討等の全てを終わらせた私は、自室の机で帳面を睨みながらそんなことを考えていた。
皐月賞の前夜、自主練含むトレーニングとクールダウン食事入浴スケジュール再検討等の全てを終わらせた私は、自室の机で帳面を睨みながらそんなことを考えていた。
第一の奇妙はおよそ六年前、時間遡行の回数が二桁に入った頃から、私が夢の中で誰かの記憶の追体験をすることであの奇妙な世界を頻繁に観測するようになったことである。
観測する世界…"あちらの世界"とでも呼ぶことにしよう。初めてあちらの世界で『ウマ』あるいは『競走バ』と呼ばれていたその細身の牛のような四足歩行の動物を見た時は、ウマ娘によく似た耳と蹄につけた金具がどうもウマ娘を獣に喩えた風刺画か何かのように思えて苛立ちを覚えたものだ。視点の主は、小さな陸上用コースーーパドックと呼ばれていたーーを周回している『ウマ』を、「仕上がっている」だとか「輸送の疲れが出ている」などと品評する。何やら不気味で悪趣味な夢だ、などと当時の私は呑気に思っていた。それが度々続くようになってからはそのような事を考える余裕は無くなったが。
観測する世界…"あちらの世界"とでも呼ぶことにしよう。初めてあちらの世界で『ウマ』あるいは『競走バ』と呼ばれていたその細身の牛のような四足歩行の動物を見た時は、ウマ娘によく似た耳と蹄につけた金具がどうもウマ娘を獣に喩えた風刺画か何かのように思えて苛立ちを覚えたものだ。視点の主は、小さな陸上用コースーーパドックと呼ばれていたーーを周回している『ウマ』を、「仕上がっている」だとか「輸送の疲れが出ている」などと品評する。何やら不気味で悪趣味な夢だ、などと当時の私は呑気に思っていた。それが度々続くようになってからはそのような事を考える余裕は無くなったが。
話は変わるが、この世界のウマ娘という生き物はいくつかの不可解な特徴を持っている。
ウマ娘はヒトのそれと大差無い断面積の筋肉で70km/hの走行が可能である。その原理は未だ明らかになっていないが、ウマムスコンドリアなる細胞内微生物が存在し、それが影響していると言われている。対して、あちらの獣のように四足歩行であの関節構造と筋肉量なら"私たちと違って"あの速度にも簡単に説明がつく。生物として耐久性に難こそあるが。
ウマ娘の名前は母ではなく本人が生まれつき知っている。言語機能が発達した後に自己申告的に本名を決めるのだ。そうしてつけられた名前はカタカナにして九文字内、見事にあちらの世界の『競走バ』に対する命名規則と一致する。
我々の蹄鉄は伝統的にU字型をしている。実用性を追求したとでも謳っている色物すら一つもないのは不自然だと言える。そしてまた、あの形も不気味なほどあの動物の蹄にフィットしている。私は夢の中でその動物に蹄鉄を装う仕事をしたことがあるのだから、あれは間違いなく我々のそれと同じ蹄鉄だ。
何より興味深いのは、"あの着順表"を『ウマ』のレースの成績表として、夢の中でその全体像を知ることができたことだ。
ウマ娘はヒトのそれと大差無い断面積の筋肉で70km/hの走行が可能である。その原理は未だ明らかになっていないが、ウマムスコンドリアなる細胞内微生物が存在し、それが影響していると言われている。対して、あちらの獣のように四足歩行であの関節構造と筋肉量なら"私たちと違って"あの速度にも簡単に説明がつく。生物として耐久性に難こそあるが。
ウマ娘の名前は母ではなく本人が生まれつき知っている。言語機能が発達した後に自己申告的に本名を決めるのだ。そうしてつけられた名前はカタカナにして九文字内、見事にあちらの世界の『競走バ』に対する命名規則と一致する。
我々の蹄鉄は伝統的にU字型をしている。実用性を追求したとでも謳っている色物すら一つもないのは不自然だと言える。そしてまた、あの形も不気味なほどあの動物の蹄にフィットしている。私は夢の中でその動物に蹄鉄を装う仕事をしたことがあるのだから、あれは間違いなく我々のそれと同じ蹄鉄だ。
何より興味深いのは、"あの着順表"を『ウマ』のレースの成績表として、夢の中でその全体像を知ることができたことだ。
あちらの世界とこちらの世界、『ウマ娘』と『ウマ』という一つの点を除いて、私が観測する限りでは殆ど同じような二つの世界。
…私には、この世界よりもあの気味悪い風刺画の方が整合性があるように思えて仕方がない。
そこで私は…愚かな妄想だと笑いたいものだが、『私が居るこの世界こそが、あちらの世界を元に創られている』という仮説を作り上げた。
即ち、横並びの並行世界ではなく、上下的な繋がり。
あちらのモンジューがこちらのブロワイエに対応しているなどという緩い関係ではなく、あちらのモンジューを元にしてこちらで名前だけブロワイエにすり替えられたウマ娘が作られたのではないか。
成績表に記されているのは未来の運命ではなく過去の記録なのではないか。
…私には、この世界よりもあの気味悪い風刺画の方が整合性があるように思えて仕方がない。
そこで私は…愚かな妄想だと笑いたいものだが、『私が居るこの世界こそが、あちらの世界を元に創られている』という仮説を作り上げた。
即ち、横並びの並行世界ではなく、上下的な繋がり。
あちらのモンジューがこちらのブロワイエに対応しているなどという緩い関係ではなく、あちらのモンジューを元にしてこちらで名前だけブロワイエにすり替えられたウマ娘が作られたのではないか。
成績表に記されているのは未来の運命ではなく過去の記録なのではないか。
だとすれば、私はどのような存在なのだろうか。
あちらの世界ではレース史に名を連ねていない、いわばデビューしないはずのウマ娘。一度学園の入試で落ちたのはそんな運命の強制力によるものなのかもしれない。人前で喋ることに緊張した私が質問に答えられなかったのも、きっと全部そのせいだ。おのれ世界。
馬鹿げた考えを捨てる。だとするならばスカウトが特異点か?学園の入試に落ちたにも関わらず走ることに醜く執着したことが実を結んだか。実技試験に至らずに落とされたからと己の脚にしがみつかずに潔く死ねば良いものをー
あちらの世界ではレース史に名を連ねていない、いわばデビューしないはずのウマ娘。一度学園の入試で落ちたのはそんな運命の強制力によるものなのかもしれない。人前で喋ることに緊張した私が質問に答えられなかったのも、きっと全部そのせいだ。おのれ世界。
馬鹿げた考えを捨てる。だとするならばスカウトが特異点か?学園の入試に落ちたにも関わらず走ることに醜く執着したことが実を結んだか。実技試験に至らずに落とされたからと己の脚にしがみつかずに潔く死ねば良いものをー
…いや、よそう。
私自身について考えてはいけない。
"私自身について考えてはいけない"。
ずっと昔から知っているはずだ。
私自身について考えてはいけない。
"私自身について考えてはいけない"。
ずっと昔から知っているはずだ。
…そもそも。
「情報ソースは全部ただの夢なんだよなぁ…」
されど夢であるとすら言えるのだが。
「情報ソースは全部ただの夢なんだよなぁ…」
されど夢であるとすら言えるのだが。
話を替えよう。起きている時の記憶異常について。
最初は、何千回と使ってきたロッカーの場所を間違えるという些細な現象。
それから5日連続でバラバラの場所を自分のロッカーだと間違えた。…4日目に私がスポドリを取り出そうと開いたのは、錆びついた掃除用具入れだった。
一月後、寮の自室を間違えた。それも一つや二つ隣の部屋という規模ではない。間違えて栗東の部屋に帰ったのだ。寮を間違えた、という言い方ではないのは、私の隠密性能()故に自室だと思っていた部屋に入るまで誰にも気づかれなかったからである。
さらに半年後、私は姉に近況を伝える手紙を書いた。書き終えてすぐ、私は自分に姉などいないことを思い出した。自分で書いたはずの手紙の内容は、最近友人と雪合戦をした、九州の実家とは違って東京には雪が降った、というものであった。補足すると、これはシニア級夏合宿中の出来事であり、私の実家は関東にある。さらに言えば私に友達と呼べる相手などいない。
そんなことが度々起こるようになって先月、ついに。
私は自分のことを、十年以上前に学園を卒業したはずのアーモンドアイ氏だと思い込んで週末を過ごした。
…実は今まさに、スポーツ一辺倒の半生を送ってきた私では持ち合わせていないはずの語彙が私の思索の中を飛び交っている。如何せん、それを使っている頭が白痴なので使いこなせていないのだが。
最初は、何千回と使ってきたロッカーの場所を間違えるという些細な現象。
それから5日連続でバラバラの場所を自分のロッカーだと間違えた。…4日目に私がスポドリを取り出そうと開いたのは、錆びついた掃除用具入れだった。
一月後、寮の自室を間違えた。それも一つや二つ隣の部屋という規模ではない。間違えて栗東の部屋に帰ったのだ。寮を間違えた、という言い方ではないのは、私の隠密性能()故に自室だと思っていた部屋に入るまで誰にも気づかれなかったからである。
さらに半年後、私は姉に近況を伝える手紙を書いた。書き終えてすぐ、私は自分に姉などいないことを思い出した。自分で書いたはずの手紙の内容は、最近友人と雪合戦をした、九州の実家とは違って東京には雪が降った、というものであった。補足すると、これはシニア級夏合宿中の出来事であり、私の実家は関東にある。さらに言えば私に友達と呼べる相手などいない。
そんなことが度々起こるようになって先月、ついに。
私は自分のことを、十年以上前に学園を卒業したはずのアーモンドアイ氏だと思い込んで週末を過ごした。
…実は今まさに、スポーツ一辺倒の半生を送ってきた私では持ち合わせていないはずの語彙が私の思索の中を飛び交っている。如何せん、それを使っている頭が白痴なので使いこなせていないのだが。
先述した夢を含むこれらの記憶障害の原因の心当たりとしては、やはりあの成績表という共通点などからあの黒い手が最も有力なものとして挙げられる。
ではあの手は何なのだろうか。恐らくあちらの世界から流れ込んできた記憶か何かだろう。ならば誰の記憶だ?ウマか?いや、ウマの記憶だとしたら夢の中での私の視点が人型の生物であることが矛盾する。ではその関係者か?関係者の記憶……願いや想いとかの類いか?いや待て。ここまでの考察で私はあまりにも不確定な仮定を重ね過ぎている。現に起床時の記憶混濁については明確に自分がウマ娘だと思っている実例があるので向こうの世界由来とは言い切れない。そうやって君はすぐに結論づけようとする。ボトルに汲んだ安上がりな水道水を喇叭で飲んで渇きを満たす。下手な馬鹿よりも考えが回るが故に見当違いの答えを真理だと誤認するのだから君は本当に救いようがないサピエンス種、いやもはや『賢い』を名乗る事すら烏滸がましい馬鹿野あああ、っああ!ああ。
ではあの手は何なのだろうか。恐らくあちらの世界から流れ込んできた記憶か何かだろう。ならば誰の記憶だ?ウマか?いや、ウマの記憶だとしたら夢の中での私の視点が人型の生物であることが矛盾する。ではその関係者か?関係者の記憶……願いや想いとかの類いか?いや待て。ここまでの考察で私はあまりにも不確定な仮定を重ね過ぎている。現に起床時の記憶混濁については明確に自分がウマ娘だと思っている実例があるので向こうの世界由来とは言い切れない。そうやって君はすぐに結論づけようとする。ボトルに汲んだ安上がりな水道水を喇叭で飲んで渇きを満たす。下手な馬鹿よりも考えが回るが故に見当違いの答えを真理だと誤認するのだから君は本当に救いようがないサピエンス種、いやもはや『賢い』を名乗る事すら烏滸がましい馬鹿野あああ、っああ!ああ。
…また自分のことについて考えていた。
どのような過程を辿ろうと結局は"どうしようもなく馬鹿な私は早急にこの世を去るべき"という結論に行き着くだけなのだから全くの無駄だ。
どのような過程を辿ろうと結局は"どうしようもなく馬鹿な私は早急にこの世を去るべき"という結論に行き着くだけなのだから全くの無駄だ。
………?
…………馬鹿。
「………………………………"馬鹿"、ねぇ」
口に出して、先程より強い違和感を覚える。
ならばと紙面に書くと、違和感は寒気となって背筋を伝った。
ならばと紙面に書くと、違和感は寒気となって背筋を伝った。
そこには、ウマ偏を横に伸ばした漢字が書かれていた。
「…書き間違えたか」
という希望は私の走法研究のノートに大量に書かれた『馬場』という単語によって打ち砕かれる。
学校で習う"ウマ娘"を表す漢字は下の点が二つ。四つの漢字など一度も習ったことがない。
使い分けや字の癖なんてものじゃなく、私はこの二つの漢字を"完全に同一のものとして認識していた"。
学校で習う"ウマ娘"を表す漢字は下の点が二つ。四つの漢字など一度も習ったことがない。
使い分けや字の癖なんてものじゃなく、私はこの二つの漢字を"完全に同一のものとして認識していた"。
ウマ娘の二本足が二つの点で表されるなら、この四つの点はもしや…………?
…気づいてない奴に教えたらどうなるんだろ?
「ヘェイ同室ぅ!ちょっとこの文字読んでくれない!?」
「うっせえな…今何時だと思ってんだ……」
…あ、11時回ってる。
「…申し訳ない」
このようなミスをこのループだけで既に8回目も繰り返しているあたり、やはり私は碌なウマ娘じゃない。そんなことを考えながら明日の出走に備えて大人しく床に就き、黒い手の夢を見た。